[#表紙(表紙.jpg)] 紅塵 田中 芳樹 目 次  第一章 江南《こうなん》冬《とう》雨《う》  第二章 密命  第三章 黄天蕩《こうてんとう》  第四章 渡河  第五章 燕京《えんけい》悲歌《ひか》  第六章 趙王府《ちょうおうふ》  第七章 莫《ばく》須《す》有《ゆう》  第八章 前夜  第九章 采石《さいせき》磯《き》  第十章 長江無尽《ちょうこうむじん》 [#地図(地図.jpg)] 第一章 江南《こうなん》冬《とう》雨《う》     一  低く垂《た》れこめていた雲の一部が割れて、初冬の陽《ひ》が一条の光を地上へ投げ落とした。だが天候が回復したわけではなく、細い冷たい雨滴の列が灰色の線となって天と地とをつなぎつづけている。  朱色の欄干《らんかん》ごしに、男は雨をながめていた。年齢は五十歳前後であろう。まとった絹の袍《ほう》には、竜を図案化した刺繍《ししゅう》がほどこされている。「袞龍《こんりゅう》の袍」と呼ばれ、地上で彼ひとりが着ることを許されるものであった。男の姓は趙《ちょう》、名は構《こう》、字は徳《とく》基《き》。死後、宋の高宗《こうそう》皇帝と呼ばれるようになる。  宋の高宗の紹興《しょうこう》二十五年(西暦一一五五年)十月。首都|杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》はめずらしく陰気な雨に閉ざされている。長江《ちょうこう》の南、銭塘江《せんとうこう》の河口にのぞむ温暖の地で、港には中国と諸外国との船があふれ、市場には米と肉と魚と果実とが積みあげられ、人口は増加をつづけて百万にも達しようとしている。陸路から水路から、人と物資とが集まり、街路を歩けば大食《アラビア》や波斯《ペルシャ》から渡来した人々と肩がぶつかりあう。隋《ずい》の時代から商都として繁栄し、白楽天《はくらくてん》や蘇《そ》東《とう》坡《ば》のような文人が、この地の風光を愛してやまなかった。この城市《まち》が同時に政治の中心となったのは、まさに彼、宋の高宗の御宇《みよ》である。高宗は宋の第十代の天子、そして杭州を首都とする南宋《なんそう》の初代の天子であった。  高宗は待っていた。ここ十数日、ひたすら待ちつづけていた。平静をよそおうためには、すくなからぬ努力を必要とした。だが、待つのは彼の特技だった。二十年間、待ちつづけてきて、ここ十数日が最後の局面だった。解放の日は目前にあった。  ひそやかな足音が背後におこって、高宗は全身を緊張させた。十歩ほどの距離をおいて、みがかれた石の床に人影がひざまずいた。 「陛下、陛下!」  呼びかける声は、奇妙に高い。黒《こく》衣《い》黒帽《こくぼう》の服装からも、髭《ひげ》のまったくない年齢不明の容貌からも、その人物が宦官《かんがん》であることがわかる。  ゆっくりと高宗は振りむいた。陰気な雨の幕を背おって、天子の顔は灰色に沈んでいる。その表情をさぐりながら、宦官は、小さいが高い声で報告した。 「丞相《じょうしょう》はつい先刻、息を引きとりましてございます」  瞬間、高宗の表情は空白だった。つづいてそれは激しく変化した。まさしく彼が待ちつづけていた報告であった。鼓動がとどろきとなって高宗の体内を満たした。彼は呼吸をととのえ、声を発した。自分のものとは思われぬかすれた声を、彼の耳は聴《き》いた。 「たしかじゃな、その報は」 「万にひとつもまちがいございませぬ。丞相|秦檜《しんかい》は六十六歳をもって薨《こう》じましてございます。おっつけ正式の訃《ふ》報《ほう》がまいりましょう」  宦官の視線が、ふたたび皇帝の表情をさぐった。いまではそれは、自《じ》失《しつ》に近い安《あん》堵《ど》に落ちついていた。音もなく皇帝の身体が揺れた。 「陛下!」  宦官の声に狼狽《ろうばい》の気配がまじった。高宗の身体が床にくずれおちたからである。あわてて近よろうとして、宦官は立ちすくんだ。床にへたりこむと、調子のはずれた声で、高宗は笑いだしたのである。 「ははは……そうか、死んだか、死におったか」  笑顔は、だが快活さとは無縁のものであった。悪い酒に酔ったかのように顔がほてり、汗の流れが光った。 「死におった。秦檜めが死におった。だが、予《よ》はまだ生きておるぞ。予の勝ちじゃ。予が勝ったのじゃ!」  つつましげに沈黙を守る宦官の前で、高宗は床に掌《てのひら》を打ちつけた。それが不意にやんで、高宗は床から身をおこした。 「誰じゃ、そこにおるのは!」  高宗が睨《にら》みつけたのは一枚の屏風《びょうぶ》であった。絹が張られ、雲《うん》母《も》と瑪《め》瑙《のう》をもって花鳥図が描かれている。その蔭《かげ》に何者かが身をひそめていた。動かした身体が屏風にあたって音をたてたのである。奇声を発して宦官が飛びあがり、小走りに屏風へと近よる。観念したように、その人物が姿を見せた。  高宗の侍医をつとめる王継先《おうけいせん》であった。つややかな頬《ほお》と細い髭とが、わずかに慄《ふる》えている。ひざまずき、何やら弁明をはじめようとしたが、立ちあがった高宗は冷然と決めつけた。 「継先よ、予のことを誰に知らせるつもりか」 「は、な、何のことやら臣《しん》にはいっこうに……」 「そなたを飼っていた丞相は、すでに死んだ。痴者《しれもの》め、予が知らずにいたと思うか!」  王継先は色を失った。皇帝に見ぬかれたとおり、彼は丞相の密偵であった。侍医という職権を利用して、彼は、高宗の言動や健康状態を丞相に知らせていたのである。天子でありながら、高宗は、丞相に監視される身であった。だが、その屈辱も今日で終わりである。 「お、お赦《ゆる》しを、陛下」  王継先は床にはいつくばった。恐縮と後侮との象《しるし》に、彼は床に額《ひたい》を打ちつけた。耳ざわりな音に、泣かんばかりの弁明がつづいた。 「すべては丞相より強要されてのことでございます。臣は身分ひくく力よわき者なれば、丞相の専横《せんおう》に逆らう術《すべ》もございませなんだ。逆らえば臣の生命はなかったでございましょう。何とぞお赦しを」  不快げに眉《まゆ》を傾斜させて、高宗は侍医の狂態をながめていたが、やがて手を振った。 「行け。咎《とが》める価値もないわ」  何かいおうとして口を封じられ、侍医はみじめに退出していく。その背に、宦官が声を投げつけた。「追って御沙汰《ごさた》がございましょうぞ」——出すぎた行為に見えるが、むしろ宦官は侍医を気の毒に思ったのであろう。  ——権力とは滑稽《こっけい》なものだ。  高宗はそういう感慨をいだいたかもしれぬ。だが滑稽さを自覚しつつも、それを放棄しようとは思わなかった。放棄するどころか、高宗にしてみれば、ようやくそれを手中におさめた思いである。およそ二十年の長きにわたって、宋の最高権力は、皇帝の手にはなかった。それは丞相(宰相)たる秦檜の手中にあった。皇帝の名のもとに、秦檜が独裁権力をふるいつづけ、文武百官は声をのんで彼に服従したのだ。  否《いな》、百官どころか天子でさえもそうであった。  高宗は宋朝第八代の天子|徽《き》宗《そう》皇帝の九男である。上に八人もの兄がおり、本来は玉座《ぎょくざ》にすわるべき機会はなかった。それが至《し》尊《そん》の地位をえることができたのは、巨大な災厄《さいやく》が中華帝国をのみこんだからである。血まみれの狂濤《きょうとう》から彼ひとりが脱出することができたのだ。  徽宗皇帝の宣《せん》和《な》七年(西暦一一二五年)、北方より金《きん》国の大軍が鉄の奔流《ほんりゅう》となって南下し、首都|開封《かいほう》を占拠した。国難に対して無為無策であった徽宗は、翌年、皇太子に玉座をゆずって退位し、上皇《じょうこう》となる。即位した皇太子は、その年を靖康《せいこう》元年と改元する。これが欽宗《きんそう》皇帝である。彼は国の建てなおしを図《はか》ったが、靖康二年(西暦一一二七年)、父とともに金軍の虜囚《りょしゅう》となり、はるか三千里の彼方にある五《ご》国《こく》城へつれさられた。歴史上これを「靖康の難《なん》」と呼ぶ。そのとき、徽宗上皇は四十六歳、欽宗皇帝は二十八歳。そして戦火と混乱のただなか、金軍の追跡からのがれて長江を渡った高宗は二十一歳であった。  こうして高宗は天子となったのだが、彼の即位の正統性について疑問視する声は絶えなかった。兄の欽宗は生存しており、正式に退位してはいないのである。紹興二十五年になっても、欽宗は、荒涼たる北方の原野で抑留《よくりゅう》生活を送っており、すでに五十六歳となっていた。むろん彼は帰国を望んでやまなかったが、再建された宋の朝廷は、それを望まなかった。いまさら欽宗に帰還されても、こまるのである。  むろん、もっともこまるのは高宗である。  多くの犠牲をはらって宋と金との間に和約が成立したとき、皇太后(徽宗の皇后)韋氏《いし》は夫の遺体とともに帰国することができた。異境にとりのこされることになった欽宗は、涙ぐんで皇太后に訴えた。 「帰国したら、弟と丞相とに伝えて下さい。私はふたたび帝位に即《つ》こうなどとは思っていない。太乙宮使《たいいつきゅうし》にしてもらえれば充分です」  太乙宮使とは道教寺院の役職である。それになりたい、というのは、仏教でいうなら出家して俗界と縁を切る、ということである。三千里をへだてて、欽宗は弟の心理を正確に洞察していた。どれほど広大な国であろうと、玉座《ぎょくざ》には、ひとりがすわるだけの余地しかないのだ。帝位などいらない、帰国さえできれば欽宗は満足だった。  帰国した皇太后は、何とか欽宗の希望を高宗に伝えようとした。高宗は皇太后を鄭重《ていちょう》にあつかったが、めったに会うことはなく、会っても兄のことを話題に出すことは一度もなかった。無言と無視とが、高宗の意思表示であった。皇太后は口を封じられた。北方の荒野に抑留されたままの欽宗を憐《あわ》れに思いつつも、どうする術《すべ》もなく、やがて皇太后は亡《な》くなった。  高宗は権力のために兄を見すてた。といって、非情に徹することもできず、内心に後味の悪さをかかえこみ、それが負担となって彼を心楽しませなかった。そのことを秦檜は承知していた。高宗が彼に逆らおうとすると、秦檜は薄く冷たく笑う。その笑いは高宗をひるませる。高宗の想像のなかで、秦檜はささやくのだ。 「私を追放なさるなら、どうぞご自由に。ですがそのときは陛下も道づれですよ。陛下が兄君のご帰還を望んでおられず、私に命じて金国と交渉するよう命じられたこと、天下に知れまするぞ」  さらに秦檜のささやきは続く。 「そうなれば陛下は天下の信を失います。むろん私が追放されれば、金国が黙ってはおりませんよ。和平条約が破られたとみなし、大軍をもって国境を突破してまいりましょう。陛下はおそれおおくも玉座と、それ以上に貴重なものを失われることになります。そして金国は陛下の兄君を幽囚から解《と》き放ち、傀儡《かいらい》の皇帝として推《お》したてることでしょうな」  声のない笑いが高宗をたじろがせる。 「考えてみれば、もともと玉座は兄君のものでございました。陛下はそれを横どりなさったも同様。道義的に陛下は簒奪《せんだつ》者であらせられる。悔《く》いあらためて帝位を返上なさるべきかもしれませぬ。だができるはずがございませんな、ふふふ……」 「悪魔め」と、高宗は喚《わめ》きたかったであろう。だが秦檜を否定することは、高宗自身の正統性を否定することであった。秦檜を憎悪しつつい高宗の生きる道は、彼との共存しかなかったのだ。それはしかたがない。だが高宗が心配するのは将来のことであった。高宗の皇太子は幼くして死亡していた。 「もし予が死ねば、誰をつぎの皇帝とするか、秦檜めの思いのままであろう。予には男子がおらぬからな。だがそこまで奴の思いのままにはさせぬぞ。かならず奴より長生きしてやる」  こうして十八年にわたり、皇帝と宰相との暗闘がつづくことになる。中華帝国の歴史上、例を見ぬ奇怪な君臣の関係であった。  普通に考えれば、高宗が必死になる必要はない。秦檜は高宗より十七も年長であり、それだけ早く死ぬはずであった。だが秦檜の異様な生命力は、高宗をおびえさせた。六十歳をこえても、秦檜の細長い身体と痩《や》せた顔には奇妙な精気があふれ、髪も黒く艶やかで、老人とは思えなかった。彼は若いころ「秦長脚《しんちょうきゃく》」と呼ばれていた。「足長の秦」という意味だが、背を伸ばした彼が長い肢《あし》を交互に投げ出すように歩む姿を見ると、高宗は威圧され、鼓動が早まるのをおぼえた。彼が犯した罪——不幸な兄から帝位を横取りし、無実の者を獄中で殺したという罪が、陰気な灰色の影となって彼に追ってくるのだ。  南宋の天子たる者が臣下に怯《おび》えている。その事実は万人の目に明らかだった。 「秦檜はいずれ簒奪するだろう」  と、金国では見ていた。外部から秦檜の権勢と専横とをながめていれば、そうとしか見えない。  だが秦檜が簒奪するはずはなかった。彼は皇帝に寄生していた。自分でそのことを承知していながら、いささかの引けめもないのが、秦檜という男のすさまじい魔力であった。  内心はどうあれ、表面的には高宗と秦檜は協調して国を統治していった。多くの犠牲をはらったものの、とにかくも和約が成立したので、南宋の内政と経済は急速に充実していった。官僚制度や税制度の改革がおこなわれ、荒地が開拓されて水田となり、運河や用水路が整備された。あたらしい貨《か》幣《へい》も発行され、短期間のうちに南宋は富み、豊かになった。有名な「白蛇伝《はくじゃでん》」の伝説はこの時代を舞台にしており、南宋の富を集める杭州臨安府の栄華と洗練を語ってやまない。  むろん秦槍の牙《きば》は丸くなってはいなかった。  秦檜の孫である秦※[#「土+員」、unicode5864]《しんけん》が科《か》挙《きょ》の試験を受けたときのことである。彼はたしかに秀才であったから、首席で合格するものと思われていた。ところが一次試験が終わってみると、秦※[#「土+員」、unicode5864]の成績は次席であった。彼を上まわる秀才がいたのである。首席となった人物の名を陸游《りくゆう》といった。  孫をおさえて首席となった陸游を、秦檜は赦さなかった。陸游は秦※[#「土+員」、unicode5864]ひとりだけでなく、秦一族すべてに恥をかかせたのである。秦檜は手をまわし、殿《でん》試《し》(科挙の最終試験)において、自分の孫を首席で合格させた。そして憎むべき陸游を落第させてしまった。 「奴め、一生浮かびあがれぬようにしてやるぞ。秦一族に恥をかかせた罪を思い知れ」  それが秦檜の思考法であり、やりくちであった。べつに悪いことをしたとは思わない。秦一族の権勢と栄華こそが正義であり、妨害する者こそが悪であった。  後に陸游は南宋一代を代表する詩人として不朽《ふきゅう》の名を残すことになるが、この落第が崇《たた》って、政治的にも経済的にもめぐまれぬ人生を送る|はめ《ヽヽ》になる。  陸游ひとりではない。およそ秦槍に反対した者、秦檜と論争をして勝った者、秦檜の命令にしたがわなかった者は、ことごとく宮廷を追われ、辺境に流された。当代に比類なき、秦檜は独裁者であったのだ。  その秦檜が死んだ。ついに死んだ。  大声で高宗は叫んでまわりたかった。彼は自由を得たのだ。いまや彼を脅迫し抑圧し支配しようとする者は誰もいなかった。  ……訃報をもたらした宦官を賞して帰した後、高家は半刻ほども放心していたようであった。我に返ったのは、霧雨が冷たく湿った掌《てのひら》で、彼の顔をひとなでしたからである。風の方向が変わり、灰色の雨が宮殿内に吹きこんできたのだ。  床にすわりこんでいた高宗は、自分でも意味不明の独語《ひとりごと》をつぶやきながら立ちあがった。同時に全身をこわばらせた。視線の先にひとりの男がいたからだ。 「少師《しょうし》か、何用あってまいった?」  その男は秦檜の長男|秦《しん》※[#「火+喜、unicode71BA]《き》であった。四十代半ばの痩せた男で、少師の地位を得ている。皇帝に対してうやうやしく礼をほどこしたが、それは形だけのことであった。秦※[#「火+喜、unicode71BA]が尊敬するのは偉大な父親だけであったのだ。そして彼が口にした台詞《せりふ》は高宗の意表をついた。 「父亡き後、丞相の座は、当然、長男である臣《わたくし》めが相続できると存じますが、いかがでございましょうか」  まじまじと高宗は秦※[#「火+喜、unicode71BA]を見つめた。  ——何という奴だ。親が親なら子も子だ。  嘔《おう》吐《と》したくなるほどの嫌悪感を、高宗はおぼえた。  秦檜は皇帝を脅迫して権勢をほしいままにした姦臣《かんしん》であった。そう高宗は思っている。だがとにかく秦檜は自分自身の実力と功績によって、無名の一|廷臣《ていしん》から丞相となったのだ。秦※[#「火+喜、unicode71BA]は多くのものを父親から譲られた。地位も権勢も富も。だが譲られなかったものもある。彼は父親から、皇帝を支配する一種の魔力を譲られなかった。秦檜は体内に底知れぬ深淵《しんえん》をかかえこみ、多くの人間を引きずりこんで溺《おぼ》れさせた。国家や時代そのものを呑みこむほどの深淵であった。それが秦※[#「火+喜、unicode71BA]には欠けている。苦労知らずの二代めであるにすぎない。  高宗は表情と声をととのえた。 「そなたの父親は国家に大功をたてた。よって予はそなたの父親に王の称号を贈ることにしておる」 「臣下として身にあまる光栄でございます」  そう秦※[#「火+喜、unicode71BA]は答えたが、口調のどこかに傲慢《ごうまん》さがある。そのていどの礼遇は当然のことだ、と思っているようであった。高宗の口もとがわずかに歪《ゆが》んだ。復讐の快感が、声となって彼の口からすべり出た。 「で、そなたは国家にどのような功をたてたのだ?」  秦※[#「火+喜、unicode71BA]の反応は鈍かった。不審そうに、彼は皇帝を見かえした。思いもかけぬ反応であったのだ。だが、父の力を自分の所有物と信じこんでいた凡庸《ぼんよう》な男も、皇帝の表情を見つめるうちに、すべてをさとった。秦※[#「火+喜、unicode71BA]は蒼《あお》ざめ、慄《ふる》えだした。残忍なまでに勝利の表情をむきだして、高宗は彼をながめやっていた。     二  杭州臨安府の城外に西《せい》湖《こ》という湖水がある。城の西にあるから西湖、という安易な命名がなされたのだが、やがてその名は、地上でもっとも美しい風景を意味するようになった。  太《たい》古《こ》、この湖は海の一部として湾を成していたが、しだいに土砂が積もって海と切りはなされ、とり残された形で淡水の湖となったという。積もった土砂が平野をつくり、その上に杭州の城市《まち》ができた。杭州という名がついたのは隋の文帝《ぶんてい》の時代で、宋の高宗から見わば五百年以上も往古《むかし》のことである。杭州の市街と西湖とは、いわば兄弟の仲で、たがいを切りはなすことはできない。  西湖の美しさは、歴代の文人によって描写され、絶讃されている。ことに唐の白居《はくきょ》易《い》(白楽天)と宋の蘇軾《そしょく》(蘇東坡)が有名だが、この両者はもともと杭州の知事として赴任してきた官僚政治家であった。彼らは杭州という土地を愛し、すぐれた行政手腕の所有者でもあった。白居易は西湖の堤防を改修して貯水量をふやし、水門を整備して水田への放水を調節した。さらに水利にかかわる地主の不正をとりしまり、西湖の治水・水利について精密な研究記録をのこした。それから二百五十年後、蘇軾は白居易のつくった水門が失われていたのを再建し、用水路を改修し、湖底に大量にたまっていた泥を浚渫《しゅんせつ》した。そしてその泥を積んで西湖の南北をつなぐ堤を築き、そこに柳の並木を植えて散歩の路《みち》をつくったのである。これが千年後まで「西湖十景」のひとつとして残る「蘇《そ》堤《てい》」である。さらに、杭州一帯に飢《き》饉《きん》がおこったとき、ただちに租《そ》税《ぜい》の免除をおこない、官《かん》庫《こ》をひらいて米を放出し、何百万人もの民衆を飢餓から救った。  白居易や蘇軾が任期を終えて杭州を去るとき、何万人もの民衆が道の両側に並んで別れを惜しんだ。両者は不滅の名をのこす文人であると同時に、良心的で有能な政治家であったのだ。  彼らが心血《しんけつ》をそそいで整備した西湖の岸を、ひとりの青年が騎《き》行《こう》していた。背が高く、眉が濃く、精悍《せいかん》な顔つきで、腰に剣をおび、簡単な旅装をしている。  青年の姓は韓《かん》、名は彦直《げんちょく》、字は子《し》温《おん》という。紹興二十五年に二十八歳であった。官人である。官は浙東《せっとう》安《あん》撫司《ぶし》主管《しゅかん》機宜《きぎ》文《ぶん》字《じ》といささか長い。要するに、臨安府からすこし離れた地方の役所で秘書官をつとめていた。科挙に合格した文官だが、体格や身ごなしはむしろ武官のものに見える。  頭上にひろがる鉛色の冬空を切り裂いて、鳥の群が飛んだ。遠く黄《こう》河《が》の北から飛来した雁《かり》であろう。それを見送ってさらに子温は馬を進めた。  西湖の南北両岸には、相対するようにふたつの塔が高々とそびえている。北岸の塔を保俶塔《ほしゅくとう》といい、南岸の塔を雷峰塔《らいほうとう》という。保俶塔はすらりと細長く、天にむけて剣を突きあげるかのようである。雷峰塔は角ばって箱を思わせる。それぞれ形は異《こと》なるが、近世中国の建築技術をきわめた美しい塔であり、西湖の風光の一部として、完全に溶《と》けこんでいるのだった。  保俶塔の尖鋭にして優美な姿を左手に見あげながら、子温は、馬の歩みをゆるめた。いかに温暖な江南《こうなん》とはいえ、冬の雨あがりとあっては吐く息も白い。砂を敷きつめた道はゆるやかに曲折しながら、落葉した林の間へとはいっていく。途中で左右に別れた道を左へ折れて、さらに進むと、子温は目的地に着いた。四年ぶりの訪問だが、まちがうはずもない。柴を粗《あら》く組んだ低い塀の一部が見え、門札が彼を迎えた。 「翠《すい》微《び》亭《てい》」  門札の文字はそう読めた。木製の古びた門《もん》扉《ぴ》は開かれたままで、門番らしき者も見あたらない。  馬からおり、手綱をとって、子温は門内に歩みいった。造園らしいことはなされておらず、竹林のなかを細い道がめぐっている。その道がつきたところに、質素だが頑丈そうな平《ひら》屋《や》があり、地面から三段ほどあがった入口に、ひとりの老婦人がたたずんでいた。子温は湿った土にひざをついて一礼した。 「母上、彦直でございます。お久しゅう」  すると、老婦人は端整な顔をほころばせ、なまじの男より豪快に笑った。 「何が母上だい、気どるんじゃないよ。さっさとお立ち。まったく、科挙に合格したら言葉づかいまで変わるもんかね。ここは宮廷じゃないんだ。阿母《かあちゃん》とお呼び」 「かなわんなあ、阿母《かあちゃん》には」 「ほら、さっさとおはいり。阿爺《とうちゃん》の遺影にあいさつするんだよ」  子温の母は、姓を梁《りょう》、名を紅玉《こうぎょく》という。中華帝国においては伝統的に夫婦が別姓で、したがって母と子の姓も異なる。居間の壁に、甲冑《かっちゅう》をまとった堂々たる武将の画像がかけられており、それに礼をほどこしてから、子温は卓についた。 「このたび光禄寺丞《こうろくじじょう》を拝命し、杭州への帰還がかなったのでね」  寺《じ》とは仏教寺院ではなく官庁を意味する。光禄寺とは宮中の宴《うたげ》や食事をつかさどる官庁で、丞は長官の補佐官である。たかが宴会係、というわけにはいかない。宮中の宴会が重大な国事であることは、後世においても同様であった。しかも光禄とは漢《かん》帝国の時代には皇宮全体の防衛・警備をつかさどる職であったから、子温の時代にもそのような一面があった。 「臨安府《みやこ》に呼びもどしていただいたのかい。それはよかったこと」 「おれだけではないのさ。おもだったところで二十人以上の人たちが臨安府へ帰れることになった。世のなかが変わったのだよ」  子温の声がはずんだ。 「世は変わるものではないさ。人が変えるのだよ。いったい宮廷で何があったのだい」  そう問いはしたが、梁紅玉の胸中にはすでにひとつの推測があり、心がまえができていたようである。子温の返答にもおどろかなかった。 「まだ公表されてはいないがね、秦丞相が亡くなった」 「おや、とうとうあの奸物《かんぶつ》が死んだのかい。それはめでたいこと」  落ち着きはらって、そういった。 「騒ぐこともないさ。人は死ぬものだ。お前の阿爺《とうちゃん》も亡くなった。丞相がいかに奸物でも、閻《えん》羅《ま》王《さま》をだまして不死でいられるわけもないだろうよ」  だが、落ち着きを押しのけるほどの喜びがこみあげてきたようだ。勢いよく、息子のたくましい肩をたたいた。 「お前の阿爺《とうちゃん》が泉下《あのよ》でこのことを知ったら、手ぐすねひくだろうね。丞相がやってきたら、襟首《えりくび》をつかんで鉄拳《てっけん》のひとつもくれてやるだろうさ。見物できないのが残念だね」  子温の父は韓世忠《かんせいちゅう》という。姓は韓、名は世忠、字は良臣《りょうしん》。南宋初期の武人であり、「抗金名将《こうきんのめいしょう》」のひとりである。  中国の歴史書や人名事典を見ると、しばしば「抗金名将」という表現に出あう。「抗金の名将」。つまり十二世紀、金国の侵攻に抵抗して戦った宋の将軍たちを指《さ》す表現である。彼らはただ宋代の名将であったというだけではなく、異民族の侵略に対して抵抗した漢民族の英雄として、後世にいたるまで民衆に愛され、詩や小説や戯曲の主人公として親しまれた。名をあげるとつぎのような人々である。  岳《がく》飛《ひ》 韓世忠《かんせいちゅう》 劉《りゅうき》 呉《ご》※[#「王+介」、unicode73A0]《かい》 呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》 宗沢《そうたく》  この他にも、当時、実力のある武将はいた。  張俊《ちょうしゅん》 劉光世《りゅうこうせい》  ただ、これらの人々は実力はあったが、貪欲《どんよく》で私腹を肥《こ》やしたり、他人をおとしいれたり、部下に掠奪《りゃくだつ》暴行をさせたり、といった負《ふ》の側面があり、民衆に愛される資格を欠いていたようである。  ことに張俊の評判は悪い。彼はもともと盗賊であったが、義勇軍に身を投じて金軍と戦い、多くの武勲をあげた。勇猛で統率力もあったが、物欲が強く、しばしば金軍よりひどい掠奪をおこなって私腹を肥やした。それだけならまだしも、秦檜と手を結んで、主戦派の岳飛を無実の罪におとしいれ、獄中で殺害した、という点が、決定的な悪名を歴史上に残すことになった。  その張俊らと肩をならべる実力者になるまで、韓世忠の歩んだ道はけわしかった。彼は西北方の辺境に生まれ、少年のころから軍に身を投じた。馬術の天才で膂力《りょりょく》が強く、十代のうちに武芸の達人となり、戦場で武勲をかさねた。王淵《おうえん》という将軍が彼を認めてくれた。 「万人《ばんにん》の敵、とは、おぬしのような人物を指していうのだろうな」  感歎した王淵は、韓世忠にかなり多額の銀子《かね》を恩賞として手わたした。「万人の敵」とは、三国時代の関《かん》羽《う》や張飛《ちょうひ》に対する呼称である。韓世忠の豪勇は、彼らに匹敵するものと思われたのだ。  多額の銀子をもらった韓世忠は、それを部下の兵士や戦死者の遺族に分配してしまった。自分は馬と甲冑を買いかえただけであった。 『宋史・韓世忠伝』には「義を嗜《たしな》み財を軽んじ、軍を持《じ》すること厳重にして士《し》卒《そつ》と甘《かん》苦《く》を同じうす」とある。兵士たちをいつくしみ、一方では軍規が厳正で、兵士と民衆の信望はきわめて厚かった。  その後、「方臘《ほうろう》の乱」がおきた。江南全土を巻き込むほどの大|叛乱《はんらん》で、『水《すい》滸《こ》伝《でん》』にも記されている。徽宗皇帝の失政に摩尼《マニ》教徒の信仰や方臘という人物の野心がからみ、天下をゆるがす動乱となった。このとき叛乱軍がどれほど強かったかというと、『水滸伝』に登場する梁山泊《りょうざんぱく》の義賊百八人が討伐のために出征し、そのうち三分の二が戦死あるいは戦病死してしまったほどなのである。  討伐の官軍も苦労したが、さらに苦しんだのは民衆であった。官軍の規律はきわめて悪く、民家を掠奪し、婦女に暴行を加え、民衆を殺して首をとり、それを賊兵の首だと称して恩賞を要求する、というありさまだった。その光景を見て腹をたてながらも、韓世忠は奮戦した。方臘の本拠地は山中の巨大な洞窟のなかにあって、清渓※[#「山+同」、unicode5CD2]《せいけいどう》と呼ばれていた。そこは巨大な地下要塞であると同時に、壮麗な地下宮殿でもあった。少数の兵をひきいて、韓世忠は洞窟に潜入し、外部の官軍と呼応してついに陥落させたのである。  それほどの武勲をたてたのに、叛乱が平定されても、韓世忠にはまったく恩賞がなかった。辛興宗《しんこうそう》という将軍が、彼の武勲を横取りしてしまったのだ。それほど当時の官軍は腐敗していたのだが、事情を知ったべつの将軍が取りはからってくれて、韓世忠は承節郎《しょうせつろう》という低い地位をもらうことができた。 「勇は三軍に冠たり」  とも『宋史・韓世忠伝』は記す。これは『蜀志《しょくし》・黄忠《こうちゅう》伝』にある表現をほぼそのまま使ったもので、要するに韓世忠は、『三国志』に登場する神話的な英傑たちと同列である、と認められたのだ。  方臘の乱が終結した後、平和は三、四年しかつづかなかった。北方に剽悍《ひょうかん》な女真《じょしん》族が興《おこ》り、遼《りょう》を滅ぼし、さらに南下して宋を襲ったのである。女真族は王朝をたて、「金」と称した。  十七年間にわたって、韓世忠は金軍と戦いつづけた。しばしば勝利をえて、ついに彼は「枢密《すうみつ》使《し》」にまで出世した。これは宋帝国軍最高司令官ともいうべき高い地位で、文官であれば宰相に匹敵する。だがその直後に、韓世忠は軍の指揮権を皇帝に奉還し、ほどなく枢密使の地位も返上して隠退した。世を捨てたのである。彼は「清涼《せいりょう》居士《こじ》」と自称し、西湖のほとりに翠《すい》微《び》亭を建てた。このとき知人のひとりが忠告した。 「翠微は衰微に通じます。あまりよい名とは思えませぬが」  すると韓世忠は答えた。 「岳鵬挙《がくほうきょ》が生前、遵池州《じゅんちしゅう》の翠微亭という場所を見て、その風光の清澄なことを賛《たた》えていた。それを想いだして同じ名をつけたのだが」 「ではますますあぶない。丞相に無用の疑いをかけられますぞ」  岳鵬挙とは、韓世忠の戦友であった岳飛のことだ。丞相秦檜によって無実の罪を着せられ、獄中で殺害されたばかりであった。 「丞相?」  韓世忠の声にこめられた侮《ぶ》蔑《べつ》のひびきは、隠しようもなかった。知人は赤面して引きさがった。  生涯を戦場ですごし、無名の一兵士から枢密使、咸安郡王《かんあんぐんのう》、鎮南《ちんなん》・武《ぶ》安《あん》・寧国《ねいこく》三節《さんせつ》度使《どし》にまで出世した男は、五十歳をすぎて静穏な生活にはいった。妻の梁紅玉と、十人ほどの家《か》僕《ぼく》とが彼とともに翠微亭に住んだ。  韓世忠は戦場で金軍の毒矢にあたり、その後遺症で両手の指のうち六本が動かなくなった。神経が傷ついたのであろう。その不自由な手に釣竿《つりざお》をにぎって、韓世忠は毎日、西湖に釣に出かける。驢馬《ろば》に乗り、童子をひとりおともにして。童子は大きな酒瓶を肩にかついでいる。杭州一帯は米と水にめぐまれ、酒の産地としても知られた。「紹興酒」は、まさにこの時代、紹興年間にはじめてつくられた酒であったという。  世を捨てても、いっさいの交際を断ったわけではない。ときとして客人が訪れ、歓談の時をすごした。だがどれほど話がはずんでも、どれほど酔っても、韓世忠の口から軍事が語られることはなかった。息子である子温にも文官になるよう勧《すす》め、子温が科挙に合格したときには老顔をほころばせた。しだいに仏教や道教に関心を持つようになった。臨安府《みやこ》の城門をくぐることもなかったが、ただ一度、皇太后|韋氏《いし》が夫たる徽宗皇帝の遣体とともに帰国したとき、参上して拝謁《はいえつ》している。自分たちの働きで徽宗や欽宗を救出できなかった、それが韓世忠にとって生涯の痛恨であった。死の床についたとき、彼は周囲の人々をなぐさめた。 「わしは貧しい庶民として生まれ、百戦を経《へ》て王侯の地位を得た。戦場で首をとられることもなく、わが家で死ぬことができる。これほど幸福な死はないのに、諸君は何を哀《かな》しむのか」  そう語ると、ゆったりした微笑を浮かべ、ほどなく息を引きとった。紹興二十一年(西暦一一五一年)八月、韓世忠は六十三歳であった。  彼の訃《ふ》報《ほう》を受けて、高宗は無言であったが、やがて詔《みことのり》が下って、韓世忠は太《たい》師《し》の称号を受け、通《つう》義《ぎ》郡王《ぐんのう》に封じられた。皇族でない者にとっては最高の名誉であった。この処遇に対して、秦檜はべつに反対はしなかったが、宮廷づとめの子温を臨安府《みやこ》から追い出し、地方官にしてしまった。秦檜の死で、ようやく子温は臨安府に呼びもどされたのだ。  清涼《せいりょう》居士《こじ》。  その自称こそ、亡き父にふさわしい。子温はそう思う。太師だの郡王だのというきらびやかな称号に、武《ぶ》骨《こつ》な父はさぞ照れることであろう。  梁紅玉は「真珠泉《しんじゅせん》」という銘酒の瓶を卓においた。息子と自分自身のためにであった。     三  梁紅玉はこの年、五十八歳である。頭髪こそ白くなっていたが、年齢よりはるかに若々しく見えた。女性としては長身で、背すじもまっすぐ伸び、頬は艶やかで、何よりも両眼には生気あふれる光があった。かつて彼女は江南でも屈指の美女といわれたが、いまでもその評判は人をうなずかせるだろう。  ただ、深窓《しんそう》の楚々《そそ》たる美女ではない。彼女は庶民の家に生まれた。前半生は芸妓《げいしゃ》であった。後半生は数万の兵を指揮し、馬上で剣をふるう女将軍《じょしょうぐん》であった。母の生涯を思うと、子温は、自分は何とすごい両親を持ったことかと、半ばあきれてしまう。  梁紅玉と韓世忠とがはじめて遇《あ》ったのは、徽宗皇帝の御宇《みよ》、宣和三年(西暦一一二一年)のことだといわれている。韓世忠は三十三歳、梁紅玉は二十四歳であった。  梁紅玉は長江の下流、大運河ぞいの町|淮安《わいあん》に生まれた。九百年後にも、故郷の町には彼女の廟《びょう》が残っている。少女のころ、淮安の一帯に兵乱がおこった。彼女は戦火を避けて長江を渡り、京口《けいこう》の城市《まち》で生活するようになった。京口は後世、鎮江《ちんこう》と呼ばれるようになる城市で、長江下流の重要な軍事拠点である。港には軍船がむらがり、街には官軍の将兵があふれていた。そしで彼らを顧客とした酒楼《しゅろう》、勾欄《えんげいじょう》、歌館《ゆうかく》などが繁盛をきわめていた。  親を失った梁紅玉は、歌館の一軒で修業して芸妓《げいしゃ》になった。美しく、利発で、歌も舞も楽器もうまかった梁紅玉は、たちまち随一の売れっ子になった。その間に弓や剣などの武芸も学んだのは、何やら心に期することがあったようだ。そして、店で韓世忠と出会ったのである。  梁紅玉は京口一の美姫で、彼女を望む上級官人、将軍、民間の富豪は両手の指にあまる人数である。申し出にうなずけば、その日から彼女は何ひとつ不自由ない生活を送れるはずであった。  いっぽう韓世忠はといえば、無名の一兵士にすぎなかった。劉廷慶《りゅうえんけい》や王淵といった将軍たちのもとで武勲をかさね、「武《ぶ》節郎《せつろう》」という地位をえているが、下級の士官であるにすぎない。俸給も安い。おまけに粋《いき》とは縁のない武骨な男で、梁紅玉の美しさに|どぎまぎ《ヽヽヽヽ》し、ろくに口をきくこともできなかった。そんな男のどこが気にいったのか、梁紅玉は貯金をはたいて歌館から足をあらい、韓世忠のもとに押しかけて夫婦になってしまったのである。  建炎《けんえん》三年(西暦一一二九年)三月、宋では大きな叛乱がおこった。「明受《めいじゅ》の乱」と呼ばれるものだが、乱の指導者は、苗傅《びょうふ》、劉正彦《りゅうせいげん》の両者である。苗傅は殿前《でんぜん》都指揮使《としきし》、つまり近衛軍団の総司令官であった。劉正彦も武《ぶ》功《こう》大《たい》夫《ふ》とか威《い》州《しゅう》刺使《しし》とかの官職にある将軍である。その両者が、天子の足もとで叛乱をおこしたのだった。  その当時、宋の名だたる将軍たちのなかで最上位にあったのは王淵だった。無名であった韓世忠の武勇を認めてくれた人である。彼は実力者ではあったが、他の将軍たちに人望がなかった。理由はいくつかあるが、とくに、王淵が宦官と手を結んで自分ひとり出世した、という点が大きいようだ。  ことに苗傅らは王淵と仲が悪く、打倒する機会をねらっていた。機会が来た。他の将軍たちはすべて戦いのために杭州を離れた。城内にいるのは、王淵、苗傅、劉正彦の三者だけとなった。  苗傅たちは兵をひきいて決起した。皇宮に乱入し、おどろく王淵を劉正彦が一刀のもとに斬殺した。さらに王淵と手を結んでいた宦官百人あまりも殺害された。高宗と重臣たちは、まとめて叛乱軍の捕虜となってしまった。苗傅は高宗の前に姿をあらわし、態度だけはうやうやしく退位をせまった。 「なぜ予が退位せねばならぬのじゃ。予に何の罪がある!?」  怒りをこめた質問に対して、苗傅は答える。 「おそれながら玉座は本来、陛下の占有なさるところにあらず。陛下の兄君のものと心得おります。退位なさってこそ、天下に大義を布《し》くと申せましょう」  高宗は反論できなかった。兄である欽宗が正式に退位していないのに、高宗は即位したのだ。国家としては、玉座を空《から》にしておくわけにいかぬから、とりあえず高宗が即位したのは、しかたないことである。だが儒教的な正統論からいえば、おおいに問題があった。高宗自身、うしろめたい気分があったからこそ、反論できなかったのである。  退位要求を拒否すれば毒殺される可能性があった。やむなく高宗は、当時三歳であった皇太子に譲位した。苗傅はただちに「明受《めいじゅ》」と改元し、その旨《むね》を布告したのである。  前線に出かけていた将軍たちは、報告を受けておどろき、かつ怒った。王淵が死んだことについては喜んだ者もいたが、苗傅が国の支配者になることに誰も賛成しなかった。将軍たちは自発的に連絡をとりあい、叛乱軍を鎮圧するために杭州へと反転した。先頭を切ったのは韓世忠である。杭州を包囲される形になって、苗傅はあわてたが、ひとつの策を考えついた。 「城内に韓世忠の妻子がいる。あれを人質にとって、韓世忠を味方につけよう」  当時、梁紅玉は、二歳になったばかりの子温を守って、杭州城内の家にいたのである。苗傅は三歳の「新皇帝」の名を使って、梁紅玉を宮中に呼びよせ、「安国《あんこく》夫《ふ》人《じん》」という貴族の称号を与えた。 「勅命《ちょくめい》である。汝《なんじ》の夫たる韓世忠に大義を説《と》き、新帝につかえさせよ」  そう命じられた梁紅玉は、喜んだふりをして退出したが、家に帰るとすぐ逃走の準備をはじめた。夫に手紙を書くまねをしながら夜を待ち、行動を開始する。監視の兵士たちのようすをさぐり、眠っている乳児を抱きあげた。 「阿亮《ありょう》」  それは子温の幼名であった。 「阿亮、お前は韓世忠と梁紅玉の子なんだからね。泣くのではないよ。泣いたりしたら棄《す》ててしまうからね。虎にでも育てておもらい」  冗談まじりにいいながら、梁紅玉は、胸甲《きょうこう》をゆるめて、赤ん坊を胸にだいた。韓家で一番の駿馬《しゅんめ》に鞍《くら》をおき、それに弓と矢《や》筒《づつ》をかけ、細身の槍をかいこんで馬上の人となる。  ほどなく、宮中にいた苗傅は部下からの急報を受けた。韓世忠の家から一騎の影が脱出したというのである。「甲冑をまとい、槍を持った騎士」と聞いて、苗傅は首をかしげた。韓世忠の家にいるのは、その妻子と、老《お》いた家僕だけであるはずだ。調べたところ、梁紅玉と子温の姿がない。どうやら女だてらに武装して脱出したものと知れた。 「乳児をつれて無事に逃げおおせるつもりか。女の浅慮《せんりょ》というものよ」  苗傅の嘲笑《ちょうしょう》は、ほどなく凍《い》てついてしまった。「たかが女」は馬術の冴《さ》えをみせて杭州城から脱出してしまったのだ。しかも槍と弓矢で八人もの兵が斃《たお》されたというのである。 「あ、あの女、あの女……!」  苗傅はあえいだ。何と形容してよいか、わからなかったのだ。  梁紅玉が天下に聞こえた美女であることは知っていたが、これほど胆力《たんりょく》と武勇に富んでいるとは想像を絶していた。ようやく我に返ると、苗傅は劉正彦を呼びつけ、三百騎をひきいて梁紅玉を捕えるよう命じた。 「手にあまれば殺してもかまわぬぞ。韓世忠めの見せしめにしてやる」  女ひとりに何をおおげさな。内心、劉正彦はあきれたが、とにかく三百騎をひきいて梁紅玉を追跡にかかった。この夜、月はほぼ満月、春深い江南の野を黄金色に照らしている。  東北方へ馬を走らせること二刻、秀州《しゅうしゅう》という土地の近くで、梁紅玉は追いつかれた。月光に甲冑を反射させ、馬《ば》蹄《てい》を地にとどろかせて追手が肉薄してくる。だが道幅はせまく、左右は水田であった。梁紅玉は弓をかまえ、突進してくる敵に矢を射《い》放《はな》した。弓弦が鳴りひびくつど、馬上の敵は空を蹴って地に落ちる。騎手を失った馬は水田に走りこみ、泥のなかでもがきまわる。八本の矢で八騎を射落としたが、矢筒は空《から》になった。白兵戦を覚悟したとき、秀州の方角から、あらたな馬蹄の音が湧《わ》きおこった。騎馬隊の先頭に立つ武将が、駿馬を躍《おど》らせつつ、おどろきと喜びの声をあげた。 「おう、紅玉!」 「良臣どの!」  韓世忠であった。月の光でたがいの姿を認めあったふたりは、せまい道で瞬間に馬を馳《は》せちがわせた。韓世忠は馬上で戟《げき》をかまえなおすと、「殺《シャア》!」と喊声《かんせい》をとどろかせながら、劉正彦の軍へ突入していったのだ。たちまち、苛《か》烈《れつ》な斬りあいが月下に展開された。  韓世忠の豪勇は、関羽や張飛にたとえられるほどのものだ。鐙《あぶみ》にかけた両足だけで馬をあやつりながら、右に左に戟を振りおろし、旋回させ、突き、払い、血煙と絶鳴をまきおこす。たちまち十数騎が馬上からたたきおとされ、韓世忠は呼吸も乱さず、悍《かん》馬《ば》をあおると一直線に劉正彦めざして突進した。  呆然《ぼうぜん》として月下の血闘をながめていた劉正彦が、悲鳴まじりに退却を命じた。韓世忠ひとりの豪勇を恐れたわけではなく、官軍がここまで迫っていることを知ったためであった。劉正彦は杭州へ逃げもどり、苗傅とともにさらに南へと逃亡していった。韓世忠は官軍の陣頭に立って杭州を賊軍から奪回した。救出された高宗は韓世忠を賞し、さらに梁紅玉をもほめたたえた。 「女ながら趙子竜《ちょうしりゅう》の輩《ともがら》か」  天下こぞって、梁紅玉の驍勇《ぎょうゆう》に舌を巻いた。趙子竜とは三国時代の趙雲《ちょううん》のことで、これより九百年以上の往古《むかし》、主君の後継者である幼児を抱いて敵中を突破したのだ。これによって梁紅玉は「巾※[#「てへん+國」、unicode6451]英雄《きんかくのえいゆう》」の名をたしかなものとした。巾※[#「てへん+國」、unicode6451]とは女性の髪飾りのことであり、中華帝国においては女性の英雄をそう呼ぶのである。  臨安府奪回の功をきっかけに、韓世忠の地位と武名は飛躍的に向上した。韓世忠は自分自身より妻の評判をよろこんだ。 「見よ、おれの妻を。天下一の女だ」  中国史上の英傑たちのなかで、韓世忠ほど手放しに女房自慢をした男もめずらしい。彼は以後、妻を自分の副将として遇し、軍事についても政治についても彼女の意見を求め、忠告にしたがった。韓世忠の麾下《きか》には、すぐれた武将が多い。解元《かいげん》、成閔《せいびん》、王勝《おうしょう》、王権《おうけん》、劉宝《りゅうほう》、岳超《がくちょう》といった人々の名が後世まで伝わる。彼らはいずれも韓世忠が無名の兵士であったころからの戦友であったが、梁紅玉の智勇胆略を認め、よろこんで彼女の指示を受けた。これらの武将たちが、つれだって韓世忠の家をおとずれ、梁紅玉の料理に舌鼓《したつづみ》を打ち、杯をかわし、戦場のできごとを語りあった。おさない子温は父のたくましい膝に抱かれて彼らの話を聞いた。用兵巧者《いくさじょうず》の解元、剛勇の成閔らが子温をあやしてくれた。  あれから何年たったことだろう。時の大河は音もなく流れ去り、勇者たちは老《お》い、病《や》み、姿を消していった。若い子温にも夢のように思える。 「悪い時代がつづいたけど、その元兇もいなくなった。世は変わるよ、阿母《かあちゃん》」 「どう変わるというのだい。変わりようがないじゃないか」  梁紅玉の反応は冷淡だった。女ながら彼女は酒豪で、杯をかさねても乱れることはない。頬は赤くなり、声はやや大きくなるが、頭脳は冴え、言語は明晰《めいせき》だった。 「すべては陛下の御《ぎょ》意《い》だったのだよ。秦檜を登用なさったのも、金国と和平を結ばれたのも、岳将軍を死なせたのもね。陛下はご健在だ。世が変わりようはなかろうよ」  子温が返答できずにいると、梁紅玉はまたあらたな杯をほして大きく息をついた。 「陛下の御意であったからこそ、子温、お前の阿爺《とうちゃん》は無念をおさえて和平に同意したのだよ。丞相ひとりの考えなら、阿爺《とうちゃん》が承知したはずはない。お前の阿爺《とうちゃん》は、天下でただひとり丞相の権勢を恐れなかった男だった。忘れたのかい?」  子温は忘れてはいなかった。十四年前、韓世忠の戦友であった岳飛が、叛逆《はんぎゃく》の汚名を着せられて殺された。岳飛の無実を誰もが知っていたが、秦檜の権力を恐れて沈黙していた。天下でただひとり、韓世忠だけが面とむかって秦檜に異議をとなえたのだ。人々は韓世忠の勇気に感歎したが、韓世忠自身の気分は苦《にが》かった。彼の勇気は岳飛を生き返らせることができたわけでもなく、秦檜の無法をくつがえすこともできなかった。韓世忠は宮廷を去り、世を棄てた。あとは宮廷に残った秦檜が専横をふるうだけだった。  皇帝のために、子温は弁ずる必要を感じた。 「だけど、阿母《かあちゃん》、すべては丞相が奸策《かんさく》をめぐらしたことだろう。陛下がお考えになったことではない」 「そうだね、だけど反対はなさらなかった」 「…………」 「秦丞相がいくら奸策をめぐらしても、陛下が拒否なされば、実現のしようはなかったろうさ。それがわかっていたから、阿爺《とうちゃん》は苦しんで、とうとう宮廷を去ったんだよ。自分のいるべき場所でないと思い知ったのさ」  梁紅玉は高宗の心理の一部を正確に見ぬいていた。高宗は秦檜に利用されているように見えて、じつは無意識のうちに利用していたのではなかったか。兄である欽宗を見殺しにしたこと、無実の岳飛を殺害したこと。それらを実行し、手を汚したのは秦檜だった。高宗は見て見ぬふりをして、すべてを秦檜のせいにすればよかったのだ。秦檜にしてみれば、自分は皇帝のために汚名をかぶったのだ、というところであったろう。 「まあ浮かれないことさ。春が来たからといって跳《と》びはねていると、薄氷を踏み割って水に落ちることだってあるからね。ところで今夜は泊まっていくんだろ?」  母の声に子温はうなずいた。臨安府の城門をくぐるのは明日でよい。高宗に拝謁して、それから四年ぶりに宮廷での勤務がはじまるはずであった。 [#改ページ] 第二章 密命     一  呪縛《じゅばく》めいた秦檜《しんかい》の圧迫から解放されて、高宗《こうそう》がまずやってのけたことは人事の刷新《さっしん》であった。秦檜によって宮廷から追放されていた二十人以上の有力な官僚政治家が、呼びもどされることになったのである。彼らの大半は、秦檜の専横に反対して追放されていたので、秦檜の死と自分の復権とは二重の喜びだった。  人事の刷新は、多くの場合、政策の変更につながるものである。宮廷に復帰した対金強硬派の大臣たちは、高宗の外交政策が劇的に変化するのを期待した。  だがそれは過大な期待というものであった。内治にせよ外政にせよ、高宗皇帝は、これまでの政策を急に変える気はなかった。追放されていた大臣たちを宮廷に呼びもどしたのは、人事権を高宗が死者の手から取りもどした、その事実を天下に知らしめるためであった。したがって、呼びもどしはしたが、べつに権限を与えようとはしなかった。そしてほどなく、高宗はひとりの老人を登用した。  姓は万《ばん》俟《き》、名は禽《せつ》、字《あざな》は元忠《げんちゅう》。きわめて珍しい姓の人物である。年齢はこの年、すでに七十三歳であった。秦檜のために宮廷から追放されていたが、今回復帰したのだ。  この老人が尚書《しょうしょ》右《う》僕《ぼく》射《や》、同中書門下平章事《もんちゅうしょもんかへいしょうじ》となった。宋《そう》代の官名には、やたらと長いものが多いが、要するに秦檜の後をついで帝国宰相となったのである。この人事は、宮廷の内外を唖然《あぜん》とさせた。 「万俟禽が宰相に? あの老人に宰相になどなる資格があるのか!」  おどろきと怒りの声をあげ、そして人々はさとったのである。高宗が内外の政策を変えるつもりなどない、ということを。  万俟禽は、たしかに秦檜によって宮廷を追われた。だがそれは政策に反対したためではなく、正論をとなえて憎まれたためでもない。それどころか、一時期、彼は秦檜の腹心であったのだ。 「そもそも万俟禽はあの件の共犯ではないか!」  あの件、とは十四年前の惨劇である。当時、金国との和平条約締結をいそいでいた秦檜は、強硬な和平反対派である枢密副《すうみつふく》使《し》の岳《がく》飛《ひ》を排除する必要にせまられた。高宗の黙認をえて、秦檜は岳飛を逮捕した。不軌《むほん》の罪をでっちあげ、凄惨《せいさん》な拷問を加え、ついに自白が得られないままに獄中で虐殺《ぎゃくさつ》したのだ。そのとき秦檜の腹心として、不当逮捕・拷問・虐殺を実行したのが万俟禽であった。  それ以来、万俟禽は秦檜の腹心としてのさばっていたが、五、六年で不興を買って宮廷から追放されてしまったのである。堂々と秦檜に反対したというわけではない。何やらつまらぬ不手《ふて》際《ぎわ》をしでかしたようだが、正確な内容は誰も知らなかった。 「役に立たぬ奴だ」  という秦檜のひややかなつぶやきが、人々に事情を推測させるだけであった。要するに、無能のゆえに見放されたのである。  自分の一族以外の人々に対して、秦檜がいだいていた感情は、憎悪と侮《ぶ》蔑《べつ》だけであったように見える。有能な者は憎悪され、無能な者は侮蔑された。敵である岳飛は憎まれ、味方である万俟禽は蔑《さげす》まれた。有能な敵は無実の罪で滅ぼされ、無能な味方は使いすてにされた。膨大な他人の犠牲の上に、秦檜は一族の栄華をきずきあげ、死にいたるまでそれを守りつづけた。  国家も皇帝も政敵も部下も、すべては秦檜が栄華をきわめるための道具でしかなかったのだ。  岳飛を殺すとき、数日にわたって秦檜はためらった。だがそれは、無実の人間に汚名を着せて殺す、という行為のおそろしさを感じたからではない。どの選択が自分にとって最大の利益をもたらすか、計算に手間どっただけのことであった。秦檜の思考には、後悔とか自己|懐《かい》疑《ぎ》とかいった要素が存在しない。秦檜の人格は、当時の人々にも後世の人々にも異常な印象を与えずにおかないが、その要因は、死者の霊や後世の評価をおそれるような「弱さ」が完全に欠落しているという点にあるであろう。完璧な利己主義者というものが地上に存在しえるとするならば、この冷たい灰色の男こそがそれであった。  秦檜も万俟禽も『宋史・姦臣《かんしん》伝』に名を並べているが、両者を同列に論じることなど、とてもできない。秦檜の内包する深淵《しんえん》の底知れなさに比べれば、万俟禽の残忍さや卑劣さなど底の浅いものである。万俟禽は、抵抗できぬ者を虐待《ぎゃくたい》して快楽をおぼえる異常者でしかなかった。 「岳将軍を拷問にかけるため、毎日、獄へと出かけていく。それはそれは嬉しそうな表情でな」  そういう話を、子温は、幾人かの知人から聞いたことがある。秦檜は万人から恐怖されていたが、万俟禽は蔑まれていたのである。  さらに万俟禽は「桔槹刑《きつこうけい》」という拷開法を考案したといわれる。  囚人の両足首を綱《つな》でしばり、天井から逆《さか》さ吊《づ》りにする。これだけで体内の血が頭に上って、苦痛は激しい。さらに天井からの綱を幾《いく》重《え》にもよじらせてから放すと、逆吊りになった人体はすさまじい勢いで回転する。回転がおさまると同時に、前後左右から杖《じょう》をもって乱打する。「血と内臓が口から飛び出すかと思われる」ほどの苦痛であるといわれた。この凄惨な拷問を、万俟禽は二ヶ月にわたって岳飛に加えつづけたのだ。  万俟禽という老人が、世に何か事績を残したとすれば、このような拷問法を考えだしたというだけである。そのような人物をわざわざ宰相に任じようという高宗の心理が、子温には判断しかねた。  ——他にいくらでも人材がいるだろうに、よりによって……。  そう思ったが、あらためて考えてみると、じつはそうでもない。前提条件として、これまでの政策を変えない、ということであれば、対金強硬派のなかから宰相を選ぶわけにはいかないのだ。秦檜を盟主とする対金友好派のなかから選ぶとすれば、万俟禽ぐらいしか人材がいないのである。  秦檜は、才能ある者を好まなかった。彼に必要なのは、自分の命令を忠実に果たすだけの部下だった。政策をつくり、計画をたて、陰謀をめぐらせるのは、秦檜ひとりで充分だったのだ。そして、なまじ有能な部下を必要としない点で、いまや高宗も秦檜と同じ立場だった。宮廷の一部には、張浚という人が宰相となることを望む声もあったが、それはかなわなかった。  いささかややこしいのだが、この時代、「ちょうしゅん」という名の有名人がふたりいる。  ひとりは「張俊」と書く。盗賊より身をおこして将軍となり、金国との戦いや叛乱《はんらん》討伐に大功をたてた。この人の字は伯英《はくえい》という。  もうひとりは「張浚」と書く。唐《とう》の名宰相といわれ、伝書鳩《でんしょばと》の創案者ともいわれる張九齢《ちょうきゅうれい》の子孫であり、科《か》挙《きょ》出身の、教養ゆたかな文官であった。字は徳遠《とくえん》である。  対照的な生まれ育ちのふたりは、政治的な立場も正反対であった。武将の張俊は和平派であり、文官の張浚は主戦派であるから、ますますややこしい。張俊は勇猛で統率力にすぐれていたが、白昼堂々と殺人や掠奪《りゃくだつ》をおこなうような男であった。その悪事や金軍に対する戦意のなさを、張浚は激しく批判し、ふたりは反目《はんもく》しあっていた。  当時の人にも、なかなか両者は区別しにくかったようで、両者を混同した記録がいくつもある。そのような記録を見ると、張俊というただひとりの人物が、神出鬼没、あるときは宮廷で大臣となり、あるときは戦場で将軍となり、あるときは主戦論をとなえ、あるときは和平を主張し、ころころと態度を変えていて、まことにめまぐるしい。  武将の張俊のほうは、昨年、七十歳で死んだ。文官の張浚のほうは、六十歳で健在である。こちらは三十三歳で知《ち》枢密院《すうみついん》事《じ》、つまり帝国軍最高司令官代理となったほどの英才であるから、充分に宰相がつとまるはずだ。だが彼が宰相となるときは、宋と金とが全面戦争に突入するときであろう。  秦檜の専横にさからった、という点では張浚は正義派である。ただ、やたらと口やかましいし、自分が正義派であることを誇る癖があった。知枢密院事として、宋の戦時体制をごく短期間に築きあげた功績は大きい。だが戦略家としてはいささか性急《せいきゅう》で、状況判断が主観的であったから、大きな敗北も経験している。 「張浚はなぜああも戦いを好むのか」  と、高宗の信頼もいまひとつであった。だが張浚は秦檜に睨《にら》まれ、処刑や暗殺の危機にさらされながら、主戦派としての節《せつ》を守りつづけた。彼の名は金国の指導者たちにも知られていた。宋と外交|折衝《せっしょう》があるつど、金の指導者たちは、張浚の動静を問うたという。  一方、武将のほうの張俊は、というと。  極端にいえば、この時代、南宋の官軍は傭兵《ようへい》部隊の集合体であるといってよい。将軍たちは自身の実力と人望とによって、兵士を集め、組織し、編成し、軍団をつくりあげたのである。朝廷から官位をもらい、官軍として公認されれば、軍資金や食糧も供給される。やりようによっては、いくらでも富をえることができた。  うまく立ちまわった将軍たちのなかには、駐屯地で民衆から租《そ》税《ぜい》を取りたてる権利を手にいれた者もいる。取りたてた税は、国庫におさめず、軍資金という名目《めいもく》で自分の懐《ふところ》にいれてしまうのだが、べつに違法ではない。朝廷から認められた権利なのだ。  将軍たちのなかで、とくに殖財《しょくざい》がたくみだったのは、張俊と劉光世《りゅうこうせい》のふたりである。手にいれた権利を最大限に活用して、ふたりは天下で指おりの富豪に成《な》りあがっていった。張俊の荘園《しょうえん》では、一年間に六十万石の米を産したというから、まさに大諸侯である。劉光世のほうは広大な塩田を手にいれて、塩の生産と販売を独占し、巨億の富をわがものとしていた。  このふたりと、韓世忠《かんせいちゅう》は仲が悪かった。 「何だ、あのふたりは。銭をよこせ、米をよこせ、と朝廷にせびるばかりで、このごろろくに戦ってもおらんじゃないか」  国を救うための戦いを、劉光世たちは金銭《かね》もうけの手段と考えている。朴直《ぼくちょく》な韓世忠には考えられないことだった。だが韓世忠としても、四万人からの兵士を統率して、彼らを食わせてやらねばならぬ。仙人ではあるまいし、霞《かすみ》を食わせるわけにいかないのだ。米や麦をたくわえ、軍資金をととのえる。ただ将軍であるだけではなく、軍団経営者としての資質が必要だった。 「だが、おれは自分の腹を肥《こ》やすようなまねはしておらんぞ。すべて戦いのためだ」  韓世忠はそう思っていたが、残念なことに、べつの観《み》方《かた》をする人々もいる。高宗の側近である文官たちから見れば、張俊も劉光世も韓世忠も同類でしかなかった。 「将軍どもは何のかのいっても、結局、自分の利益のために戦争をつづけたがっているのだ。張俊や劉光世はもちろんのことだが、正義派づらしている岳飛や韓世忠の本心もそうに決まっている」  そういう文官たちの反感が、やがて秦檜の大粛清を生むのである。     二  歴史的に見れば、高宗は宋帝国中興の名君である。だが彼自身が積極的に何ごとかをやったわけではない。動乱のなかで逃げまわるうちに、旧臣たちに推《お》されて帝位に即《つ》いた。さらに逃げまわっているうちに、敵軍は長江《ちょうこう》の北へ引きあげた。その後、玉座《ぎょくざ》にすわっている間に岳飛が殺され、和平条約が成立した。さらに待つうちに秦檜も死んだ。そしていま高宗は、すくなくとも国内で恐れるものなどなくなったのだ。幸運な人物というしかない。  むろん、それは一面から見ての説明である。 「頭のなかは和(和平)と避(逃走)の二文字だけ」と冷笑されながら、高宗は非凡な忍耐力によって、王朝を再興し、平和を確保し、国を富ませたともいえるのだ。子《し》温《おん》は、高宗に対していくつかの批判もあったが、基本的には好意をいだぎ、忠誠をつくすつもりであった。  はじめて子温が高宗皇帝に拝謁《はいえつ》したのは六歳のときである。父につれられて宮中に参内《さんだい》したのだ。『宋書・韓彦直《かんげんちょく》伝』には事情は記されていないが、他の将軍たちが拝謁するついでであったかもしれない。  天子の御《ご》前《ぜん》で、子温は紙と筆を与えられ、字を書くよう命じられた。自分の身体より大きな紙を床において、子温は筆をふるい、あざやかに四つの文字を書きあげた。 「皇帝|萬歳《ばんざい》」 「これはこれは、幼児ながらみごとな筆跡だ。将来が楽しみじゃな」  喜んだ高宗が子温の背をなでて賞賛したので、韓世忠は感激に顔をかがやかせた。そして死ぬまでそのことを自慢していた。  いまになって思うと、どうもわれながらこざかしい孩子《こども》であったような気が子温はする。だが、自分の無学を気にしていた韓世忠にとって、わが子が文の道で天子にほめていただいたことは、なまじの武勲よりうれしいことだったのだ。  ——さいわいにして、陛下は暴虐の君主《きみ》ではない。  子温は|ほっ《ヽヽ》とする。高宗ひとりにとどまることではなく、宋は建国から滅亡に至るまで十八代三百二十年、ひとりの暴君も生まなかった。中華帝国を統治した歴代王朝のなかでも、宋の皇室である趙《ちょう》家は、もっとも民衆から好まれた一家であったろう。  高宗の父親であった徽《き》宗《そう》皇帝は、とくに善良な為人《ひととなり》で知られる。それは温和で優しいお方であった、と、誰もが口をそろえる。だが残念なことに、その善良さは、国を守ることも民を救うこともできなかった。  金軍の虜囚《りょしゅう》となり、牛車に乗せられて北方へ引きたてられる悲惨な旅。その途中、道の左右につみかさねられた民衆の屍体を見て、徽宗は涙を流し、「予《よ》の罪である、予の罪である」とくりかえしたという。そのような話を聞くと、「皇帝がもっとしっかりしていれば」という人でも、徽宗個人の罪を責める気になれないのであった。  もともと秦檜は、徽宗と欽宗《きんそう》が金軍の捕虜となったとき、やはり捕虜となって北方へつれさられたのである。それがやがて無事に帰ってきたので、人々はおどろいた。秦檜自身は平然として、悪びれたようすもない。 「監視の金兵を殺して、生命《いのち》がけで脱出してきたのだ」  そう秦檜は説明したが、これは誰も信じなかった。秦檜は妻子や従僕《じゅうぼく》を全員ひきつれ、家財道具までかかえて悠々と帰ってきたのだ。兵士を殺して脱出したにしては、追跡者の姿もないではないか。そして帰国直後から宮廷に復帰すると、秦檜は、たちまち和平派の領袖《りょうしゅう》として宰相にのしあがっていった。人々は推測し、結論を出した。秦檜は金国の重臣と密約を結び、和平を推進するという条件で帰国を許されたにちがいない、と。  ほんとうに生命がけで脱出してきた人のなかに、曹《そうくん》という官人がいる。彼は徽宗から高宗にあてた密書をたずさえていた。紙もなく、徽宗は着衣の布を引き裂いて、文章を書きつけたのだ。炭をくだいて水にとかし、古ぼけたただ一本の筆を使って。 「中原《ちゅうげん》を清めるの策あらば、ことごとく挙《あ》げて之《これ》をおこなえ。我をもって念と為《な》すなかれ」  奪われた国土を回復する策があるなら、どんな方法でもよいから実行せよ。私の生命など気にしなくてよい。  それが徽宗の伝言であった。帝位にあったころの徽宗は、人生を楽しむことしか頭になかったが、荒野に虜囚となってから、はじめて皇帝としての責任にめざめた。遅すぎた、というべきであろうか。だが徽宗は、自分自身の罪を背負って、極北の流刑地へと旅をつづけた。馬や車を使うことも許されなくなり、徒歩で荒野を進み、砂漠を渡り、雪原をこえた。ろくな食事も薬も防寒衣も与えられず、息子をはげまし、妻をいたわり、やがて砂《さ》塵《じん》のために眼を傷つけて半盲目となりながら、八年にわたる抑留《よくりゅう》生活の末に死んだ。宋の紹興《しょうこう》五年(西暦一一三五年)のことで、五十四歳であった。遺体が宋に帰ったのは、その七年後である。  子温やその両親たちの時代、中華帝国とその周辺は、すさまじいほどに鳴動していた。   宋  漢族  趙匡胤《ちょうきょいん》が建国   金  女真《じょしん》族 完顔《かんがん》阿骨打《アクダ》が建国   遼  契丹《きったん》族 耶《や》律《りつ》阿保機《アボキ》が建国   西夏 党項《タングート》族 李《り》元※[#「日/大」、unicode65F2]《げんこう》が建国  これらの諸民族が、東アジアの大地に治乱と興亡をくりかえしていた。なお、女真族は後世にも清《しん》という王朝を樹《た》てる。契丹族はモンゴル系、党項族はチベット系である。  文化と経済と社会制度と産業技術において、宋の存在は圧倒的であった。火薬、木版印刷、羅《ら》針盤《しんばん》など人類史を変えるような発明がなされ、石炭が燃料として使われるようになり、料理法や農法は飛躍的に進歩した。米の生産量は一億|斤をこえ、塩や茶の生産量もそれぞれ一億斤をはるかにこえた。紙も陶器も織物も、世界で最高のものが世界最大の生産量を誇った。すぐれた文人や画家が輩出《はいしゅつ》したが、もっともすぐれた画家のひとりが、第八代皇帝の徽宗である。ただ軍事力は弱くて、「宋朝弱兵《そうちょうじゃくへい》」などといわれたが、財力の豊かさと外交のたくみさでそれをおぎなった。  そして遼を滅ぼし宋を圧迫する金は——。  女真族が金を建国した当初、君主である完顔《かんがん》一族には名君や名将が輩出した。しかも一族が心をあわせて協力し、新興の国家を急速に強大化させていった。 「見るべし、開国の初《はじめ》、家庭の間、心を同じうして協力し、皆、門《もん》戸《こ》を大にし土宇《とう》を啓《ひら》くを以《もっ》て念と為《な》し、絶えて自《みずか》ら私《わたくし》し自ら利するの心なきを」  と、清《しん》の史家|趙翼《ちょうよく》は絶讃している。民族の指導者たちが、私心や私欲をすてて力をあわせ、ひたすら国を発展させていくありさまは、後世の口やかましい史家をも感動させたのである。さらに趙翼は記す。 「金の初めて起《おこ》るや、天下これよりも強きは莫《な》し」  金の皇族たちは、将軍となって金軍の先頭に立ち、自ら白刃をふるって敵と戦った。宋の皇族たちと、勇敢さにおいて比べものにならない。ゆえに少数の兵をもって大軍を撃破し、四方の敵をことごとく圧倒して勢力を拡大していった。  ことに太《たい》祖《そ》皇帝|阿骨打《アクダ》の四男、宗弼《そうひつ》の勇敢さは、敵も味方もおどろかせた。兄|宗望《そうぼう》の死後、金国の兵権は宗弼ひとりの手に帰した。銀述可《ぎんじゅつか》という百戦錬磨の宿将が、若い宗弼を補佐したが、ほどなく死去したので、金軍の戦略立案と戦闘指揮は、ほとんどすべて宗弼によっておこなわれるようになった。  宗弼とは漢式の名で、女真族としての名は「ウジュ」という。もともと女真族には文字がなかったので、漢字で表記すると「兀《ウ》朮《ジュ》」となる。烏《ウ》珠《ジュ》とも書くが、歴史小説や戯曲では兀朮と記されるのがほとんどである。宋人、つまり漢民族から見れば、宗弼は侵略者の代表といえる。にもかかわらず、宗弼の勇敢さを、たたえずにはいられなかった。 「四《スー》太《ター》子《ツ》は敵ながら颯爽《さっそう》たる男だったねえ」  そう梁紅玉《りょうこうぎょく》は息子に語ったものだ。四《スー》太《ター》子《ツ》。それは「第四皇子」という意味である。なお、仲のよかった兄の宗望は本名を斡離不《オリブ》といい、「二《アル》太《ター》子《ツ》」と呼ばれる。弟にひけをとらぬ驍将《ぎょうしょう》として名をとどろかせ、あつく仏教を信仰して「菩《ぼ》薩《さつ》太《たい》子《し》」とも称されたが、若くして病死した。  宗弼には自慢の親衛隊がいた。騎兵のみ三千騎から成り、「鉄塔兵《てつとうへい》」と称されている。 「四《スー》太《ター》子《ツ》の鉄塔兵」  といえば、味方は畏《い》敬《けい》し、敵は恐怖した。鉄塔兵一騎で、宋兵十人にあたるといわれた。黒い尖《とが》った鉄の冑《かぶと》をかぶり、黒馬にまたがって長槍《ちょうそう》をふるう。黒い奔流となって、鉄塔兵が戦場を駆けぬけると、後には敵兵の屍体のみが残された。彼らは遼国や西夏国の勇士たちを馬《ば》蹄《てい》の左右に蹴ちらし、ついに槍先を宋にむけてきたのである。  鉄塔兵の先頭には、つねに四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼がいた。彼の愛馬の名は、『金史・宗弼伝』に記録されている。「奔龍《ほんりゅう》」といい、金国随一の名馬であった。 「そんなに強かったら、四《スー》太《ター》子《ツ》とかいう人は一度も負けたことがないんだろうね」  まだ少年であった子温が問うと、梁紅玉は愉快そうに笑ったものだ。 「冗談いっちゃいけないよ。四《スー》太《ター》子《ツ》は英雄だった。鉄塔兵は強かった。だけど、四太子と鉄塔兵を、黄天蕩《こうてんとう》の戦いで全滅寸前にまで追いこんだのは、お前の阿爺《とうちゃん》と阿母《かあちゃん》だからね。楽しみに持っといで、くわしく話してやるから」     三  十一月にはいって、宮廷にもどった子温は、ようやく高宗への拝謁がかなった。 「彦直か、ひさしいの、息災《そくさい》であったか」  高宗は主君であるから、子温の本名を面とむかって呼ぶ資格があるのだ。 「ご聖恩《せいおん》をもちまして」  うやうやしく子温は低頭する。彼が招じいれられたのは、高宗が秦檜の訃《ふ》報《ほう》を受けた部屋であった。屏風《びょうぶ》は花鳥図ではなく山水図のものに変わっている。 「そなたはまだ独身《ひとりみ》であったと思うが、それとも臨安府を離れておる間に良縁をえたか」 「いえ、まだでございます」  子温は二十八歳でまだ独身である。この当時、士《し》大《たい》夫《ふ》としては結婚が遅い。彼の両親が当時としては晩婚であったから、本人もあまり気にしなかった。それに、父子そろって丞相《じょうしょう》秦檜ににらまれているとあっては、積極的に婚儀を申しこんでくる人もいなかったのだ。  なお、子温には弟がふたりいる。上の弟を韓彦質《かんげんしつ》、下の弟を韓彦《かんげん》古《こ》という。どちらも精確な記録は残されていないが、朝廷につかえたことはたしかなようで、彦古のほうは戸部《こぶ》尚書《しょうしょ》(財政大臣)にまで出世した。 「そうか、では家庭の憂《うれい》はないな」  高宗はうなずいた。結婚の話題を持ちだしたのは、皇帝自身のお声がかりで子温に妻を迎えさせる、ということではなかったようだ。内心、子温は|ほっ《ヽヽ》とした。皇帝のお声がかりとなれば、たとえ気のすすまない縁談でもありがたくお受けするしかない。 「じつはの、金国から諜者《ちょうじゃ》がもどってまいった」  孫《そん》子《し》の兵法が世に出て以来、漢民族は諜報戦に長じている。これまで宋が何とか金に対抗してこられた理由のひとつは、諜報戦ではるかに敵国よりすぐれていた、という点であった。この時代よりやや後に、金の世宗《せいそう》皇帝に対して、重臣がつぎのように言上している。 「わが国も諜者を多く放っておりますが、なかなか宋の内情をさぐることができません。ところが宋のほうでは、わが国の内情をじつに正確に知っております。これでは戦争にも外交にも不利でございますから、諜者の待遇をもっとよくして、何としても宋に対抗すべきでございます」  世宗はうなずいたが、苦笑まじりであったという。後世、金の歴史上最高の名君といわれる人だ。待遇をよくしたぐらいでどうにもなるものではない、とわかっていたのであろう。  金国の人口は約四千万人と推計される。そのうち七百万人が女真族であり、契丹族や渤海《ぼっかい》人が三百万人もいるだろうか。残りはすべて漢民族である。宋からの密偵が潜入しやすいのは当然であった。 「諜者によって滅びるような国なら、滅びてもしかたがない。予はただ善《よ》き政《まつりごと》につとめるのみだ。漢民族に対しても公正にふるまえば、宋に通じる者もなくなろう。よき国をつくる以外に、正しい道というものはないはずだ」  それが世宗の考えであった。彼の考えを、 「現実の厳しさを知らぬ甘ったるい理想主義」  と嘲笑《ちょうしょう》ることもできるだろう。だが、現実に、金帝国がもっとも安定と充実を誇ったのは、世宗の時代であった。少数民族である女真族が多数の漢民族を統治する、という基本的な矛盾《むじゅん》は、むろん人知によって解決できるものではない。だが、統治される漢民族のがわから、世宗を古代の伝統的な聖王にたとえる声があがったのは、世宗の名誉というものである。  ただし世宗の出現までに、歴史は金のために流血と劫《ごう》火《か》の舞台を用意していたのだ……。  宋の首都、杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》の宮廷では、高宗皇帝|自《みずか》らが、臣下である子温に対して、金の国内情勢を説明しはじめたところである。 「そなたも知っておるやもしれぬが、六年前のことじゃ。金国で思いもかけず政変が生じた」 「はい、存じております」  講和の成立から今日に至るまで十三年間、宋では高宗ひとりが帝位に在《あ》った。だが金では、帝位が交替している。講和が成立した紹興十二年、金の天子は煕《き》宗《そう》であったが、七年後、煕宗が没して、皇族のひとり完顔亮《かんがんりょう》が即位した。じつは煕宗は完顔亮によって弑逆《しいぎゃく》されたのである。  煕宗が即位したのは十七歳のときである。少年のころから中国式の教育を受け、中国文化にあこがれて成長した。宗幹《そうかん》・宗弼《そうひつ》・宗翰《そうかん》といった皇族たちが文武の才能をつくして彼を補佐した。二十四歳のとき、宋との講和が成立し、金は中国大陸の北半を支配する強大な王朝として、ここに覇権を確立したのである。  そこまではよかった。だが、有能だが目ざわりな皇族たちがつぎつぎと引退したり逝去《せいきょ》したりすると、煕宗は節度を失いはじめた。彼はもともと聡明な青年で、酒乱が唯一の欠点であったが、急速にそれがひどくなった。酒毒に精神を冒《おか》されて妄想をいだくようになり、つぎつぎと皇族や重臣を殺し、ついに皇后と口論のあげく斬殺するにおよんだ。  それでも煕宗が何とか安泰だったのは、驍勇《ぎょうゆう》無双の雄将であった四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が健在だったからである。宗弼は宋にもっとも恐れられた男で、岳飛や韓世忠との間に死闘をくりひろげ、一時は杭州を占領して高宗を海上に追い落としたことすらあった。その武勲と実力は比類がない。彼は建国の苦難を知りつくしていたから、一族が内紛をおこすことを何よりも憎んだ。煕宗は彼をけむたがり、宮廷から遠ざけてはいたが、どこにいようと宗弼の存在は巨大であった。  その宗弼が死ぬと、煕宗は帝位をささえてくれる柱を失った。そのことに気づいて態度をあらためれば、煕宗は殺されずにすんだかもしれない。だが、宗弼という最後の歯どめを失って、煕宗は、反感と敵意の包囲網のなかに孤立し、さらに殺戮《さつりく》をすすめようとする。  ここで完顔亮が登場する。完顔という姓は、彼が金の皇族であることをあらわす。彼は煕宗の従弟《いとこ》にあたり、平章政事《へいしょうせいじ》、つまり宰相の一員であった。彼は決断を下した。同志を集め、白刃《はくじん》をかざして宮廷に乱入する。御林《ぎょりん》(近衛)の兵士たちはあえて防ごうとせず、酒杯を手にしたまま煕宗は一室に追いつめられた。 「誰かある! 武官やある! 予を救え!」  それが最期の叫びであったという。最初に剣を突き剌したのは完顔亮であった。倒れた皇帝の身体に、十数本の白刃が降りおろされ、血と酒の匂いが室内を満たした。金の皇統《こうとう》九年十二月。宋の紹興十九年、西暦では一一四九年にあたる。煕宗は三十一歳であった。あれほど無私の団結を誇った女真族のなかで、ついに皇帝弑逆の惨劇がおこったのである。  こうして完顔亮が即位して新帝となった。彼は煕宗以上に中国の文人としての教養に富み、頭脳は鋭敏で容姿もすぐれた二十八歳の青年であった。金の宮廷人たちは彼に期待した。いわば宮廷内の総意で、乱心の皇帝を殺した、という負《お》い目はあるが、新帝が国内の混乱をおさめ、清新な政治をおこなってくれれば、弑逆の罪も浄化されるであろう。流された血も意味あるものとなるはずだ。これからの金国は、建国から安定へ、重大な転機を迎えるのだから。  ……だが、その期待は裏切られた。 「現在の金国主《きんこくしゅ》は、煬帝《ようだい》以来の暴君といわれておるそうな」 「はい」 「殺人と淫虐《いんぎゃく》とを好むことはなはだしく、すでにして皇族百五十人を殺し、しかも彼らの妻女をすべて後宮《こうきゅう》に納《い》れ、姦淫《かんいん》をほしいままにしておると」  高宗の声が嫌悪に慄《ふる》える。漢民族の文化では、同族の男女が通じるのは人倫《じんりん》にもとる行為であった。直接、血がつながっていなくとも、たとえば兄の妻を姦《おか》すとか、従弟《いとこ》の妻と通じるとかいう行為をなせば、野獣にひとしい者とみなされるのである。それを完顔亮はきわめて大規模にやってのけたのだ。 「はっきりいっておくが、金国主が国内でどのように暴政をおこなおうと、予の知ったことではない。皇族や重臣がつぎつぎと殺されているというが、ざまを見よ、といいたいほどじゃ。徳の薄い言いようではあるがな、それが本心じゃ」  たしかにそれが高宗の本心であろう。彼の家族を遠く北方へ拉致《らち》したのは金軍である。ようやく帝位についた彼を、大陸じゅう追いまわし、ついに船に乗って海上へ逃れるまで苦しめたのも金軍である。そして和平が成《な》った後には、中華帝国の天子たる者が、異民族の皇帝に頭をさげねばならなくなった。すべて金軍のせいである。彼らがたがいに殺しあうありさまを見れば、高宗としては手を拍《う》って、「ざまを見よ」といいたくなるのは当然であった。 「だが暴君の視線が、南に向いたときがおそろしいのじゃ。わかるか、彦直」  高宗の声は、さりげなさをよそおっていたが、深刻な恐怖を隠しおおせることはできなかった。 「陛下、それは金が和約を破って侵略してまいるやもしれぬ、ということでございますか」  子温の声もこわばった。  高宗の考えが妄想であればよい。だが、完顔亮の行為を伝え聞くと、やはり不安をいだかずにいられない。蒼白《あおじろ》んだ高宗の顔を見やって、子温は異論をこころみた。 「ですが、和約は金にとっても望ましいものであったはず。一方的にそれを破る理由はないように臣には思えまするが」 「理由なき暴挙をあえてやるがゆえに、暴君と呼ぶのじゃ。まず主君を弑《しい》し、つぎつぎと一族の者を殺し、その妻女を姦《おか》す。どのような理由がある?」 「……ございませぬ」  完顔亮が金国でおこなっている悪業のかずかずには、誤伝や誇張があるかもしれない。だが、彼の行為が、さまざまな意味で原則を踏みはずしていることはたしかだ。何をしでかすやら見当もつかぬ、という恐怖がある。 「彦直よ、そなたに頼みたいことがある」  その言葉を聞いたとき、子温はすでに予測していた。皇帝は頼みという。だが臣下がそれを拒《こば》めようはずがない。そして、予測どおりに玉声《ぎょくせい》は下った。 「智勇胆略《ちゆうたんりゃく》のすべてを具《そな》え、しかも絶対的に信頼できる者でなければ、このようなことは頼めぬ。彦直、予の飛耳《ひじ》鳥目《ちょうもく》となって北方に潜入してくれ。金国内にはいりこみ、完顔亮が何を考えおるか、探ってきてほしいのじゃ」     四  自分で思いこんでいたほどには落ちついてなかったようだ。高宗の御前から退出した子温は、曲折した長い回廊のどこかで、自分の位置を見失ってしまった。曲がるべき地点で曲がりそこねたらしい。  天子から与えられた使命のことを考える。勅命であるから拒みようはない。だがどこまでも密命であるから、安全の保証は絶無である。かりに金国の官憲にとらえられれば、沈黙を守ったまま死んでいくしかないのだ。死を恐れてはいないつもりだが、無意味な死は好まない子温だった。  子温は韓家の長男であり、母親がいる。儒教倫理からいえば、母親への孝養と家の祭《さい》祀《し》とを最優先させねばならぬ。さてどうするか、と思ったとき、一団の人影に気づいた。子温は目をこらして、先頭の人物を認めた。  万俟禽であった。十人をこす官人が、群らがるように彼に随従《ずいじゅう》している。子温は反射的に身体を動かし、朱《しゅ》塗《ぬ》りの太い円柱の蔭に身をひそめた。白髪の宰相は、表情というもののない顔で柱の前方を横切っていった。  一見したところ万俟禽は平凡な老人でしかない。容姿にも言動にもとくに異常はなく、むしろ端整なほどだ。だが、この老人が十四年前に無実の罪で岳飛をとらえ、二ヶ月にわたって凄惨な拷問を加えた末に惨殺したのである。冤罪《えんざい》によって人を殺す、という、人界にあってもっとも陰惨な行為を平然としてなしとげた人物なのだ。そして、このたび宮廷に復帰した彼がまずやってのけたのは、秦檜の子である秦《しん》※[#「火+喜、unicode71BA]《き》の地位を剥奪《はくだつ》し、家族もろとも臨安府から追放することであった。  秦※[#「火+喜、unicode71BA]は泣く泣く家族をつれて臨安府を去っていった。ざまを見よ、と思っていた人々も、あまりの惨《みじ》めな姿に、つい気の毒になったほどである。  子温の父母——韓世忠と梁紅玉の時代は、英雄の世代であったといえる。宋にも金にも智者や驍将が雷雲のごとく群らがり生まれて、覇をきそったのだ。  そのころは悪でさえ非凡だった。秦※[#「火+喜、unicode71BA]や万俟禽の|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》を見ていると、亡《な》き秦檜の巨大さを、子温は認めざるをえない。すくなくとも秦檜は、一国を私物化して小ゆるぎもしなかった。  ついで万俟禽がおこなったのは、岳飛の名誉回復を拒絶することであった。秦檜の死、反秦檜派の宮廷復帰、秦※[#「火+喜、unicode71BA]の追放。それらの変化に勢いづいた人々は、岳飛の名誉を回復するよう、高宗皇帝に願い出たのである。  岳飛は獄中で殺され、彼の後継者で養子であった岳雲《がくうん》は共犯として斬首された。一族はすべて流刑となり、財産は没収された。「天の理《ことわり》はどこにあるか、朝廷の義はどこにあるか」と、人々がささやきあうのも当然であった。  高宗としては、岳飛殺害の全責任を秦檜にかぶせてしまうことができれば、岳飛の名誉回復を認めるつもりだった。兄欽宗を見すてた件と同様、岳飛の死も、高宗の良心に刺さった鋭い棘《とげ》であったのだ。  だが万俟禽にしてみれば、岳飛の名誉回復など、とうてい認められるものではなかった。高宗と異《こと》なり、万俟禽は、すべての責任を秦檜に押しつけることはできなかった。岳飛の死に関して、高宗は見て見ぬふりをしたのだが、万俟禽は直接に手を下して無実の者を殺したのである。それも、きわめて積極的にこの犯罪に加担したことは、誰もが知っていた。岳飛の名誉が回復されれば、つぎは万俟禽が責任を追及されることになるであろう。  かくして万俟禽は、岳飛の名誉回復に異議をとなえる。 「岳飛の名誉を、そうたやすく回復するわけにはまいりませぬ。彼《か》の者は、一貫して、金国との和平に反対でございました。いま彼の者の名誉を回復すれば、金国はどう思うでございましょうか。本朝《わがくに》が和平策を棄《す》て去るのではないか、と疑念をいだき、出兵してまいるやもしれませぬぞ。そうなったらいかがなさいますか」  そういわれて、高宗は不快げに眉を寄せた。何かというと「金国がどう思うか」という論法で、高宗に反対するのが、亡き秦檜のやりくちであった。万俟禽はそれを模《も》倣《ほう》しているのである。だが、この論法は高宗に対してたしかに有効であった。高宗としては、金国を刺激するようなことは、国家のためにも自分自身のためにも、やりたくない。  岳飛の名誉回復案は、かくして葬りさられた。  これが公人として万俟禽の最後の「業績」になる。以後、彼は、無為のうちに地位に安住し、ゆっくりと死に至る。岳飛殺害に対して、彼が罪を問われるのは、死後のことである。  万俟禽が柱の蔭に気づかず通りすぎていったので、子温は息を吐きだした。本来、隠れねばならぬ必要もなかったのだが、猜《さい》疑《ぎ》心のつよい老人から詰問され、天子からの密命に気づかれでもしたら一大事である。用心にこしたことはない。岳飛をすら殺害した万俟禽が、子温の生命など重んじるはずもなかった。  なお用心しながら、子温は柱を離れ、万俟禽とは反対の方角へ歩みはじめた。まだ彼の知る宮廷内の風景はあらわれず、自分がいる場所の見当もつかぬ。困惑して立ちどまったところへ声がかかった。官服を着た人物が、子温の左側、十歩ほど離れてたたずんでいる。年齢は子温より五、六歳上であろうか。おどろくほど背が高く、堂々たる身体つきだが、眉がさがりぎみで奇妙に愛敬《あいきょう》のある顔つきだ。案内を申しでてくれたその男は、子温の名乗りに対してこう応えた。 「姓は虞《ぐ》、名は允文《いんぶん》、字は彬《ひん》甫《ぼ》と申す」 「や、あなたが虞彬甫どのでござったか」  子温は目をみはった。二年前、科挙に合格した新進の官人である。たしか四《し》川《せん》の地に赴任し、「抗金名将《こうきんのめいしょう》」呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》の下で秘書官をつとめていたはずだった。この人物が有名なのは、高宗に対して上疏《じょうそ》文をたてまつったからである。 「秦檜、権《けん》を盗むこと十|有《ゆう》八年、檜死して、権、陛下に帰す」  とは虞允文の上疏文にある文章である。秦檜の生前、高宗には権力がなかった。その事実を、虞允文は明言したのだ。それを読んだ高宗は、著者に興味を持ち、遠い四川から宮廷へと呼んで、秘書丞《ひしょじょう》に任じた。宮廷書記官である。虞允文は文官だが、どうやら軍事に知識と興味があるようで、しばしば高宗に、金国に対する防御をかためるよう進言していた。 「じつは、子温どの、卿《けい》を金国へ派遣なさるよう陛下に進言いたしたのは、この彬甫でござる」  そう告白した虞允文のおだやかな表情を、子温はやや呆然《ぼうぜん》として見つめたのであった。 [#改ページ] 第三章 黄天蕩《こうてんとう》     一  大いなる黄《こう》河《が》が、子《し》温《おん》の眼前にあった。  黄濁した水流が高く低く咆哮《ほうこう》しながら東へと奔《はし》り去る。水量の豊かさは長江《ちょうこう》におよばないが、むろん凡百《ぼんひゃく》の河川をはるかにしのぐ。水勢の強く烈《はげ》しいことは、たとえようもない。天界の巨神が、目に見えぬ大刀で地をたたき割り、そこに豪雨を流しこんで水平の滝をつくったかとすら思える。手で河水をすくいあげてみると、その半分近くが黄土の粒子であることに気づいて、おどろかされる。遠く西天の涯《はて》から黄河は流れ来《きた》り、東天の彼方へと流れ去る。一瞬ごとに大地を削《けず》り、水流に運ばれた膨大《ぼうだい》な土砂は河口に堆積して平野をつくる。年ごとに平野はひろがり、黄河の河口は東へと伸びていくのだ。  宋《そう》の紹興《しょうこう》二十六年、金の正隆《せいりゅう》元年、西暦一一五六年の春二月。子温は黄河の南岸に立っている。西ヘ一日歩けば開封《かいほう》に着く。つい三十年ほど前まで、宋の京師《みやこ》として地上でもっとも繁栄していた都会だ。  大いなる黄河は、山東《さんとう》半島の北を流れて渤海《ぼっかい》湾へとそそぐ。だいたいにおいて、黄河下流の河道は不安定だが、太《たい》古《こ》、黄帝《こうてい》の時代からそうであった。  だが、子温たちの生きたその時代、黄河は河道を変え、山東半島の南を流れて黄海《こうかい》にそそいでいた。河口の距離からいえば、八百里(約四百四十キロ)も南に移動していたのだ。  これはじつは人為的なものである。宋の建炎《けんえん》二年(西暦一一二八年)十一月、文字どおり怒《ど》濤《とう》のごとく南下する金軍を阻止《そし》するため、宋の大臣|杜充《とじゅう》は最後の手段に出た。濮陽《ぼくよう》という土地で、黄河の堤防を破壊し、金軍の前方に濁流の壁をきずいたのである。  黄河は天と地との境を轟雷《ごうらい》さながらの水音でみたし、流れを東北から東南へと変えた。金軍のすさまじい南下は阻止され、多くの人々が征服者の手を逃れて長江を渡ることができた。むろんそれは数十日の時間をかせいだだけで、結局、金軍は黄河を渡ることに成功するのだが。 「……お前の阿爺《とうちゃん》に見せてやりたかったねえ」  滔々《とうとう》たる大河を見はるかして、そう歎息したのは、子温と同じく旅装に身をつつんだ老婦人であった。彼女の姓名は梁紅玉《りょうこうぎょく》という。子温の母であり韓世忠《かんせいちゅう》の未亡人である彼女は、密命を受けた息子について、杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》を発《た》ち、いま黄河の岸に立っているのだ。  成人した息子が老母をいたわりつつ旅をするという話は、「孝《こう》」を倫理の最高位にすえる中華帝国では珍しくない。『水《すい》滸《こ》伝《でん》』は子温の父母の世代、徽《き》宗《そう》皇帝の御宇《みよ》の物語だが、王進《おうしん》という人物が老母をつれて逃避行をするところから本篇の物語がはじまるのだ。  しかし、事情を知らぬ者が見れば、おともをしているのは息子のほうに見えるであろう。老母のほうは鼻唄をうたいながら足どりもかるく、息子は杖《じょう》をつき、荷物を背負って後からついていく。  母が金国へ赴《おもむ》くと宣言したとき、子温の弟たちは血相を変えて反対したが、梁紅玉は意に介しなかった。かるい口調でこういっただけである。 「お前たち、大恩ある母親のいうことにさからうのかい」  その一言で、弟たちは恐れいってしまい、 「大哥《あにじゃ》、母上をよろしく」  というしかなくなってしまったのであった。子温は憮《ぶ》然《ぜん》とした。 「お前たちはよろしくといえばそれですむがなあ、こちらの身にもなってみろ」 「わかっている。家はおれたちが守るから、その点は心配いらないよ、大哥。ふたりして無事に帰って来てくれ」  子温は密命を受けて金国に潜入するのだ。その任務を公表するわけにはいかない。公式には、老母が重病なので看病のために休職する、ということになった。重病どころか、梁紅玉は健康そのもので、足どりの軽快で確かなこと、息子が感心するよりあきれるほどだ。  この時代、黄河の北は金が占領し、長江の南は宋が確保していた。問題は黄河と長江との間である。ここには淮《わい》河《が》という川が東西に流れている。だいたいにおいて、黄河の南・淮河の北を「河《か》南《なん》」と呼び、長江の北・淮河の南を「江北《こうほく》」ないし「淮南《わいなん》」と呼ぶ。淮河の線が、宋と金にとって譲りえぬ最前線となった。  最初のうち金に宋との直接対決を避け、斉《せい》とか楚《そ》とかいった傀儡《かいらい》国家をつくって緩衝《かんしょう》地帯にしようとした。多数の漢民族を統治する自信がなかったからである。だが、ほどなく自分たちの軍事能力だけでなく政治能力にも自信を持つようになった。斉も楚も廃されて、河南一帯は金の直接の統治下におかれるようになった。  すでに子温と梁紅玉は、金の領土に潜入しているのである。  高宗《こうそう》から密命を受けた直後、子温は虞《ぐ》允文《いんぶん》という人に会って、さらにくわしく、潜入の目的を知らされることになった。 「ほかでもない、靖康帝《せいこうのみかど》のことでござる」  靖康帝とは高宗の兄、不幸な欽宗《きんそう》のことである。欽宗とは死後に贈られた歴史上の名であり、この年、紹興二十五年には彼はまだ生存していたから、一般に靖康帝と呼ばれていた。欽宗が即位したときの年号が靖康なのである。  欽宗がどのような境遇にあるかをさぐり、可能であれば何か力ぞえしてほしい。それが皇上《こうじょう》(現在の皇帝、高宗)の御心《みこころ》である。そう虞允文はいうのだった。要するに高宗は兄を見すてたものの、冷酷には徹しきれぬ。せめてすこしは抑留の苦痛をやわらげてやりたいのだが、これまでは泰檜《そうかい》の目を恐れて何もできなかった。公然と金国に問うて、外交上の問題になってもこまる。そこで、まず子温に状況を調べてほしい、というわけであった。  そして、その話を子温から聞いたとき、梁紅玉は、同行を申し出たのである。  韓世忠は死ぬまで欽宗の身を案じていた。抗金義勇軍の無名の一士官であったころ、彼は欽宗の引見《いんけん》を受け、その温和でひかえめな為人《ひととなり》に感銘を受けたのだ。梁紅玉にしてみれば、どうとかして欽宗にお目にかかり、夫の霊に報告したいのである。 「阿母《かあちゃん》は黙ってさえいれば貴婦人に見えるんだ。くれぐれもよけいな口をきかぬようにしてくれよ」 「はいはい、老《お》いては子に従えというからねえ。じゃまをしないように小さくなっているから、どうか見すてないでおくれ」  しおらしく梁紅玉はいうのだが、その点に関して子温は母を信用していない。本気で子に従うつもりなら、おとなしく西《せい》湖《こ》のほとりで子の帰国を待っているはずだ。それが、形としては息子について金国に潜入している。事実としては、息子に荷物をかつがせて、勇《いさ》んで金国に潜入した。欽宗にお目にかかって夫の霊に報告したい、というのは嘘ではないだろうが、この元気な母は冒険が好きなのだと、子温は見ぬいているのだった。     二  ごく幼少のころから、子温は、宋金両国の戦士たちの話を聞いて育った。母である梁紅玉は、正確な記憶力と豊かな表現力とをあわせ持った語り手だったのだ。 「金の四《スー》太《ター》子《ツ》という人は、敵ながらなかなかあっぱれな男ぶりだったよ。天下一とはいかなかったけどね」  梁紅玉にとって天下一の男児は韓世忠なのである。第二に岳《がく》飛《ひ》、第三に四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》、という順序だ。京口《けいこう》随一の美妓《びぎ》とうたわれていたころ、上官につれられて歌館《ゆうかく》をおとずれた無口な大男の兵士が、なぜか彼女の心を惹《ひ》いた。誠実で素朴な好《よ》い男だと思った。「そんな男は|やぼ《ヽヽ》で退屈なだけだよ。もっとしゃれた粋《いき》な男といっしょになって、おもしろい一生を送ればよいのに」と、同僚の妓女たちはいった。だが梁紅玉は、この|やぼ《ヽヽ》な男こそ彼女にこの上なく波乱に満ちた一生を約束してくれそうに思えたのだ……。  こうして夫婦となった韓世忠と梁紅玉とが、もっともかがやかしい武勲をたてたのは、建炎四年(西暦一一三〇年)秋のことである。歴史上に名高い「黄天蕩《こうてんとう》の戦」がおこなわれたのだ。韓世忠は四十二歳、梁紅玉は三十三歳、子温は三歳であった。  この年、宋王朝はまさしく存亡の淵に立たされていた。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼にひきいられた金軍十二万騎が、ついに長江を渡って杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》を攻撃してきたのだ。 「今年こそ宋を滅ぼし、わが女真《じょしん》族の手で天下を統一してくれるぞ」  少壮気鋭の宗弼は、そう決意していた。彼の名は宋全土を戦慄《せんりつ》させた。 「四《スー》太《ター》子《ツ》来《ライ》!」  もっとも怯《おび》えたのは高宗皇帝である。金軍がせまると、高宗は杭州臨安府をすてて南へ逃げだし、追撃されるとついに陸をすて、大船団をしたてて海上へ逃れた。各地を劫掠《ごうりゃく》した宗弼が、ついに高宗をとらえることを断念して引き返した後、ようやく天子は杭州へ帰ったのである。  宗弼はこのとき金国の都《と》元帥《げんすい》である。  都元帥の「都」とは「みやこ」の意味ではなく、「全」や「総」と同義である。都元帥とは、帝国軍最高司令官、あるいは軍事担当宰相とでもいうべき地位であった。宋であれば枢密《すうみつ》使《し》にあたるであろう。  宗弼には三人の兄がいた。「大《ター》太《ター》子《ツ》」宗幹《そうかん》、「二《アル》太《ター》子《ツ》」宗望《そうぼう》、「三《サン》太《ター》子《ツ》」宗《そう》輔《ほ》である。弟に宗峻《そうしゅん》がいる。この五人兄弟はすべて母親が異なる。彼らの父|太《たい》祖《そ》は、きわめて精力的な男性であったようだ。長兄の宗幹は軍事より政治にすぐれ、国《グ》論《ルン》勃極烈《ボギレ》すなわち宰相として内政と外交に大きな功績をあげた。弟の宗峻は母親の身分が高かったので太祖の嫡子《ちゃくし》となったが、若くして死んだ。三兄の宗輔が、西暦一〇九六年の生まれであるから、宗弼や宗望の年齢もあるていど推測できる。  宗弼ともっとも仲がよかったのは、次兄の宗望である。たぐいまれな驍将《ぎょうしょう》で、ことに用兵の神速《じんそく》果敢なことは比類がなかった。少年のころから宗弼は宗望の副将をつとめ、ともに戦場を駆けた。宗弼が十三歳のとき、行軍中に味方とはぐれたことがある。ただ一騎で野を駆けるうち、遼《りょう》軍の一部隊に発見されてしまった。弓と槍で八騎まで倒したとき、弟をさがしまわっていた宗望が軍をひきいて駆けつけ、重囲《じゅうい》を斬り破って宗弼を救いだした、ということがあった。戦場を離れると気のやさしい宗望は、虜囚となった徽宗と欽宗に同情し、和約成立と同時に帰国させてやろうとしたが、宗望のほうが早く死んだ。胸を病《や》んでいたかと思われる。  自らの死期をさとった宗望は、弟である宗弼を枕頭《ちんとう》に呼び、つぎのように遺言した。 「宋朝はかならず再興され、勢力を回復するだろう。わが軍は現在、勝利しつづけているが、大陸全土を支配できるだけの力はない。無用に戦線を拡大してはならぬ。黄河をもって、両国の境界とせよ」  遼を滅ぼし、西《さい》夏《か》を破り、宋を撃《う》って、生涯不敗のままに宗望は息をひきとった。宋の建炎元年(西暦一一二七年)、暑熱の季節であった。  宗望の享年《きょうねん》は不明だが、三十代前半の少壮であったことはまちがいない。彼の死は、金国にとって大いなる損失であったが、徽宗と欽宗にとっても不幸なできごとであった。宗望の死によって、両皇帝を宋へ帰してやるよう主張する者が、金国にはいなくなったのだ。だからこそ、宗弼が大軍をひきいて、いささか性急に長江を渡ることもできたのである。  一方、宗弼を迎撃すべき宋軍はどういう状況であったろうか。  この当時、岳飛の軍を岳《がく》家《か》軍《ぐん》と呼び、韓世忠の軍を韓《かん》家《か》軍《ぐん》と呼ぶ。兵士たちは岳飛や韓世忠を通して、はじめて宋の朝廷に忠誠を誓う、という形になるのだった。兵士たちの俸給や恩賞も、あくまでも主将をとおして受けとるのだ。  前述したように、この当時の南宋の官軍は、傭兵《ようへい》部隊の集合体であった。極端な表現であるが、そう見るのがもっとも実態に近い。もともと、金の侵略に抗して集合した義勇軍が母体だから、そうなってしまうのだ。  中央集権と文官優位とを理想とする科《か》挙《きょ》出身の文官たち。彼らにとって、この事実は憎むべきものであった。文官たちが武器をとり兵を指揮して金軍と戦うわけにはいかない。宋の命運は武将たちの肩にかかっている。韓世忠や張俊《ちょうしゅう》のような無学者たちが宰相級の力を持っている、と思うと、文官たちは腹がたつ。なまじ学問のある岳飛あたりが「国より銭を愛する文官ども」と皮肉ったりすると、ますます腹がたつわけである。  岳飛は若く、才能と学識に富み、自信と覇気にあふれていた。彼に好意をいだく人には、まことに頼もしく見える。彼に悪意をいたく人には、危険で油断ならぬよう映《うつ》る。そして、高宗をとりまく重臣たちの多くが、そちらの見かたをしていた。  保身の感覚が岳飛には乏《とぼ》しかった。彼自身は公明正大な志《こころざし》をいたき、武勲はかずしれず、誰にはばかるところもなかったが、もっと他人の感情に配慮したほうがよかったであろう。あまりに才能と自信がありすぎて、他人がみな|ばか《ヽヽ》に見えたのだ。彼が他人の欠点や失敗を批判するとき、その口調はあまりにも容赦がなさすぎた。  岳飛ひとりが孤立していたわけではない。他の将軍たちも、たがいに嫌悪し、憎みあっていた。  たがいに反感をいだきあう傭兵部隊の集合体。それは他の時代には異常に見えるが、宋のこの時代にはたしかな現実だった。ことさらに不和の種をまきちらす者もいた。張俊などはその悪い例のひとりであった。  ある戦いが勝利に終わったとき、張俊の部下が勇将|劉《りゅうき》の陣営に乱入し、火を放って暴れまわった。主将の権勢を恃《たの》んでの無法であった。ただちに劉は彼らをとらえ、軍律に照らして斬首した。合計十六名が処刑された。無法者たちの一部は、かろうじて逃げだし、張俊に訴えた。激怒して、張俊は劉の陣営に乗りこんだ。 「おれはこの地を宣《せん》撫《ぶ》するためにわざわざやって来たのだ。なぜおれの部下を殺したのか」 「卿《けい》の部下であろうとなかろうと、そんなことは関係ない。軍律に照らして、無法の輩《やから》を処断しただけだ。それとも奴らの無法は卿の命令によるものだとでもいうのか」 「何をいうか、孺子《こぞう》!」  逆上した張俊は剣に手をかけ、劉もまた剣の柄をつかんだ。あわや味方の将軍どうしが斬りあうところであったが、周囲の者が必死に制止して、ようやく事なきをえた。この例においては、張俊のがわにより大きな責任があるであろう。後に張俊は、岳飛を憎むあまり、秦檜の陰謀に加担する。劉のほうは秦檜にうとまれ、辺境の知事として左遷されてしまうのだが、盗賊集団の討伐や行政の公正さによって民衆に敬《けい》慕《ぼ》され、「劉三相公《りゅうさんしょうこう》」と敬称された。相公とは「とのさま」とでもいう意味で、「劉三」とは彼が劉家の三男であることを指《さ》す。  劉と同じ姓ではあるが、劉光世《りゅうこうせい》という将軍も問題が多い人であった。欲が深く、戦争を利用して私《し》腹《ふく》を肥やした点において、劉光世は張俊と同じである。ただ劉光世は、他人を無実の罪におとしいれて殺すような所業《まね》はしなかった。悪人ではなかった。あるいは、悪事すらなしえなかった、というべきだろうか。「身を律するに厳しからず、軍を馭《ぎょ》するに法|無《な》し」と、『宋史・劉光世伝』の記述は手きびしい。  劉光世が高宗皇帝にむかって、つぎのように大言したことがある。 「願わくば国のために力をつくして働き、後世の歴史家に、劉光世の功績こそ第一のものであった、と書かれるつもりでございます」  それに対して高宗は答えた。 「卿不可徒為空言、当見之行事」  口先では何とでもいえる、ぜひ実行してみせてほしいものだ——という意味である。高宗は劉光世をまったく信頼していなかった。劉光世が名門の当主で、勢力が無視できないから、適当にあつかっていただけである。その劉光世と、韓世忠はとくに仲が悪かった。韓世忠は「義を嗜《たしな》んで財を軽んじ」、朝廷から賜《たま》わった財宝もすべて将兵に分配するような男だったから、守銭《しゅせん》奴《ど》の劉光世と気があうはずはなかった。また、劉光世の父は劉延慶《りゅうえんけい》という有名な武将で、兵士時代の韓世忠は、その下で戦ったことがある。父の名声を恥ずかしめる|ばか《ヽヽ》息子だ、とも思っていたようだ。  ともあれ、宋軍は、作戦行動の統一性という点で、致命的な欠陥がある。宗弼はそのことを知っていた。当然、宋軍を恐れる気にはなれない。多少の抵抗があるにしても、錐《きり》をもって薄紙を突き破るがごとく、蹴ちらして北方へ帰るつもりであった。  それに対する宋軍の行動はどうであったか。岳飛や劉は戦意はあるが位置が悪い。金軍の後を追いかけるだけでも容易ではなかった。張俊や劉光世は自軍の損害をきらい、あえて戦おうとせぬ。ただひとり韓世忠だけがいた。  後年、韓家軍は四万の兵を擁《よう》するようになるが、建炎四年の段階ではまだ八千人しかいなかった。精鋭ではあるが、絶対数の不足はいかんともしがたい。だが、正面から戦おうとする韓世忠の決意はゆるがなかった。  四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼を討つ。四《スー》太《ター》子《ツ》を討ちとれば、金は全軍を統帥《とうすい》する名将を失い、一挙に弱体化する。ただひとりの人物を討つことが、最大の戦略上の目的を果たすことになるのだ。  韓世忠はそう確信していた。そして、彼の確信が正しかったことは、後に歴史によって証明されることになる。     三  来襲の速度にくらべると、北《ほっ》帰《き》しようとする金軍の動きはやや鈍かった。杭州臨安府や建康《けんこう》のような豊かな都市を占領し、莫大な財宝を掠奪《りゃくだつ》していたからである。また、無敗のままに帰ろうとする彼らは、当然ながら驕慢《きょうまん》になっており、いささか油断が見られた。  韓世忠は決戦の場を黄天蕩《こうてんとう》にさだめた。そこは長江の流れにのぞむ湾のひとつだった。 「黄天蕩は死港である」  死港とは、出入口が一ケ所しかない湾である。いったん船がはいりこんだら、他に逃れようがない。しかもその出入口はせまく、容易に封鎖できる。平和なとき、嵐を避けて逃げこむのにはよいが、水上戦の根拠地としては不適当であった。  宗弼の軍をそこへ追いこむ。韓世忠と梁紅玉の作戦は一致した。  長江を渡るため、金軍十二万はその南岸に達した。彼らは二千隻の軍船に分乗して長江を南へ渡ったのである。その船団は南岸で彼らを待っているはずであったが、予定の場所には一隻の船影もなかった。韓家軍の激しい攻撃を受け、碇《いかり》をあげて退避してしまっていたのだ。はじめて宗弼はわずかな不安を感じたが、しかたなく船団の姿を求めて、長江の南岸を西へ進んだ。  韓世忠が待ちかまえていたのは、龍王廟《りゅうおうびょう》と呼ばれる土地である。地形のためか気流のためか、霧の多い土地で、その年九月も例外ではなかった。秋冷《しゅうれい》の朝、息をひそめて待ちうける韓家軍の前に金軍が姿をあらわしたのだ。  頭頂部が異様にとがった黒い冑《かぶと》の群。それが白い河霧の底から湧《わ》きあがってきたとき、韓家軍の将兵たちは唾《つば》をのみこんだ。 「鉄塔兵《てつとうへい》だ!」  彼らは知っている。いま自分たちが地上で最強の戦闘部隊と睨《にら》みあっているのだ、ということを。たしかに匈《フン》奴《ヌ》以後|蒙古《モンゴル》以前の歴史で、鉄塔兵は最強の騎兵集団であったにちがいない。その数三千。それが金軍十二万の中核を成《な》していた。 「引きつけろ。もっと引きつけろ!」  指示する解元《かいげん》や成閔《せいびん》ら武将たちの声が緊張をはらんで慄《ふる》える。無限とも思える数瞬の後、高らかに軍《ぐん》鼓《こ》の音が鳴りひびいた。 「咯咯咯《タンタンタン》! 咯咯咯咯咯咯!」  打ち鳴らしたのは梁紅玉である。|はっ《ヽヽ》として立ちどまった鉄塔兵は、つぎの瞬間、一万羽の水鳥がはばたくような音に耳を乱打された。矢が射《う》ちこまれたのだ。  降りそそぐ矢の豪雨の下に、鉄塔兵は立ちすくむかと見えた。だが、鉄塔兵の甲冑《かっちゅう》はきわめて堅固で、矢の多くはそれをつらぬくことができなかった。それでも百騎以上の兵が落馬し、戦闘力を失った。  鉄塔兵にむけて、韓家軍の将兵が殺到していく。鉤《かぎ》のついた棒で馬の肢《あし》をはらって転倒させ、網をかぶせ、長槍で突きまくる。怒号と悲鳴がいり乱れ、血の匂いがたちこめるなかで、宗弼と韓世忠が正面から顔をあわせた。  韓世忠も宗弼も、敵の総帥が陣頭に馬を躍《おど》らせているとは想像していなかった。ほとんど馬首どうしがぶつかりあうほどに両者は接近したのだ。同時に戟《げき》をひらめかせたが、韓世忠の勢いがまさった。すさまじい一合の直後、宗弼の愛馬|奔龍《ほんりゅう》が体勢をくずし、不意をくらった宗弼はよろめいて地上へ転落した。  すかさず韓世忠は戟をさかさに持ちかえ、宗弼めがけて突きおろした。地上で一転して、宗弼は必殺の一撃をかわす。戟の刃は宗弼の胸甲《きょうこう》をかすめ、火花とともに亀裂をつくった。さらに一転して宗弼ははねおき、指笛を鳴らして奔龍を呼んだ。奔龍は風をまいて疾駆してくる。自分も走りながら、宗弼は奔龍の手綱をつかみ、鞍《くら》に手をかけると地面を蹴った。一瞬後、宗弼の姿は馬上にあった。あまりのみごとさに、韓世忠は第二撃を加えることを忘れ、走りさる後ろ姿を見送ったのである。  後に韓世忠は捕虜となった金兵から、その騎士の正体が四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼であったことを聞き、冑《かぶと》を地に擲《なげう》ってくやしがることになる。だがこのときには、正体不明の一騎士になどこだわっていられなかった。  軍の先頭に立って血戦しつつ、韓世忠は兵を動かしている。わずか八千とはいえ、韓家軍は強かった。霧のためもあって、金軍は敵の兵力を把握しそこねた。また、宗弼ひとりに依存しすぎて、中級の指揮官たちがあせり、うろたえ、的確な指示を下すことができなかった。敵も味方も信じられないことだが、金兵は一方的に斬りたてられ、斃《たお》されていった。  鉄塔兵といえども、一対一では韓世忠にかなわぬ。戟がうなりを生じると、血煙と絶鳴が奔騰《ほんとう》し、冑が飛び、甲《よろい》が割れ、人体が馬上から転落していく。三合とつづけて撃ちあえる者はいなかった。十数騎が撃ちたおされ、恐怖を知らぬ鉄塔兵が、開闢《かいびゃく》以来はじめてひるんだ。韓世忠が馬を進めると、押されたようにしりぞく。と、一騎の兵が決死の形相で槍をかまえ、突進してきた。ただ一合で槍ははねとばされ、兵士は胴をつらぬかれた。あっけない勝負と見えた。  だが、その兵士は、胴をつらぬかれたまま、両手で戟の柄にしがみついたのである。何か叫ぼうとして、声のかわりに血の塊《かたまり》を宙に吐きだした。意図するところは明らかであった。彼自身の生命をもって韓世忠の武器を封じこみ、僚友たちに韓世忠を殺させようというのである。鉄塔兵のおそろしさがそこにあった。韓世忠はやむをえず戟を放りだし、背の大剣をぬこうとする。それより早く金兵の剣が頭上に落ちかかってきた。  その瞬間、風を裂いて一本の矢が飛来し、金兵の右眼に突きたった。金兵は槍を放りだし、絶叫をあげて地上へと転落する。そわを横目で見ながら、韓世忠は大剣を抜き放ち。肉薄してきた金兵の槍をはらいのけると、かえす一刀で頸《けい》部《ぶ》を両断した。熱い人血が音をたてて地に降りそそぐ。  韓世忠の危機を救ったのは梁紅玉であった。彼女の弓が鋭く弦音をたてるつど、矢につらぬかれた金兵がもんどりうって落馬し、さらに韓世忠の大剣が右に左に敵を撃ちたおしていく。  むろん韓世忠は個人的な武勇のみに頼っていたわけではない。彼の兵力の配置と運用は完璧であった。金軍は大兵力を生かすことができず、韓家軍の速攻によって陣形を寸断されては各個に撃破されていた。宗弼は敗北をさとった。  地上に夜の闇が落ちかかり、韓世忠と宗弼はそれぞれ兵をまとめて、いったん引き分かれた。軍を点検して、宗弼は、この一日だけで一万の兵を失ったことを知った。 「宋朝弱兵《そうちょうじゃくへい》などと無責任なことを誰がいった」  宗弼の表情に、自嘲《じちょう》がある。金軍は強く勇ましい。宋軍は弱く臆病である。それが一般的な評価であった。だが現実に、金軍はしばしば宋軍に敗れ、いままた、これまでに経験したことのない苦境に立たされている。  金軍の補給能力は低く、動員能力にもかぎりがある。戦闘に勝って敵地深く侵攻しても補給がつづかない。地の利は敵にあり、連戦の疲労と慣れない気候とが将兵を苦しめる。そろそろ撤退《てったい》の時機と思ったからこそ、宗弼は北帰を図《はか》ったのだ。だが長江という自然の壁を前にして、さらに厚く、韓家軍という壁が彼らをはばんだのであった。 「糧食はどれほど残っている?」  宗弼の問いに、元帥府|長史《ちょうし》の蔡松年《さいしょうねん》が蒼ざめて答える。わずか三日分にすぎませぬ、と。この蔡松年という人物は北方に生まれた漢人で、若いときから金王朝につかえた。事務能力にすぐれ、宗弼が遠征するときにはつねに本営にあって補給や庶務を担当し、宗弼の信頼が厚かった。  その日の朝まで、北帰は金軍にとってかがやがしい凱旋《がいせん》であった。それがいまや生か死か、苦難にみちた脱出行に一変してしまった。  亡き兄宗望の忠告が、宗弼の脳《のう》裏《り》をよぎったかもしれない。「むやみに戦線を拡大するな」と二《アル》太《ター》子《ツ》はいったのだ。兄を尊敬しながらも、宗弼はその忠告にしたがわなかったのである。金は強くかつ清新であり、宋は弱くかつ腐朽《ふきゅう》している。自分たちが負けるはずはなく、天の時も人の和も自分たちの上にある。そう宗弼は信じていた。 「恐るべきは岳飛のみ。他の将軍どもなど何ごとかあらん」  そう豪語していた宗弼も、韓世忠の矛先《ほこさき》に苦しんで、自分たちの驕《おご》りを認めざるをえなかった。韓世忠の名が金軍の記憶にきざみこまれるのは、これ以後のことである。  とにかく渡河地点を選ばねばならぬ。宗弼はいそいで軍を再編し、翌日から長江の南岸に沿《そ》って西へ移動した。そのありさまを確認しながら、韓世忠は金軍と並行する形で西へ進む。兵力がすくないからいったん撤退したらどうか、という意見もあったが、韓世忠はそれを拒否した。 「兀《ウ》朮《ジュ》死せんこと目前にあり。もしこの機会を失わば、虜賊《りょぞく》志をえて、中原《ちゅうげん》いつのときか復し、両宮《りょうきゅう》いつの日か還御《かんぎょ》あらん。戦うは他日になく、今日にあり」  実際にはもっと庶民的な言葉づかいをしたにちがいないが、とにかく韓世忠は全軍に覚悟のほどをしめし、三日後ふたたび宗弼に戦いを挑《いど》んだ。先日の思いもかけぬ敗戦で、宗弼はいささか勘が狂ったようである。韓世忠の偽態にまどわされて深追いし、伏兵にあってしたたかな打撃をこうむったあげく、平江《へいこう》という湿地帯に追いこまれ、退路を絶たれてしまった。包囲攻撃を受けること数日、金軍には絶望の色が濃い。 「追いつめられれば野獣とて死を覚悟して闘うものだ。まして吾《われ》らは誇りある女真の民。手をつかねて、むなしく宋軍に殺されてなろうか」  決死の覚悟とはこのときの宗弼の心境であろう。彼は地図をにらみ、知能のかぎりをつくして策を練《ね》った。そして、完璧なまでの死地から、全軍をひきいての脱出をはたすのである。     四  金軍が包囲されていた地帯に、老鶴《ろうかく》河《が》という往古《むかし》の河道があった。泥や葦《あし》によってふさがれ、何千もの小舟が放置されていたその河道を、宗弼は脱出路に使ったのだ。  韓世忠がそれを知ったのは、朝になってからであった。万事に周到《しゅうとう》な解元が、馬を飛ばして報告におとずれたのである。ちょうど韓世忠は梁紅玉と簡素な朝食をすませたところであった。 「計測地点で長江の水深が二寸ほどさがりました。おそらく四《スー》太《ター》子《ツ》が水路を切り開き、そこへ水が流れこんだのでしょう」 「老鶴河の旧河道か」 「まずまちがいないと思われます」 「そうか、やはりな」  韓世忠は歎息した。あと五千の兵力があれば、老鶴河にそれを配置して宗弼を待ち伏せすることもできたであろう。わずか八千の兵力を分散させるわけにいかず、韓世忠は、気にしながらもどうする術《すべ》もなかったのだ。  一夜にして三十里の旧海道を掘りぬき、運河をつくって金軍は小舟で脱出したのである。彼らのふるった死力と、彼らにそれを成しとげさせた宗弼の統率力とは、感歎に値した。ますます四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼を生かしておくわけにはいかぬ。韓世忠は立ちあがり、あらたな作戦を部下に指示した。  いったん宗弼は韓世忠の包囲を脱し、長江の南岸に沿ってさらに西へ走った。そして牛頭山《ぎゅうとうさん》という山の麓《ふもと》まで来たとき、金軍の捕《ほ》捉《そく》をはかる岳飛に遭遇してしまった。両軍ともに死力をつくして戦ったが、金軍は疲労の色こく、王鉄《おうてつ》児《じ》という武将が戦死した。それも、岳飛の養子で、この戦いが初陣という十二歳の少年|岳雲《がくうん》に討ちとられたのである。  その他に百七十五人もの士官が戦死するという金軍の惨状であったが、卓絶した宗弼の統率力は軍の崩壊をかろうじて阻止した。激しい逆撃《ぎゃくげき》をくりかえして、岳飛の猛追撃をしりぞける。このとき岳飛は、むしろ建康府に入城して治安を回復させることを優先し、金軍を追いつめることを断念したのだった。黄天蕩に到着すると、宗弼は船団との連絡をはかって待機した。二千隻の軍船が五日後ようやく陸上の宗弼と合流した。十万の兵を二千隻の軍船に分乗させると、宗弼はそのまま長江の本流へと乗りだしていった。  江上で韓世忠は待ちかまえていた。兵力の増強もなく、岳飛らとの連係も期待できず、かきあつめた軍船も三百隻ていどの数でしかない。だが彼には必勝の策があった。二千本にのぼる鉄の鎖《くさり》を水中に張りめぐらしている。鎖にはひとつひとつ大きな鉤《かぎ》がついていた。  数で圧倒する金軍は、長江の波を蹴たてて突進した。と、軍鼓の音が規則ただしくひびきわたり、宋の軍船は整然と左右に分かれはじめた。冑をかぶらず、甲だけを身に着けた梁紅玉が、軍船の楼上で自ら軍鼓をうち鳴らす。 「咯咯《タンタン》! 咯咯! 咯咯咯咯!」  その音によって、すべての軍船が前後左右ヘ一糸の乱れもなく行動するのだった。このときの梁紅玉の英《えい》姿《し》は、後世、多くの画家により歴史画として描かれることになる。  罠《わな》か、と、宗弼は疑ったが、軍船の数も兵士も金軍のほうがはるかに多い。中央突破が可能と見て、全艦の全速前進を命じた。金軍はさらに突進し、宋の船列をまさに分断しようとした。  その瞬間であった。十隻をこす金の軍船が江上で急停止したかと思うと、つんのめるように転覆したのである。悲鳴と水柱がたてつづけにあがり、みるみる金軍の船列は秩序を失った。沈没に巻きこまれるのを避けようとして方向転換すると、他の船にぶつかる。さらに鎖に舵《かじ》をとられて停止し、数隻がかたまって動けなくなる。  鎖を切るよう宗弼は指示したが、鉄鎖を断つのは容易ではない。狼狽《ろうばい》するうちに、船底を鉤が突き破り、水が流れこんでくる。たちまち百隻以上の軍船がかたむき、つぎつぎと長江の水に呑みこまれていく。かたむく甲板から、人や馬が滑落し、波間へ姿を消す。  金軍は恐慌《きょうこう》におちいった。女真《じょしん》族は勇猛で騎馬戦に長じているが、泳げる者はほとんどいない。船が沈めば溺《でき》死《し》するしかないのだ。恐怖に駆られた金兵は、上官の命令ももはや耳にはいらなかった。せめて水に浮かびやすくしよう、と、甲冑をぬぎすて、船体をたたきこわして板を剥《は》がし、それにつかまって逃れようとする。その混乱を、韓世忠は見逃さなかった。いまこぞ金賊《きんぞく》を鏖殺《おうさつ》する好機である。 「咯《タン》咯咯! 咯! 咯咯咯!」  鳴りひびく軍鼓を合図に、宋軍はいっせいに襲いかかった。軍船を近よせ、弓や弩《おおゆみ》から矢の雨をあびせる。船体を敵のそれに衝突させ、跳《と》びうつっては斬りこむ。甲冑をぬぎすてた金兵たちは、勢いに乗る宋兵たちの刃《やいば》に抗しようもなかった。韓世忠自身、偃月刀《えんげつとう》をかざして敵船に躍りこみ、草を刈るがごとく金兵を断りたおしていく。解元も成閔も歴史に残る勇戦ぶりで、解元などは敵の軍船とすれちがいざま、長槍を伸ばして敵将の咽喉《のど》をつらぬくという妙技を見せた。  一隻また一隻。軍船は金兵の血と屍体におおわれた。これほどの凄惨な敗北を、金軍はこれまでに知らない。一日の水上戦で六百隻の軍船と二万五千の兵を失い、宗弼はかろうじて残兵をひきい、黄天蕩に逃げもどった。  宗弼ほど勇敢な男でも、気の弱くなる時というものはあるものらしい。韓家軍の攻勢を実力でしりぞけえぬ。そう思ったのが第一の弱気であり、交渉して兵を退《ひ》かせようと考えたのが第二の弱気であった。 「宋の将軍どもは、張俊にしても劉光世にしても強欲で、私腹を肥やすのに熱心と聞く。韓世忠もおそらく彼らと同じだろう。これまで掠奪した財宝のすべてを奴にくれてやり、この場を逃してもらうとしよう」  北方民族にとって、掠奪とは一種の産業のようなものだ。同族から奪うのではなく、豊かな民族からとりあげて貧しい同族に分配するのだから、べつに悪いこととは思わない。翌日さっそく宗弼は、掠奪した財宝をまとめ、韓世忠に交渉を申しこんだ。両者はそれぞれ軍船に乗り、長江の波をへだてて対面した。  このときの対話は、どうやって成立したのであろうか。通訳がいたとも考えられるが、おそらく宗弼が漢語をしゃべったと思われる。金の皇族が文章力や語学力にすぐれていたことは史書に明記されているし、客観的にみて宋が金より文化程度が高かったのだから、低いほうが高いほうの言語を学ぶのも当然である。もっとも、個人的には、金国人である宗弼のほうが、宋国人である韓世忠よりはるかに学問の素養があったわけだが。  まず宗弼が鄭重《ていちょう》に一礼していう。 「韓将軍の武勇は宋金両軍に冠《かん》たり。願わくば哀憐《あいれん》をもってわが軍の兵士を故国に帰していただきたい。感謝の証《あかし》として、軍中の財宝ことごとくを将軍に進呈し、かつ後日かならず恩に報いん」  韓世忠の返答は、つぎのようなものだった。 「両宮《りょうきゅう》を還《かえ》したてまつれ」  両宮とは金軍の捕虜となって北方の荒野に幽閉されているふたりの皇帝を指《さ》す。つまり徽宗と欽宗とを解放して帰国させよ、と、韓世忠は要求したのである。 「それといまひとつ、汝《なんじ》らが無法に占領した宋朝の領土を返せ。この二点を容《い》れるなら、汝らを生かして故郷へ還してやろう。それ以外に交渉の余地などない」  韓世忠と宗弼の視線が空中で衝突した。軟弱な者なら、彼らの眼光を受けただけで気死《きし》したかもしれぬ。宗弼は自分の甘さをさとり、ひそかに恥じた。韓世忠は買収に応じるような男ではなかった。このような男には、堂々と戦って堂々と勝つしかないのだ。 「なるほど、交渉の余地はないようだ。ではしかたない。実力をもっておぬしの陣を斬り破るとしよう。後日を楽しみに待て」  言い放って、宗弼は船をかえし、黄天蕩に引きこもった。死《し》戦《せん》を覚悟したものの、にわかに作戦も立たず、宗弼は苦悩した。 『通俗両国志《つうぞくりょうこくし》』などの稗《はい》史《し》によれば、このとき苦悩する宗弼のもとをひとりの老人がおとずれ、韓世忠を破る秘策を授《さず》けたという。だが、「奇略を授ける謎の老人」というのは、『三国志』などにもよく見られるお決まりの設定で、事実としては信じられない。  むしろ、幾度も窮地《きゅうち》に追いつめられながら、そのつど全知全能をふりしぼって脱出策を考えだす、宗弼の不屈さをこそ高く評価すべきであろう。このときも苦しみぬいて、ついに宗弼は反撃の戦法を考えついた。ただ、これは多分に自然現象に依存せざるをえないものであった。  断続的に戦闘をまじえつつ数日が経過して、ついに天は宗弼に味力した。江上の風は完全にやんで、韓家軍の軍船は江上にひしめいたまま動かぬ。このときの要点は、金の軍船には櫓《ろ》がついており、無風でも漕《こ》いで動くのが可能だったことだ。韓家軍の船は完全な帆船で、櫓がついておらず、無風では動けない。そのような船しかなかったのだからしかたないが、この差が韓世忠をして大魚を逸《いっ》せしめることになった。  無風を確認すると、ただちに宗弼は急進を指令した。兵士から将軍まで必死に船を漕ぎ、韓世忠らの眼前を通過していく。  完全な無風状態のもとでは、帆船が動きようもない。金軍はそれに乗じた。宗弼の命令一下、数万本の火箭《ひや》がいっせいに放たれた。江上に炎の河が生まれたかと見えた。帆船は動けず、火箭を避けようもない。たちまち帆や船体が火につつまれて燃えあがる。そして、ひとたび火が燃えると、それが大気の流れを生み、風がおこる。しかも風は渦巻いて、方向が一定しないから、帆船はそれに翻弄《ほんろう》され、たがいに衝突し、回転し、大混乱となった。  韓世忠は歯ぎしりした。 「おのれ、手をつかねて金賊に名をなさしめるか」  彼は軍船から手漕《てこ》ぎの小舟をおろさせ、それに乗って金の軍船の列に突入した。解元、成閔らの諸将もそれに倣《なら》った。数百の小舟が波を蹴って金の船団に群らがっていく。おどろく敵船に小舟を寄せ、韓世忠は大剣を手に跳びうつった。  剣光が斜めに奔《はし》った。刀をつかんだまま、鉄塔兵の右手が血の尾をひいて宙に舞いあがった。絶叫を放った兵が船上からもんどりうって水面にたたきつけられる。さらに大剣がひらめいて、ひとりの左肩を割り、ひとりの咽喉《のど》を斬り裂き、韓世忠の長身は金兵の血に染まった。さながら深紅の武神像だ。一閃ごとにひとりを倒し、一《いっ》揮《き》ごとにひとりを討ち、乱刃乱槍《らんじんらんそう》のただなかで韓世忠ひとりは傷も負わず、その突進をとどめる者は存在しないかに見えた。  その眼前に躍りたった金軍の武将がいる。三度めの対面で、もはや見あやまりようもなかった。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼であった。 「韓世忠! それほど両宮に見《まみ》えたくば、おぬしの首を五《ご》国《こく》城まで運んでやろう。彼《か》の地は寒いゆえ、首が腐る懸《け》念《ねん》もないわ!」 「妄言《もうげん》するをやめよ、金賊!」  どちらが先に斬りつけたか、たちまち二本の白刃が激突して、火花の滝を降らせる。船板を踏み鳴らし、縦横に剣をふるい、斬撃《ざんげき》をかわしあうこと五十余合におよんだが、勝敗は決しなかった。やがて煙が巻き、敵味方の兵がいりみだれて、両者は分けへだてられた。  いまや黒煙は天にみなぎっている。風は炎をあおり、炎は風を強めて、長江の水上は熱の嵐におおわれていた。人間どもの戦いにおどろいた淡水|海豚《いるか》が波間に躍りあがり、水鳥の群が飛びかいつつ鳴きさわぐ。それらの音を圧して、軍鼓のひびきが規則ただしく耳をうつ。軍船の楼上で、梁紅玉がなお軍鼓を鳴らし、味方を激励しているのだった。だがその軍船にも火が燃えうつってきた。金兵の返り血をあびた解元が、小舟を寄せて呼びかける。 「女将軍、船をお棄《す》てくだされ。もはやこの船も危のうござる」  再三、解元にすすめらわて、ついに梁紅玉はそれ以上、船にとどまることを断念した。すでに帆は炎のかたまりとなって、黄金の怪鳥さながらに帆柱から舞いあがろうとしている。梁紅玉は、寄せられた小舟に乗りうつって岸へむかった。 「伝え聞く赤壁《せきへき》の戦とはこんなだっただろうか、と思ったよ」  後に梁紅玉は子温にむかってそう語ったものであった。それほどに火と煙の勢いは激しく、燃えあがる軍船の群は、さながら炎の長城かと見えたのである。  韓世忠も梁紅玉も、かろうじて火と煙から逃れ、長江の南岸にたどりついた。解元、成閔らの諸将も、乱戦をかいくぐってどうにか陸にあがることができた。  宗弼も炎と煙の戦場を脱し、北岸に上陸した。全身、血と煤《すす》にまみれながら、なお颯爽《さっそう》として見えるのが四《スー》太《ター》子《ツ》の面目《めんぼく》である。だがさすがに疲労の色は隠しおおせなかった。 「生き残った者は何人おるか?」  そう問いかけた宗弼は、全軍の半ばを失ったと知って肩を落とした。長江を渡って、一時的に杭州臨安府を占領し、高宗皇帝を海上へ追い落とした。女真族の歴史上、空前の壮挙であったが、宋を滅ぼすことはできなかったのだ。宗弼の武名は天下にとどろいたが、そのようなことで彼は満足してはいられなかった。  なお煙におおわれた長江を見はるかしながら、宗弼はただならぬ喪失感に耐えていた。この後、金軍がふたたび長江を渡って杭州臨安府を攻めおとす日がはたして来るであろうか。その思いを胸に、宗弼は愛馬奔龍にまたがり、馬首を北へ向けたのであった。生き残った六万人の金軍が彼につづいた。  かくして、韓世忠は八千の兵をもって金軍十二万に対抗し、四十八日間にわたって敵の作戦行動を阻止したのである。宗弼は大陸全土の征服と高宗を捕えることとを断念し、北方へ帰らざるをえなかった。韓世忠は国家の危機と皇帝の安全とを救ったのである。 「四《スー》太《ター》子《ツ》の首をとりそこねた」  と、韓世忠は無念がったが、それでいいのだ、と、梁紅玉は思う。四《スー》太《ター》子《ツ》を討ちとれば、韓世忠の武勲はあまりに巨大すぎるものとなり、宮廷の嫉《しっ》視《し》と疑惑を呼ぶことになったにちがいない。そうなれば、朴直《ぼくちょく》で政略と無縁な韓世忠は、どのように卑劣な罠にはまるか知れたものではなかった。  口に出しては、梁紅玉はこういった。 「あまり欲を出すものではありませんよ、良臣《りょうしん》どの。他の方たちにも武勲をたてさせてあげなくては」 「うむ、そうだな。そのとおりだ」  大きくうなずく韓世忠は、だがやはり残念そうに長江の北岸をにらみつづけていた。その視線をさえぎるように、なお軍船の群は炎上をつづけ、江上は煙におおわれている。  ……あれからもう二十六年もたってしまった。あの死闘に生き残った将兵も、いま幾人が生きつづけているだろう。梁紅玉の夫である韓世忠も死んだ。韓世忠がもっとも信頼していた解元も病死した。そして敵の総帥であった宗弼も死去したという。梁紅玉は、静かな日々のなかでひとつの想いをいだくようになった。  生きるということは、自分以外の人間が死んでいくのを見送ることなのだ、と。 [#改ページ] 第四章 渡河     一  黄《こう》河《が》の南岸に沿って、梁紅玉《りょうこうぎょく》と子《し》温《おん》は西へ向かった。最初の目的地は開封《かいほう》である。かつて大宋《だいそう》帝国の首都として殷賑《いんしん》をきわめ、東京《とうけい》とか※[#「さんずい+卞」、unicode6C74]京《べんけい》とかいう異称があった。その栄華は、『東京《とうけい》夢華《むか》録《ろく》』ほかの記録にくわしいが、夜のにぎわいは唐《とう》の長安《ちょうあん》をさえしのぐものだったのである。  もともと開封は政治都市ではなく経済都市であった。黄河と大運河との結節点に位置し、大陸の水陸交通の中枢で、四方八方から人と物資が集まってくる。西暦九六〇年、太《たい》祖《そ》皇帝|趙匡胤《ちょうきょいん》が宋王朝を建てたとき、経済と交通の中心地を首都としたのである。  開封が首都となって百六十年後のこと。当時の徽《き》宗《そう》皇帝は、宮廷内の遊びにも飽《あ》きて、にぎやかな市街へ遊びに出かけたくなった。むろん天子たる身、軽々しく宮城の外へ出かけられるわけもない。そこで、大臣のひとり高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]《こうきゅう》に相談した。高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]は政治家というより、皇帝の遊び友だちである。彼は皇帝を変装させることにした。科《か》挙《きょ》の試験を受けるために上京した書生、という態《てい》をつくり、ふたりで宮廷をぬけだしたのである。なお、高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]は、『水《すい》滸《こ》伝《でん》』には冷酷残忍な悪役として登場するが、実像は、さしてだいそれた野心があったわけでもなく、奸臣《かんしん》と呼ぶにも値しない。無責任で不定見な、いつの世にもありふれた小権力者である。反対派にもひそかに資金を渡して、批判や弾劾《だんがい》をまぬがれていたというから、保《ほ》身《しん》の名人でもあったようだ。  とにかく徽宗は街へ出かけた。瓦子《がし》という繁華街にはいってみると、広い道路が人であふれている。奇術師がいる。講釈師がいる。雑劇《しばい》に曲芸のかずかず。影戯《かげえ》に角抵《レスリング》。こちらで闘鶏《とうけい》をやっていると思えば、あちらでは鳥の鳴声を競っている。剣や棍《ぼう》で演《えん》武《ぶ》する者もいる。「|すり《ヽヽ》だ、すりだ」と騒ぐ声、犯人を追う絹捕《めあかし》の姿まで、徽宗にはめずらしく、おもしろい。  さらに金線巷《きんせんこう》という地区にはいると、ここは女好きと酒好きの天国である。三階建の妓《ぎ》楼《ろう》が建ちならび、美酒や脂《し》粉《ふん》の香がただよう。なまめかしい若い女の声や胡弓《こきゅう》の音が聴《きこ》える。徽宗は高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]に案内され、ひときわ豪壮な妓楼へはいった。三階の個室に案内される。  李師師《りしし》という開封随一の美妓《びぎ》が徽宗の相手をつとめた。むろん皇帝だとは知るよしもない。科挙の受験生だと信じこんで、「ご出身はどちら? ご家業は? お名前は?」と問いかける。何しろ育ちのよい人だから、徽宗は嘘がつけない。 「ああ、いや、予《よ》は京師《みやこ》の産でな。家は代々、天子をやっておる」 「あら、おもしろいご冗談」 「いや、ほんとなのじゃ。で、予は趙八郎《ちょうはちろう》といってな、家を継いで天子をやっとるのだよ」  徽宗が自分を趙八郎と称するのは、先帝の八男だからである。彼がそう主張するのを聞いて、李師師は眉をひそめた。この男は、狂人か詐欺師かにちがいない、と思ったのである。ひそかに役人に知らせた。よりによって天子を偽称するとは大罪にもほどがある。開封府庁から二百名もの兵士が駆けつけて妓楼を包囲した。外の騒ぎを不審に思った高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]が出てきて、事情を察すると、兵士たちの隊長を一喝する。 「上《しょう》のお楽しみをさまたげるとは何ごとか、不忠者どもが!」  高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]の顔はよく知られているから、兵士たちは仰天して退散する。ほんものの天子と知って、李師師もひたすら無礼を謝する。笑って徽宗は赦《ゆる》し、以後、長いこと李師師を寵愛した。  右の話は単なる笑話のようだが、無視できない要素を含んでいる。徽宗の為人《ひととなり》や、開封のにぎわいがうかがえるし、何よりも社会が平和で安定していたことがわかる。皇帝が護衛もつれずに変装して街を歩き、いっこうに身の危険を感じずにすんだのだ。誰が見ても泰平の世であり、この泰平は永くつづくものと思われたにちがいない。  だが、金《きん》の侵入によって宋が一時的に滅亡するのは、それからわずか十年後のことである。宋の平和と繁栄は、深淵の縁《へり》にかろうじて立っていたのだ。滅亡までの迅速さは、坂道を転げ落ちるというより、垂直の滝を落下するようであった……。  黄河流域の春はまだ浅い。冬の残存勢力が風に乗って北から殺到してくる。強風は大地の表面から土を舞いあげ、草を吹きちぎり、人の肌から潤《うるお》いを奪う。さえぎるものとてない広漠たる大地を風は鞭《むち》うってやまない。 「何と、この地では空が黄色い」  子温は唖然《あぜん》とする。「黄塵《こうじん》」というものを知識としては知っていたが、実際に見るのは初めてであった。黄塵は西北からもたらされるので、空の東南半分は青く、反対側は黄色く、その境界は白っぽい。かつて宋の全盛時には、街道の左右には樹木が蔭《かげ》をつくり、野は緑をなし、路面も整備されていた。ひとたび戦乱が地をおおえば、野は焼かれ、樹は切りたおされ、水路は屍体と泥とでふさがれてしまう。長期にわたる人の努力でたもたれていた緑は、たちまち色あせ、消えさってしまう。そして天と地との間を風だけが吹きぬけ、黄塵をまきちらす。乾ききった貧弱な土を、だが梁紅玉は愛《いと》しげに手にとるのだ。 「この土には歴史が染《し》みこんでるんだ。黄帝《こうてい》以来、何億人もの血と涙と汗と、それに野心と勇気と智略とがね。子温、お前の阿爺《とうちゃん》も若いころここを通っていったんだよ」  梁紅玉はもともと江南《こうなん》の産であるから、北方とは縁が薄い。だが彼女の夫は、黄河の上流に生をうけ、馬を友として原野や岩山を駆けめぐった。十八歳にして正式に官軍の一員となり、あるときは西《せい》夏《か》軍の将軍を二百歩の距離から一矢で射落《いお》とした。あるときはただひとりで三千の賊軍の本拠地に乗りこみ、説得して無血で降服させた。大陸の西北の涯《はて》で生をうけた男が、万里を転戦して、ついに大陸の東南隅で死ぬことになったのだ。  生前、韓世忠《かんせいちゅう》は梁紅玉に対して「女は黙っとれ」といったことは一度もない。何ごとも妻に相談し、意見を求めた。妓女であった梁紅玉がこれほど軍事に精通しているとは、思えばふしぎなことであった。 「紅玉が男に生まれていたら、すぐにでも枢密《すうみつ》使《し》になれるのにな」 「良臣《りょうしん》どのがなればいい」 「おれはだめだ。学問がないからな。鵬挙《ほうきょ》とはちがう」  鵬挙とは岳《がく》飛《ひ》の字《あざな》である。岳飛には学問があり、詩をつくることも上奏文《じょうそうぶん》を書くこともできた。 「では鵬挙どのなら枢密使になれるのでしょうか」 「才能と実績からいえば当然だ。ただ、あの男は敵が多いからなあ」  自分よりはるかに年少の岳飛を、韓世忠は尊敬していた。だがそれでも、岳飛の自信家ぶりに辟易《へきえき》することがあったのだ。結局、韓世忠は盗賊あがりの張俊《ちょうしゅん》とともに枢密使になれたが、若い岳飛は枢密副使にとどまった。これが岳飛の矜持《きょうじ》を激しく傷つけ、彼は宮廷の人事に不満をもらすようになる。そしてそれも後日の不幸の一因となるのだ。  四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》ひきいる金軍が黄天蕩《こうてんとう》に集結した、との報がとどいた夜である。明日はいよいよ決戦、という緊張が韓《かん》家《か》軍《ぐん》にみなぎった。作戦を再確認して武将たちを解散させた後、韓世忠は妻に声をかけた。 「今《こ》宵《よい》はみごとな月夜だ。ふたりでそぞろ歩きでもしようか」  韓世忠は風流とは縁の遠い男である。笑って梁紅玉はうなずいた。柄《がら》にもないことを、と、おかしくもあるが、それ以上に、夫の不器用な心づかいが嬉《うれ》しい。  ふたりは甲冑《かっちゅう》をぬぎ、軍船から小舟をおろして上陸した。満月の青白い光に照らされながら、小高い丘へと歩いていく途中で、韓世忠が詞《はうた》を歌いだした。   万里の長江《ちょうこう》 淘《なが》れて不尽《つきず》   壮《おお》しく秋色を懐《いだ》けり   竜虎|嘯《うそぶ》き風雲泣く   千古の恨《うら》み如何《いか》にして晴《はら》さん   山河に対《むか》えば耿々《こうこう》として血涙襟《けつるいえり》を沾《うるお》す……  韓世忠の声は朗々としてひびきがよい。百万の大軍を叱《しっ》咤《た》するにたる勇将の声である。ただ歌は拙劣《へた》で、声が大きいばかりにかえって拙劣さがきわたつのが気の毒だった。  長江の暗い流れをへだてて、光の毬《まり》が見える。金の軍船が対岸に密集し、灯火が群らがっているのだ。このときの韓世忠の心境を、『説岳《せつがく》通俗《つうぞく》演《えん》義《ぎ》』は、「曹公《そうこう》、赤壁《せきへき》にのぞんで槊《ほこ》を横たえ詩を賦《ふ》すの心に似たり」と表現している。 「……結局、生き残ることになったけどね。仮につぎの日、戦場で死んだとしても侮《くい》はなかったろうよ。わたしが選んだ男は、わたしにこの上なくおもしろい人生を送らせてくれた。良臣どのの拙劣《へた》な歌を月の下で聴いたときほど幸せなことはなかったよ」  うなずきつつ、気になることが子温にはある。黄天蕩の戦いのとき、幼い子温は保母《うば》にあずけられていた。戦死した場合、遺《のこ》された子の身を案じなかったのだろうか。 「心配なんぞしなかったね。韓世忠と梁紅玉の子なら、親なんぞいなくてもたくましく生きていけるはずさ。子にとって、むしろ親などじゃまなものだよ。いま、お前がそう感じているようにね」  梁紅玉は笑い、子温は渋い表情になる。まだとうてい彼は母親にかないそうにもない。     二  開封まで二十里の地点で休息することにし、昼食をとった。はいった酒肆《さかば》の壁には、この時代、酔った仙人の図がかかっている。飯に肉と野菜をかけたものを注文する。それ以外のものはできない、というのだからしかたない。飯を運んできた老人は、眼病にかかっているらしい赤い眼をしょぼつかせつつ、不意に口を開いた。 「息子さんは健康そうな身体をしていなさる。朝廷の役人に見つからぬようなさることじゃ」  それだけいって、老人は口を閉ざしてしまった。梁紅玉と子温は食事をすませ、代金を支払って店を出た。  開封に近づくにつれ、人馬の往来が増える。目だつのは、兵士に監視された男たちの列と牛馬の群だ。木材や石材を運ぶ車も多く、それらが通るたびに濛々《もうもう》と埃《ほこり》がたつ。 「大規模な土木工事か、大規模な出兵か、どちらかがおこなわれるということだね。あるいは両方かもしれない」  どちらにしても、権力者がすぐにやりたがることだ。万人の目に明らかな形で、自分の権勢を確認したいのである。宮殿を建てるのも大軍を動員するのも、ひけらかしたいためだ。  このとき金国では、二十歳から五十歳までの男は、ことごとく徴用されつつある。半数は兵士とされ、半数は土木工事に駆りだされるのである。二十歳未満の少年、五十歳以上の老人、そして女性は、租《そ》税《ぜい》をおさめるために働き、そして武器をつくらされる。一戸ごとに千銭の税をおさめ、矢を十本こしらえて軍隊におさめねばならない。  農家の牛も徴発される。軍需品を運ぶためであり、その皮革《かわ》で甲《よろい》や矢《や》筒《づつ》をつくり、肉は食糧とされる。農家にとって牛は貴重な財産であるが、代償なしで取りあげられてしまうのだ。馬も同様で、戦争のために完顔亮《かんがんりょう》が全国から集めた馬は五十六万頭におよんだ。 「戦争といっても、遼《りょう》はすでに滅び、宋とは和平が成立し、西《せい》夏《か》は服属している。どこを相手に戦うつもりなのか」  金の役人も民衆も、不安を禁じえなかった。むろん公然と批判はできぬ。声をひそめて語りあうのである。 「金主《きんしゅ》は隋《ずい》の煬帝《ようだい》以来の暴君といわれておるそうな」  と、かつて宋の高宗《こうそう》皇帝は子温にむかって声をひそめた。たしかに完顔亮は煬帝に似たところがある。まず帝位に即《つ》くとき、道義的に問題があった。完顔亮は、従兄《いとこ》である煕《き》宗《そう》を弑《しい》して即位した。煬帝は、本来の皇太子である兄を陰謀によって追い落とし、即位直後にその兄を殺した。即位にあたっては病床の父帝を殺したという不名誉な風聞もあった。  贅沢《ぜいたく》が好きなこと。女色におぼれたこと。大規模な土木工事を好んだこと。才能にあふれ、ことに文才に富んでいたこと。自信がありあまり、経験にとぼしかったこと。それらの点でも、煬帝と完顔亮は似ていた。  そしてふたりとも北方に生まれ、南方にあこがれた。完顔亮は即位後、金建国以来の首都|上京会寧府《じょうけいかいねいふ》をすて、燕京《えんけい》に首都を遷《うつ》した。燕京は、後世、北《ペ》京《キン》と呼ばれるようになる土地である。 「あまりまねされてはこまる。隋と金とでは国力の蓄積がちがう」  これもそのとおりである。煬帝が即位したとき、隋は歴史上もっとも富みさかえる豊かな国であった。南北朝の戦乱が熄《や》んで、平和と繁栄が天下に満ち、国庫には財貨があふれていた。煬帝は、大運河を建設し、何百もの豪壮な離宮を建て、何万人もの行列をしたてて天下を巡幸し、無数の美女を絹と宝石とで飾りたて、それでも国庫には余力があって、二度の減税をおこなったほどである。  金はどうか。宋と和平条約をむすんだ結果、金は莫大《ばくだい》な歳貢《さいこう》を受けとることになった。毎年、銀二十五万両と絹二十五万匹が宋から贈られる。これほどの富も、だが金の国家財政のすべてをささえることはできなかった。  ひとつの要因として、黄河流域の生産力がいちじるしく低下していることがあげられる。なぜそうなったかというと、かつて金軍が乱入して掠奪《りゃくだつ》と破壊のかぎりをつくしたからである。誰のせいでもない。そして、先代の煕宗と、現在の完顔亮と、二代つづいての失政が国庫を圧迫する。  治世の初期において名君といわれた人が、末期においては暴君として後世に汚名を残す。歴史上けっして珍しい例ではない。だが、まったく同じ「初期名君・末期暴君」型の天子が二代連続した例は、さすがにまれであろう。  金国も統治がむずかしい時代にはいっていた。中華帝国に侵入して王朝をたてた少数民族が、かならず直面する問題である。少数の征服者が、多数の漢民族を支配する。しかも征服されたほうが、文化的にも高度で、経済的にも豊かであり、征服者を見下ろしている。  征服に成功したのは、ただ軍事力が強かったからであり、何よりも中華帝国の腐敗と弱体化に乗じたからである。戦いに勝ち、繁栄した都市や肥沃な田園を占領したものの、さて気づいてみれば、これらの土地と人民をどのように統治すればよいのか。自分たちの部族だけで生活していたいままでのように、簡単にはいかないのだ。  第一の方法は、行政技術にすぐれた漢人官僚を登用して、彼らに実務をゆだねることだ。金国の初期は、それで成功した。北方の辺境にいた漢民族の知識人たちは、すすんで金に協力した。彼らは宋の本土へ行けば、単なる田夫野人《いなかもの》あつかいされるだけで、出世もおぼつかない。だが新興の金王朝につかえれば、重要な地位を与えられ、いくらでも才能をふるうことができるのだ。  彼らに実務をゆだねつつ、金は国家制度の変革に着手した。これまでの素朴な部族国家から、中華帝国の正統な王朝へと変わらねばならない。その大事業にあたったのが、大《ター》太《ター》子《ツ》宗幹《そうかん》であった。二《アル》太《ター》子《ツ》宗望《そうぼう》や四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の兄である。彼は太祖皇帝の長男であったが、母が正式な妃ではなかったので、帝位を継承することができなかった。だが彼はそれを怨《うら》むこともなく、宰相として国のためにつくした。彼を助けたのが漢民族の韓《かん》企《き》先《せん》という重臣で、金の国家制度がととのったのは、ほとんどこのふたりの功績である。だがその功績も、ここ十年の混乱と失政で無に帰そうとしていた。 「古《いにしえ》より大兵大役《たいへいたいえき》、未《いま》だ民怨沸騰《みんえんふっとう》して国を喪《うしな》い身を亡《ほろ》ぼさざる者|有《あ》らず」  と、清《しん》の史家|趙翼《ちょうよく》は記す。古来、大きな戦争をおこす権力者は、かならず人民の怒りによって、国と自分自身を滅ぼすものである。歴史をみればわかりきったことなのに、なぜ権力者は同じ愚行を何度も何度もくりかえすのであろう。趙翼の筆には、激しい怒りがある。およそ、人の世に、権力者ほど歴史に学ばない者はいないようである。  金国内の治安は、急速に悪化しつつあった。いたるところで叛乱《はんらん》がおこり、官《かん》吏《り》が殺される。南では漢民族の農民たちが役人に反抗し、村をすてて山中に逃げこむ。そして北では契丹《きったん》族の叛乱がおこっていた。契丹族は、かつて遼という国をつくって北方の広大な領域を支配したが、西暦一一二五年、金によって滅ぼされた。その同じ年に、金は宋に乱入する。そして、つい二、三年の間に、遼と宋というふたつの大国が、新興の金によって滅ぼされてしまうのだ。  だが、王朝が消滅しても、その土地に人がいなくなるわけではない。  もともと中華帝国の農民たちは温和で忍耐づよいといわれるが、ひとたび起《た》てば、その怒りは王朝をくつがえし、侵略者を圧倒する。金の以前に、遼が侵略してきて暴虐のかぎりをつくしたことがあった。侵略に抵抗する者をかたはしから殺し、屍体を積みあげて、これを「打穀草《むぎかり》」と称した。恐怖によって支配しようとしたのだが、農民たちの抵抗はやまない。殺しても殺しても、家族や同志の屍体を踏みこえて、遼軍にたちむかってくる。ついに遼の太宗《たいそう》皇帝は怯《ひる》んで、全軍に撤退を命じるにいたった。 「ふん、中国がこれほど治《おさ》めにくい国だと知っていたら、誰がわざわざやってくるものか。こんなところより北方の曠《こう》野《や》のほうがよほどましだ」  そう捨《す》て台詞《ぜりふ》を吐いて、太宗は引きあげていったのだが、帰途、陣中で急死してしまった。公式には病死とされているが、太宗はまだ四十六歳であったから、別の死因も考えられる。ちなみに「太宗」と呼ばれる皇帝は、唐・宋・遼・金・元《げん》・清、いずれの王朝においても第二代皇帝である。第二代以外の皇帝が「太宗」と称した例はない。  それから百九十年が経過して、金が中華帝国に乱入したとき。腐敗しきっていた宋の官軍は敗北と逃走をくりかえすだけであった。だが破壊と殺戮《さつりく》、放火と掠奪の嵐のなかで、民衆は決起した。彼らは、真に国家の危機を救う人が誰であるかを知っていた。彼らは武器をとって、その人のもとへ駆けつけた。  その人、東京留守宗沢《とうけいりゅうしゅそうたく》のもとへ。     三  金軍が乱入してきた宣《せん》和《な》七年(西暦一一二五年)、宗沢はすでに六十七歳の老齢であった。もともと彼は科挙出身の文官で、それまでたいして出世したわけではない。主として地方の知事などをつとめていた。  民衆の人望はあついが、中央政府の評価は低い。良心的な官吏にしばしば見られる型の人生をすごして晩年にいたったとき、彼の人生も大宋帝国の運命も激変するのである。  開封を占領し、黄河流域を軍事力によって支配した金軍は、宋の皇族をつぎつぎと囚《とら》えた。徽《き》宗《そう》皇帝の九男、康王趙構《こうおうちょうこう》も金軍から呼び出しを受け、その陣営に出頭しようとしていた。だが出頭の寸前、宗沢と出会う。宗沢は康王を説得して出頭をやめさせた。康王は引き返して金軍の勢力圏から脱出し、南方で即位して大宋帝国第十代の天子たるを宣言した。これが高宗皇帝である。  たしかに宗沢はこのとき歴史を変えたのだ。康王がのこのこ金軍の陣営に出頭していたら、父徽宗や兄|欽宗《きんそう》とともに虜囚《りょしゅう》となって遠く五《ご》国《こく》城へ送りこまれたにちがいない。そうなると、彼は即位して高宗皇帝となることもできず、帝位につくべき人物が不在のまま、宋はずるずると解体し滅亡してしまったであろう。  宗沢の的確な判断は国を救った。  高宗個人にとっても宗沢は大恩人である。即位した高宗は、長江を渡って安全な場所に避難した。だが、長江の北にひろがる広大な地域を、金軍にわたしてしまうわけにはいかない。この地域を防衛し、宋軍全体の指揮をとるべき人物が必要であった。そして、高宗が指名したのが宗沢であった。宗沢は東京留守に任じられた。黄河と長江とにはさまれた広大な地域において、政治と軍事の全権をにぎることになったのである。  たいへんな出世といってよいが、実状はといえば、鉄の怒《ど》濤《とう》となって南下する金軍を押しとどめる、その責任を一身に押しつけられたのであった。後方からは、ろくな支援もない。兵士を集め、編成し、訓練し、実戦を指揮し、補給をととのえ、城壁を修復し、そして戦火に逃げまどう民衆を救出する。すべてを、七十歳ちかい宗沢がひとりでやらなくてはならなかった。そして彼はやってのけた。  宗沢は、まず金軍の手から開封を奪回した。金軍のがわでは、四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が大軍をひきいて再攻略に乗りだしたが、これを宗沢は撃退してしまったのである。宗沢の守城《しゅじょう》指揮は完璧で、四《スー》太《ター》子《ツ》ともあろう者が手も足も出ず、多数の死傷者をだして撤退するはめになった。 「宗《そう》爺爺《やや》」  と、金軍は宗沢を呼ぶようになった。爺爺とは「長者」とか「大人《たいじん》」とかを意味する尊称である。敵ながら、宗沢の才能と人格を、金軍も賞賛せずにいられなかったのだ。  開封周辺の民衆も義勇兵も、宗沢のもとに集まった。彼らから見れば、皇帝や大臣たちは安全な南方で宮殿にふんぞりかえっているとしか思えない。老体に甲冑をまとって最前線に立つ宗沢のほうに信望が集まるのは当然であろう。  宗沢|麾下《きか》の兵力は十万をこえ、二十万に達した。そのなかに、戦友である解元《かいげん》や成閔《せいびん》をしたがえた韓世忠もいた。そして、当時二十五歳の岳飛もまた宗沢のもとに駆けつけた。王彦《おうげん》という武将のもとにいたのだが、宗沢のもとで戦うべく、脱走同様に王彦の陣営を飛びだしたのだ。  宗沢は岳飛が勇猛で用兵もたくみなのを見て感心した。本格的に孫《そん》子《し》や呉子《ごし》の兵法を教授してやろうと思ったが、岳飛は兵書の頁《ページ》をめくっただけで、宗沢に返してしまった。 「運用の妙は一心にあり」  岳飛はそういったという。理論より実践だ、臨機応変に敵に対処したい、敵の急襲を受けたとき、兵書をひらいて陣形など考えてもしかたない、というのである。  なまいきな奴だ、とは宗沢は思わなかった。むしろ岳飛の気概に感歎した。この青年は、いずれ宋の国運を双肩に担って立つであろう。宗沢は彼を都《と》統制《とうせい》という高級士官に任じた。  岳飛は後に金軍から「岳《がく》爺爺《やや》」と尊称されるようになる。金軍から「爺爺」と尊称されたのは、宗沢と岳飛の両者だけで、韓世忠でさえそう呼ばれることはなかった。この両者が、いかに金軍にとって印象的であったかわかる。  そしてここに、忌《い》まわしい歴史の多数例がある。敵から尊敬されるような名将は、味方から憎まれ、嫉《しっ》妬《と》され、猜《さい》疑《ぎ》され、ついには粛清されてしまうのだ。  宗沢の実力と人望は、高宗の宮廷をおそれさせるようになった。自分たちは安全な場所にいて何ひとつ危険を冒《おか》さないくせに、他人の才能と功績を嫉《ねた》むことだけは一人前。そのような廷臣《ていしん》たちが、忠義づらで高宗の耳に毒を吹きこむのである。 「宗沢は危険な男でございます。やたらと主戦論をとなえておりますが、それは国を思ってのことではなく、ただ自分ひとり功績をあげたいがためでございます」 「宗沢を信用してはなりませぬ。あの男は宋と金との間に立って、自立しようとたくらんでおります」 「開封へ還御《かんぎょ》あるように、などと宗沢は申してくるでしょうが、行かれてはなりませぬぞ、陛下。行けば宗沢めの傀儡《かいらい》にされてしまいます」 「それどころか、宗沢め、陛下の御《おん》身《み》を金賊に引きわたし、それと引きかえに自分の地位を認めさせるつもりかもしれませぬ。くれぐれも信じてはなりませぬぞ」 「それでなくとも、宗沢のもとには義勇軍と称する無《ぶ》頼漢《らいかん》どもが集まって気勢をあげております。お近づきになるのは危のうございます」  高宗はまるきり暗《あん》愚《ぐ》というわけではないが、絶えることのない讒言《ざんげん》にかこまれて、宗沢に対する信頼を失ってしまったのだった。  黄河を渡って金軍に大反撃を加え、占領された河《か》北《ほく》の広大な領土を回復する。戦略、戦術、補給、編成、あらゆる面で宗沢は準備をととのえた。あとは高宗皇帝の勅許《ちょっきょ》をえるのみである。宗沢は筆をとって上奏文を書いた。金軍を渡河攻撃するために朝廷の許可を求め、さらに高宗に請《こ》うた。全軍の士気を高め、また決戦の意思を天下に知らしめるため、陛下には開封に還御ありたし、と。  上奏文は無視された。返事は来なかった。 「陛下はなぜ総反抗をお許しくださらぬのか。このままでは勝機を逃してしまう」  廷臣たちが讒言するように、宗沢に離反や自立の野心があれば、高宗の許可など必要とするはずがなかった。かってに出撃してかってに勝ってしまえばよいのである。だが宗沢は、あくまでも宋の臣として行動した。じつに二十回以上にわたって、宗沢は、黄河を渡って出撃する許可を高宗に請うた。そしてついに一度の返答すら与えられなかったのである。  自分が猜疑されていることを宗沢はさとった。  これほど不本意なことがあるだろうか。東京留守となる以前、宗沢はいくらでも安全な場所へ逃げる機会があったのだ。あえて最前線にとどまり、老体に甲冑をまとって侵略者と戦うのは誰のためか。老将の眼から涙がこぼれた。あまりに忠誠心あつい彼は、皇帝を非難しようとはしなかった。ただ、つぎのような詩句を幾度か口《くち》誦《ず》さんだ。   師《いくさ》を出《いだ》して未《いま》だ捷《か》たず身まず死し   永《とこし》えに英雄をして涙|襟《えり》に満《み》たしむ  杜甫《とほ》の七言律詩「蜀相《しょくしょう》」の一節である。三国時代の諸葛孔明《しょかつこうめい》の生涯をうたいあげたもので、報われぬ忠誠の念を、宗沢は歴史上の人物にかさねあわせたのであろう。  出兵の許可がえられぬままに月日はすぎ、黄河以北では金軍の支配が着々とかたまっていく。一目ごとに領土回復は困難になっていくのだ。なお宗沢は出兵を断念してはいなかったが、精神より先に肉体の限界が来た。宗沢は病床に倒れた。 「宗留守《そうりゅうしゅ》、病篤《やまいあつ》し」  その報に、開封全城は粛然《しゅくぜん》たる空気につつまれた。陰暦七月、残暑がすぎて地には秋風が満ち、憂色《ゆうしょく》が全軍をおおった。老将の病状は急速に悪化し、数日のうちに、誰の目にも再起は不可能と映った。一夜、冷たい雨が風をともなって開封を襲った。激しい風雨が宗沢の本営である東京留守府の建物をたたくなか、昏々《こんこん》と睡《ねむ》りつづけていた宗沢がふいに叫んだ。 「黄河を渡れ!」  病床の周囲に集まった将兵たちは、声をのんで立ちつくした。蒼白な顔に両眼をとざしたまま、混濁した意識のなかで、ふたたび老将は叫んだ。 「黄河を渡れ!」  叫び終わると、激しい喘鳴《ぜんめい》がそれにつづいた。長くはなかった。喘鳴がやむと、もはや老将は、どのような種類の声も音も発することはなかったのである。それにかわって風雨の叫びがさらに強まり、甲冑をまとった大の男たちが声を放って泣いた。  宋の建炎《けんえん》二年(西暦一一二八年)秋七月十五日。宗沢は七十歳であった。彼の死によって、宋は、黄河以北の領土を回復する機会を、永遠に失ったのである。  宗沢の訃《ふ》報《ほう》は、ただちに高宗のもとへもたらされた。このとき高宗は、長江の南岸|建康《けんこう》府《ふ》にいた。後世、南京《ナンキン》と呼ばれるようになる城市《まち》である。呉《ご》・東晋《とうしん》・劉宋《りゅうそう》・南斉《なんせい》・梁《りょう》・陳《ちん》と六代の王朝が首都をおいたところで、そこに落ちついた高宗は、黄河どころか長江すら渡る気はなかった。  さすがに高宗は宗沢の死を悼《いた》み、多少は後侮もした。ただちに宗沢に「忠簡公《ちゅうかんこう》」の諡《おくりな》を贈り、同時に杜充《とじゅう》という大臣を東京留守の後任として開封へ送りこんだ。かつて黄河の堤防を破壊して金軍の南下をくいとめた男である。 「いまさら諡などが何の役にたつか」  そう思いつつ杜充を迎えた将兵たちは、さらに怒りと失望を禁じえなくなる。杜充はとても宗沢の後任がつとまるような人物ではなかった。無能ではなかったが、残忍で猜疑心が強い。せっかく集まった義勇兵を冷遇し、すこしでも批判的な態度を見せる者は、たちどころに殺してしまう。たまりかねた将兵は、つぎつぎと開封から離れていった。宗沢の人望によって守られていた開封は、いまや守るに値せぬ城市《まち》となった。韓世忠も杜充に生命をゆだねる気にはなれず、解元や成閔とともに開封を去った。その年のうちに、開封城内の宋軍は十分の一に減ってしまった。  こうして開封一帯の宋軍を解体させたあげく、後に杜充は金の誘いに応じ、祖国を裏切って敵国に降伏してしまうのである。降伏後の杜充は、宋の国内機密に通じていることを売物《うりもの》として順調に出世し、金帝国の右丞相《うじょうしょう》にまでなり、天寿をまっとうして死んだ。彼が死んだ年に、秦檜《しんかい》によって宋・金両国の和平が成ったのである。杜充自身にはいろいろと言分《いいぶん》もあるだろうが、節操《せっそう》や羞恥心《しゅうちしん》という言葉を嘲笑《ちょうしょう》るような人生であった、と評されてもしかたないであろう。  ……後にその当時の事情を韓世忠が梁紅玉に語ったとき、彼は深く溜息《ためいき》をついて話をしめくくったのだった。 「おれは開封に帰るつもりだった。かならず帰って、宗留守の霊にご報告するつもりだった。だがだめだったなあ」と。     四  突如としてそれはおこった。梁紅玉と子温の足がとまったのは、街道の前方で騒ぎがおこったからである。人の声、馬や牛の声、馬《ば》蹄《てい》のひびき、車輪のきしみ、それらが同時に沸《わ》きおこり、さらに刃《やいば》を打ちかわす音まで、風に乗って子温たちの耳にとどいてきた。道|往《ゆ》く人々が不安げな顔を見あわせ、いつでも災厄から逃げだせるように身がまえる。そしてつぎの瞬間、思い思いの方角へ逃げだした。混乱の渦が騒音をまきちらしながら、前方から殺到してきた。  囚人を護送する檻車《かんしゃ》が賊に襲われ、囚人が逃げだしたのである。とびかう漢語と女真語の会話から、おぼろげに事情がわかったとき、子温と梁紅玉はすでに渦に巻きこまれかけていた。  母の身体をかかえるようにして、子温は、路傍の草地に難を避けた。眼前を、三、四頭の馬がもつれあって走りぬけた。いずれも鞍《くら》をつけているが騎手の姿はなく、鞍には点々と人血が散っていた。ついで二頭の牛が並んで暴走してくる。車輪のはずれた檻車をひっぱったままだ。砂埃《すなぼこり》が舞いくるって、眼を開けているのさえ容易ではなくなる。悲鳴があがったのは、逃げそこねた人が馬蹄か車輪にかけられたらしい。  騒動が終わるまで草地にひそんでいるつもりだったが、にわかに荒々しい音がして、血まみれの騎手を乗せた軍馬が草地に躍りこんできた。騎手の姿が子温の足もとに落下する。軽武装の金兵だが、左肩から胸の中央部にかけて、すさまじいほどの刀痕《とうこん》が血を噴いている。練達の剣士に斬られたらしい。  とりあえず子温は軍馬の手《た》綱《づな》をつかんだ。舌を鳴らす音をたてながら馬の興奮をなだめる。馬はさかんに首を振り、前肢《まえあし》で宙を蹴っていたが、しだいに落ちついてきた。息子のお手なみを見物していた梁紅玉が笑って歩みよる。 「阿爺《とうちゃん》の三倍ほどは時間がかかったね。でもまあ何とか馬を調《なら》すていどのことはできるようになったじゃないか」  梁紅玉が掌《てのひら》で鼻面《はなづら》をさすると、馬は完全におとなしくなった。そのころには街道にも静寂が回復している。おこるだけのことはすべておこってしまい、大規模に金の官軍が出動してくるまで空白の時間ができたということであろう。とすれば、いまのうちにこの場を離れておくべきであった。  母を馬に乗せ、馬の轡《くつわ》をとって、子温は街道にもどった。できれば彼自身も馬を求めて騎行したほうがよい。だが、車体からはずれた牛車の車輪が残されているだけで、路上は空虚だった。子温はすばやく記憶をたどり、三百歩ほど引き返して、丈《たけ》の高い草のなかの陪道《わきみち》にはいった。曲折した道をすこし歩いて、何ともぐあいの悪い事態に直面してしまった。ふたつめの角で、賊に出くわしたのだ。彼もまた、官軍と出会うことがないよう陪道にひそんでいたのであろう。血ぬれた剣をさげ、牛革《ぎゅうかく》の甲《よろい》をまとった男は、いきなり馬をあおって子温に斬りかかった。  降りおろされる剣を、子温は杖《じょう》をふるって横に払った。大きく払ったのではない。短く、だが鋭く、最小限の動きであった。刃鳴りの音も大きくはない。  それだけで、子温の技倆《ぎりょう》を知るには充分であったろう。賊は四十歳前後の中背の男だったが、精悍《せいかん》な顔に、おどろきの表情が走った。馬を駆けさせながら、剣をにぎりなおす。馬首をめぐらし、一瞬、子温をにらみつけてから馬腹を蹴った。黒い大きな風のかたまりが眼前にせまる。瞬間。横へ跳んだ子温は、ねらいすまして杖を投じた。前肢に杖をからめた馬は、高くいなないてつんのめった。怒声を放って、賊の身体が馬上から投げだされる。路上ではねた身体が、一転してとびおきたとき、躍りかかった子温の拳がたてつづけに賊の腹を撃った。宋の太祖趙匡胤《たいそちょうきょいん》を開祖とする「太《たい》祖《そ》拳《けん》」の技だ。賊はうめき、大きくよろめいた。よろめきつつなお剣を突きだし、子温をとびのかせたのは凡物《ただもの》ではなかった。  十歩ほどの距離をおいて両者はにらみあう。子温の肩ごしに、賊と梁紅玉の視線が正面から合った。 「あっ」と賊が声をあげた。呆然《ぼうぜん》として梁紅玉を凝視《ぎょうし》している。剣を持つことも忘れたかのような姿は、むろん隙《すき》だらけであったが、それに乗じて子温は拳の一撃をあびせる気になれなかった。よほどの衝撃が賊を襲ったにちがいない。  石化したような賊の姿勢が一変した。剣を地上に投げだすと、賊はその場に拝《はい》跪《き》したのである。今度は子温が呆然とする番であった。 「梁女将軍《りょうじょしょうぐん》、おなつかしゅうござる」  ややたどたどしい漢語で賊はいった。声が慄《ふる》えている。恐怖や怒りではなく感動のためであった。  梁紅玉はべつに表情を変えなかったが、意外ではあったらしい。男を見やる視線が問いかけを含んだ。 「それがしは黒蛮竜《こくばんりゅう》と申す者」  男はそう名乗り、敬愛の念をこめて梁紅玉を見あげた。 「女将軍にはご壮健のごようす。ふたたびお目にかかれて、この上の喜びはござらぬ」 「はて、金国人に知己《しりあい》があったろうかね」 「さよう、もう二十六年の往古《むかし》になり申す。それがしは年十四にして四《スー》太《ター》子《ツ》都《と》元帥《げんすい》の麾下にあり、黄天蕩《こうてんとう》において宋軍と死《し》戦《せん》いたしました」 「おお、黄天蕩の……」 「さようでござる。そのとき乗っておりました軍船がくつがえり、それがしは水中に投げだされ申した」  黄天蕩の激戦で、金軍はただ一日に二万五千の死者を出した。ほぼ半数は溺死であった。地上では精悍無比の女真族も、水上水中では幼児のごとく無力であった。悲鳴を残し、両手でむなしく宙をかきながら、つぎつぎと水中に没していく。  黒蛮竜も大量の水をのみ、半死半生で木片につかまったまま長江の波に翻弄《ほんろう》されていた。気がついたとき、彼の姿は船上にあった。りっぱな甲冑を着けた、眼光の鋭い、みごとな黒髭《くろひげ》の男が彼を見おろして口を開いた。 「故郷に親はいるか。罪なき民を害したことはないか。それならば助けてやるが」  漢語でそう問いかけてきた偉丈夫が、敵将韓世忠であることを知って、黒蛮竜は舌が凍った。ようやく答えたのは、親とはすでに死別したこと、民を殺したことはないが掠奪には参加したこと、などである。すると、韓世忠の傍《そば》に立っていた長身の美しい女性が笑声をあげた。 「正直な人間は助ける価値がありましょう、良臣どの。この子もいずれ親になります。自分の子に、宋は強いからけっして侵《おか》してはならぬ、と伝えてもらいましょう」  ……話を聞きおえて、梁紅玉は手を拍《う》った。 「ああ、思いだしたよ、そういうことがたしかにあった」 「あのときはおかげさまにて、なきはずの生命をひろい申した。御恩は一日とて忘れたことがございませぬ」  真剣な表情で黒蛮竜はいったが、この猛悍《もうかん》な女真族の男が顔を朱《あか》くしている。ふと子温は想像をめぐらした。二十六年前、金の少年兵の目に、子温の母の姿はどう映ったことであろうか。 「髭をはやして、りっぱにおなりだねえ」 「女将軍にはお変わりもなく」 「そういってくれるのはありがたいよ。でも、やはり、わたしは年齢《とし》をとった。往古《むかし》をなつかしむようになったのが、その証拠さ」  笑って手を振ってみせてから、梁紅玉は疑問を質《ただ》した。 「それにしても、四《スー》太《ター》子《ツ》のもとで戦っていた勇者が、どうしていま金の官兵と刃をまじえておいでなのかい」  黒蛮竜は表情をあらためた。 「四《スー》太《ター》子《ツ》のご遺族がどうなったか、女将軍にはご存じありますまい。四《スー》太《ター》子《ツ》の男児はすべて殺され、女児は後宮《こうきゅう》の虜囚となり申した。居館は、毀《こぼ》たれて廃墟となりはてております」 「おお、それは……」 「すべて玉座《ごくざ》を奪いたる偽《ぎ》帝《てい》めのなせしことでござる。彼奴《きやつ》の暴虐非道、天帝も赦したまわじ」  黒蛮竜の声がふたたび慄える。今度は激情のために。四《スー》太《ター》子《ツ》の遺族が弑逆者|完顔亮《かんがんりょう》によって族滅《ぞくめつ》された後、黒蛮竜は官位をすてて逃亡した。彼ひとりのことではなく、この時期、逃亡者は数おおい。山中に隠れて仙人となる者、僧となる者、賊となる者などさまざまであった。いずれも、完顔亮の治世が短からんことを望んだ。なかには積極的にそれを短くしようとする者もいる。黒蛮竜もそのひとりであった。そして、しばしば路上で金の官人を襲っては、囚人を解放したり軍需物資や書類を奪ったりしていたのである。     五  先帝煕宗を弑逆して登極《とうきょく》した完顔亮は、なみはずれた好色の君主であった。  好色であるということ自体は、べつに罪悪とはみなされていない。漢高(漢の高《こう》祖《そ》)、漢武(漢の武《ぶ》帝《てい》)、唐宗(唐の太宗)といった人々はいずれも好色多情であった。だが彼らが非難されることはない。個人としての欠点より、統治者としての業績がはるかに巨大であるためだ。  好色な天子は許される。だが天下に害毒を流す天子は許されない。当然のことであった。そして当然のことをどうしても理解できない天子が、暴君と呼ばれるようになるのだ。  清の趙翼が著《あらわ》した『二十二史|箚《さつ》記《き》』には、「海陵《かいりょう》の荒淫《こういん》」という一章がある。海陵とは完顔亮の死後の名だが、彼がつぎつぎと一族の女性を姦《おか》していったことが記録されている。彼の好色の犠牲となった女性の名も明記されているが、それらは、阿《ア》蘭《ラン》、阿里庫《アリコ》、重節《ジュウセツ》、実《ジッ》庫《コ》、布《フ》拉《ラツ》、錫納《セキノウ》、実《ジッ》古爾《コジ》、蘇《ソ》埒《レツ》和《ワ》卓《タク》、伊都《イト》、定格《テイカク》、密埒《ミツレツ》、札《サツ》巴《バ》、富爾和《フジワ》卓《タク》、などというのである。女真族の女性の名を知るのには役だつが、彼女たちの父や夫がことごとく完顔亮に殺されたことを思うと、これは凄惨な粛清の記録でもある。  もっとも、彼女たちのなかには、完顔亮と互角に張りあう者もいたようだ。蘇埒和卓という女性は、宮廷をぬけたしては美男子あさりをしていたようで、完顔亮にどなりつけられている。 「爾《なんじ》、娯楽を愛せり。豊《ほう》富偉《ふい》岸《がん》なること我のごとき者あるか」  お前はまったく男遊びが好きだな。だが、おれ以上の男などおりはしないだろうが。  そう叱りつけたものの、完顔亮は彼女を罰しようとはしなかった。どうやらお気に入りであったらしい。  その一方で、密埒という女性は、後宮に納《おさ》められたとき処女ではなかったので、同居していた姉の夫が殺されてしまった。義妹との関係を疑われたのである。どうにも気の毒というしかない。また定格という女性は、もともと完顔亮と私《し》通《つう》していたが、教唆《きょうさ》を受けて夫を毒殺し、後宮の一員となった。  後宮は特殊な社会である。ただひとりの男性である皇帝と、千人以上の女性、そして去勢された|もと《ヽヽ》男性である宦官《かんがん》の群が、この豪奢《ごうしゃ》で陰湿な密室にひしめいている。名君といわれる皇帝のもとでも、後宮ではしばしば怪異な事件が発生した。まして皇帝自身が節度を欠き、欲望と衝動をほしいままにするようでは、後宮の乱脈は必然のことであろう。  女真族そのものが爆発的な生命力をもてあましていたとすれば、完顔亮は個人としてそれに忠実であった、というだけのことかもしれない。だが国を統治する者には、欲望を自制する責任がともなう。その責任をまっとうした上で、豪奢も好色も許されるのである。  ……それらのことを語り終えた黒蛮竜の表情は苦しげである。彼は四《スー》太《ター》子《ツ》の征戦にしたがって苦闘をかさねた老練の戦士であり、素朴で誇り高い女真族であった。  苦労してようやくつくりあげた新国家が、なぜ短期間でこうも乱れ、腐敗してしまったのか。黒蛮竜としては、ひたすら完顔亮を憎むしかないであろう。 「それがしは女真の民であり、金国を貴《とうと》しと思うております。ゆえに、四《スー》太《ター》子《ツ》らの功業をことごとく覆《くつが》えさんとするあの偽《ぎ》帝《てい》めが赦せませぬ。完顔亮めを玉座より引きずりおろし、ひとつには四《スー》太《ター》子《ツ》ご一家の無念を晴らし、ふたつには国を暴君の手から救いとうございます。数ならぬ身なれど、志《こころざし》だけはすてませぬ」  そして今度は黒蛮竜が疑問を質《ただ》す番である。宋の名将として枢密使とまでなった方の御婦人が、なぜ旅人に身をやつし、このような場所におられるのか。誓って口外《こうがい》せぬゆえ教えていただきたい。拝察するに、何ごとか重大な目的がおありなのではないか。 「そなた、靖康帝《せいこうのみかど》がいまどこにおられるのか、ご存じではないかえ」  ためらう子温にかわって梁紅玉が問う。ひとたび信じれば彼女は異国人にも隠しだてはしなかった。黒蛮竜は息をのんだ。その問いで事情を察した。この女傑は靖康帝、すなわち不幸な欽宗皇帝を救出しに来たのだ、と思った。欽宗は敵国の天子であったが、黒蛮竜としては個人的な怨《うら》みはない。三十年にわたって異境に虜囚《りょしゅう》となっていると思えば哀《あわ》れでもある。また、欽宗が救出されれば、完顔亮の驕慢さに一撃を加えることになるであろう。  黒蛮竜は一礼した。 「それがし、くわしくは存じませぬが、靖康帝はいま燕京城内に囚《とら》われておられる由《よし》。知人の阿《あ》計替《けいたい》なる者が事情に通じております。それがしに燕京までご案内させていただければ、御恩の一片なりと報じることができましょう。ぜひぜひ、そうさせてくだされ」 「ありがたい、では燕京へ行くとしようかね」  さらりと梁紅玉は言い放つ。あまり簡単にいわんでほしいな、と思いつつ、子温の胸には希望が強い光を点《とも》しはじめていた。 [#改ページ] 第五章 燕京《えんけい》悲歌《ひか》     一  宋《そう》の紹興《しょうこう》二十六年、金の正隆《せいりゅう》元年、西暦では一一五六年の夏六月。  後に「宋の欽宗《きんそう》皇帝」と呼ばれるようになる男は、抑留生活の三十年めを迎えていた。年齢は五十七歳になる。帝位にあったのは二年たらずのことで、人生の半分以上を異国で虜囚《りょしゅう》としてすごした。かつて温厚で学識ある貴公子として知られたが、苦難にみちた歳月は彼の頭髪を灰色に変え、酷寒と猛暑のくりかえしは肌を老化させ、貧弱な食事は筋骨を弱めた。かつて金兵に鞭《むち》でなぐられた傷が、赤い紐《ひも》のように背中と腰を彩《いろど》っている。 「自分の人生はいったい何だったのか」  古い粗《そ》末《まつ》な麻の服の襟《えり》に手をかけながら、何万度めかの呟《つぶや》きを欽宗は発した。  彼がいる燕京《えんけい》城内の牢獄は「左《さ》廨院《かいいん》」と称される。遼《りょう》の時代から、皇族や貴族などの身分ある罪人を幽閉する建物であったという。左があれば右がある道理で、「右《う》廨院《かいいん》」と呼ばれる牢獄があり、そこにも虜囚がひとり幽閉されていた。  自分のいる房室《へや》を、欽宗は力なく見まわす。石の壁、石の床。牀《しょう》はなく、床に粗末な敷物をしいて寝なくてはならぬ。北むきの窓は小さく、室内はつねに薄暗い。壁の角《すみ》に小さな方形の穴があいており、一日二回、食事と水がそこから差しいれられる。雑穀《ざっこく》の飯がほとんどで、十日に一度ほど、えたいの知れぬ獣肉や淡水魚のひときれがつく。茶に至っては、もう一年以上も飲んだことがない。衣服は十日に一度、着かえられればよしとしなくではならぬ。かつて遼の貴族の妻であったという女囚《じょしゅう》が通って身辺の世話をしてくれたが、一年ほど前からそれも停止されて、ひたすら孤独と不《ふ》如《にょ》意《い》に耐える毎日である。  なぜこのような境遇におかれるのか。他に為《な》すこともなく、欽宗の思いは過去に向かうことが多かった。  欽宗がまだ皇太子|趙桓《ちょうかん》であったころ、それはおこった。  宋の政《せい》和《わ》八年(西暦一一一八年)、老大国の宋と新興国の金との間に密約が結ばれた。宋の密使は、山東《さんとう》半島から船で海を渡り、遠く金の首都|上京会寧府《じょうけいかいねいふ》をおとずれたのである。密約の内容は、南の宋と北の金とが同盟し、中間にある遼国を挟撃して滅ぼそうというものであった。両国とも、遼には往古《むかし》からの怨《うら》みがあったのである。  激戦をかさねた末、宋の宣《せん》和《な》七年(西暦一一二五年)に至って、遼は完全に滅びた。共同作戦といっても、宋軍はまるで役にたたず、金軍はほとんど独力で遼を滅ぼしたのである。同盟は成功したのだ。  ところが遼が滅びた後、宋は金が広大な領土や莫大《ばくだい》な財貨を手にいれたことがおもしろくない。蔡京《さいけい》や童貫《どうかん》といった『水《すい》滸《こ》伝《でん》』に登場する奸臣たちが陰謀をめぐらした。遼の残党をあやつって、金国の内部で叛乱《はんらん》をおこさせたのである。それも一度ではなく二度も、であった。叛乱を鎮定し、陰謀の存在を知って金国は激怒した。実力で謝罪させてやる、とばかり進撃を開始する。あわてた宋では、徽《き》宗《そう》が皇太子に譲位して上皇となった。皇太子はここに欽宗皇帝となった。宋は金との間に和平交渉をはじめる。ところが、それを不満とした主戦派が、停戦条約を破って金軍に急襲をかけたのだ。 「礼教の国」と自称する宋が、三度にわたって背信行為をおこなったのである。またもや金は激怒した。すでに遼を滅ぼし、西《せい》夏《か》を屈服させて、武力には自信をいだいている。急襲にもひるまず、猛然と反撃に転じ、宋軍に大損害を与えた。若き太子たち、宗望《そうぼう》や宗弼《そうひつ》らの勇戦によるものであった。  野心と実力とを兼《か》ねそなえた強敵に、宋は口実を与えてしまったのだ。当時の政治の実力者、蔡京や童貫らの責任はきわめて大きい。彼らが亡国の責任者として非難されるのはしかたないことであろう。なお、高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]《こうきゅう》を含めて、彼らはいずれもこの前後に死んでいる。童貫は殺されたのだが、他の二名は病死であり、金軍によって北方へ拉致《らち》されずにすんだのは幸運であった。  金の太宗《たいそう》皇帝は全軍に南下を命じた。統率する元帥は二名。ひとりは太宗の甥《おい》にあたる二《アル》太《ター》子《ツ》宗望。いまひとりは皇族中の元老|宗翰《そうかん》であり、よく似た名だが大《ター》太《ター》子《ツ》宗幹《そうかん》とは別人である。  金軍の勢いは、黄《こう》河《が》の洪水にも似ていた。 「金の初めて起《お》るや、天下これよりも強きは莫《な》し」  事実であった。宋軍の必死の抵抗も、虎が卵を踏みくだくがごとくに粉砕された。たちまち金軍は黄河を渡り、宋の首都|開封《かいほう》を重囲下においた。宋は悲鳴をあげて和平を求めたが、金軍は相手にしない。「何をいまさら」というところであったろう。  ついに宋は開封の城門を開き、徽宗上皇と欽宗皇帝は降伏して金軍の陣営におもむいた。人質となったのである。和平交渉がはじまったが、その間にも金軍は開封城内に乱入し、暴行と掠奪をほしいままにした。  そして世に名高い「靖康《せいこう》の変」がおこる。靖康元年(西暦一一二六年)の三月。金軍の元帥宗翰は人質となっていた徽宗上皇と欽宗皇帝を呼び出し、袞龍《こんりゅう》の袍《ほう》をぬぐよう命じた。袞龍の袍とは天子の服である。もはや宋王朝はここに滅んだ、汝《なんじ》らの帝位も奪われることとなった、べつの服に着かえよ、というのである。上皇と皇帝は蒼白《そうはく》になって立ちすくんだ。  このとき工《こう》部侍《ぶじ》郎《ろう》の官にあった李若水《りじゃくすい》が上皇たちに随従《おとも》していたが、欽宗にとりすがって声をはげました。 「なりませぬ、陛下、金賊《きんぞく》の無道に屈してはなりませぬぞ」  李若水は金兵たちをにらんで叫んだ。 「醜虜《しゅうりょ》、何ぞ天《てん》理《り》を恐れざるや!」  中華帝国の天子は至《し》尊《そん》の御《おん》身《み》である。お前たちのような野蛮人が手にかけてよいものか。拝《はい》跪《き》して罪を謝せ、天罰がこわくないのか。 「殺せ!」  宗翰の怒号とともに、金兵数十人が李若水にむけて殺到した。前後左右から乱刃をあび、鮮血にまみれて倒れながら、なお李若水は金兵たちの無道をののしり、徽宗と欽宗の名を呼びながら息たえた。  自分が殺害を命じたのだが、李若水の忠烈は宗翰を感動させた。 「北朝《ほくちょう》が滅びたとき、国難ら殉《じゅん》じた忠臣に何百人もおった。だが南朝《なんちょう》のときには、李侍《りじ》郎《ろう》ただひとりか!」  この場合、北朝とは遼、南朝とは宋のことである。後世から見れば李若水の行為は無益なものにしか見えないであろうが、中華帝国において官僚は同時に儒教の徒なのであり、李若水は「臣下は主君の名誉を守る」という儒教的正義のために生命をすてたのである。  だが宋の忠臣たちはむしろ宮廷の外にいたのだ。徽宗と欽宗とが金軍の虜囚となり、宋帝国はたちどころに崩壊すると思われたのに、金軍にとっては意外な事態となった。いたるところで民衆が蜂《ほう》起《き》し、勤王《きんのう》の軍が金軍と戦いはじめた。これまで、ただただ臆病で無能な宋軍を撃破しつづけてきた金軍も、本気になって戦わねばならなくなった。  それらの混乱を後に、徽宗と欽宗は北方へ連行されていった。上皇と皇帝のほか、皇族、貴族、官僚、女官、宦官《かんがん》、その家族など約三千人。前後左右を金兵の刀槍にかこまれ、牛車や徒歩で朔風《さくふう》の故郷へと向かったのだ。  春三月とはいえ、北に向かうにしたがって寒さがつのり、風は強まる。道は霜《しも》溶《ど》けのためにぬかるむと思えば、乾ききって砂《さ》塵《じん》を巻きあげる。寒さに慄《ふる》え、泥や砂塵で汚れた肌を洗うこともできぬ苦しい旅がつづいた。食事が供されぬ日もあり、屋外ですごす夜もあった。勇猛で忍耐づよい金の兵士たちにとっては、さほど苦しくもないであろう。だが宮廷やその周辺で安楽に生活していた人々にとっては、耐えがたい毎日であった。疲労や発熱で倒れた者は、怒号とともに引きおこされ、ふたたび倒れると、そのまま路傍に放置された。  めずらしく豪壮な館に宿泊できたかと思えば、そこの主人が皇后に酌《しゃく》を強要し、歌え、舞え、と迫るのだった。  長く辛《つら》い旅の果て、五《ご》国《こく》城に着く。だがそこでの幽囚は数年で終わり、徽宗と欽宗は金の各地を転々とした。欽宗の皇后|朱《しゅ》氏《し》は道に倒れ、ついに息を引きとった。二十歳になったばかりの若さであった。徽宗と欽宗は泣きながら自分たちの手で土を掘り、名も知らぬ荒野の一角に皇后を葬った。  さらに翌日、大臣の張叔夜《ちょうしゅくや》が死んだ。有能で誠実な官僚として、彼の名は『水滸伝』にもあらわれる。金軍が首都開封の城内に乱入したときにも、兵をひきいて最後まで善戦した。北方へ連行される皇帝たちの随従《おとも》をして、苦難の旅をつづけてきたが、六十三歳にして生命がつきた。  安粛軍《あんしゅくぐん》という辺境の小都市では、契丹《きったん》族の暴動に巻きこまれた。七百人余の死傷者を出して、暴動が鎮定された後、安粛軍の知事は欽宗が契丹人と共謀して暴動をおこさせた、と決めつけた。欽宗は数十回にわたって鞭でなぐられた。顔まで打たれて前歯が折れ、血にまみれて、大宋帝国の天子は気絶した。化《か》膿《のう》した傷によって発熱しながら、翌日、欽宗は安粛軍を追われ、荒野の旅をつづけねばならなかった。その後、再度の暴動によって安粛軍の知事は殺害されたという……。     二  ……最初は幻覚としか思えなかった。薄暗い室内を、おびえた眼で欽宗は見まわした。何かが彼をおどろかせたのだ。だが、それが何であるのか、最初はわからなかった。 「陛下!」  おしころした声が吹きこんできたのは、食事を差しいれるための方形の穴からである。その声は二度めの呼びかけで、欽宗をおどろかせた原因が判然《はっきり》とした。 「陛下、そこにおわしますか、陛下!」  欽宗の全身が慄《ふる》えだした。彼を陛下と呼ぶ者は、宋の臣民だけであるはずだ。だがなぜこのような場所に宋の臣民がいるのか。罠《わな》ではないか。欽宗は疑惑をいだいたが、何のためにそのような罠がしかけられるのか見当もつかぬ。当惑と不安と期待にさいなまれつつ、欽宗は穴に這《は》い寄った。 「我《われ》を陛下と呼ぶ者は誰じゃ。我は大金国の天水郡公《てんすいぐんこう》に封じられた者。そのように呼ばれるべきではないが」  低く探りをいれる。若々しい声が返ってきた。 「臣は大宋の光禄寺丞《こうろくじじょう》にて、姓は韓《かん》、名は彦直《げんちょく》、字《あざな》を子《し》温《おん》と申します。父の名は世忠《せいちゅう》と申し、皇恩《こうおん》をもって枢密《すうみつ》使《し》を拝命いたしておりました」 「おお、やはり天朝《てんちょう》(宋)の者か」  欽宗はもはや疑わなかった。というより、疑うことに耐えられず、信じたかったのだ。 「靖康帝《せいこうのみかど》におわしますな。拝謁《はいえつ》をえて光栄でございます」  やはり暗い廊下にひそんだ子温の声も、やや上ずっている。彼が生まれる前から異境に幽閉されていた人、歴史上の人が壁の向こうにいるのだ。生きておられた、と思うと、感情が昂《たか》ぶり、眼前に立ちはだかる陰気な暗灰《あんかい》色の壁をたたきこわしたくなる思いに駆られた。むろんそのような衝動は、すべてを無に帰せしめてしまう。黒蛮竜《こくばんりゅう》や阿《あ》計替《けいたい》が苦心して人脈をたどり、銀子《かね》を費《つか》い、日時をかさねて、子温を潜入させることに成功したのだ。金国の獄《ごく》吏《り》は、子温が欽宗に会うところまでは認めたが、それ以上は許さない。かぎられた時間で、できるだけのことをせねばならなかった。彼は自分が金国に潜入した理由を述《の》べ、父韓世忠と母|梁紅玉《りょうこうぎょく》について手短に語った。  在位当時に引見《いんけん》した韓世忠のことを、欽宗は記憶していなかった。混乱と不安の日々のなかで、欽宗は多くの人と出会い、別れた。当時、韓世忠は無名の一兵士で、とくに欽宗の注意は惹《ひ》かなかったのである。だが、その後の韓世忠が頭角《とうかく》をあらわし、金軍を撃破して大功をたてた、と聞くと欽宗は嬉《うれ》しい。黄天蕩《こうてんとう》の戦いについて聞き、彼が「両宮《りょうきゅう》をお還し申せ」と金軍に要求したと聞けばさらに嬉しい。 「そなたの亡父にも苦労をかけたようじゃの」 「陛下のご苦難にはとてもおよびませぬ」  たしかにそうであろう。金国は欽宗に対してあまりにも非情|苛《か》酷《こく》であった。  ただ、両宮の監視と護送を命じられた阿計替という人物は、欽宗たちの境遇に同情し、何かと親切にしてくれた。食事、住居、医薬品などについてもできるだけ配慮してくれたし、驢馬《ろば》や車を用意して皇后たちを乗せ、休憩時間も増やしてくれた。それほど身分の高い者でもなかったので、限界はあったが、その善意は不幸な虜囚たちにとってこの上なくありがたいものだった。  今回の件に関しても阿計替の尽力があったことを子温は伝えた。護送の任を解かれてからも、阿計替は欽宗への同情をいだきつづけたが、彼ひとりではどうする術《すべ》もなかった。それが旧知の黒蛮竜の訪問を受け、また完顔亮の暴政に対する反感も禁じえず、思いきって子温に協力してくれるようになったのである。  欽宗の眼がうるんだ。 「阿計替には感謝のしようもない。あの者がいてくれなんだら、予《よ》はとうに北方の荒野で窮死《きゅうし》しておったにちがいないのじゃ。どうにかして恩に報《むく》いてやりたかったが、このありさまではのう」  力のない自嘲《じちょう》の翳《かげ》りが、欽宗の頬を流れ落ちる。 「ところで、宋のようすはこのごろどうなっておるのか」  気をとりなおしたような老皇帝の質問に、子温は答えた。水田は豊かに実って飢える者はなく、杭州《こうしゅう》の港には船があふれ、夜も灯火が消えることはない、と。  宋の領域は半減してしまったが、和約の成立後、繁栄は急速に回復している。そう聞いて、欽宗のやつれた頬に血の気がさした。 「だとすれば自分の幽囚生活にも意味があったかもしれぬ。天子たるの責務を、すこしは果たせたとうぬぼれてもよいのだろうか」  欽宗の胸の奥が熱くなる。在位二年たらず、滅亡に瀕《ひん》した国を建てなおす志《こころざし》はあったが、結局、何ひとつ為《な》しえなかった。空《から》の国《こっ》庫《こ》、荒廃した帝都、いがみあう主戦派と和平派。見わたして、若い皇帝は呆然《ぼうぜん》とするばかりだった。あげくに袞龍の袍をはぎとられ、虜囚となって北方の荒野を転々とし、父も妻も喪《うしな》い、帝位にある弟からは見すてられ、牢獄のなかで老いていく。自分の人生はいったい何だったのか。あまりに虚《むな》しいではないか。そう救われぬ思いをいだきつづけてきた。だが自分の苦難が宋の繁栄や平和と引きかえなら、自分の人生にも意味があったといえよう。  老皇帝の呟きを聴《き》きながら子温が考えたのは、和平の大功労者とされる秦檜《しんかい》のことであった。  異民族に対して頭をさげ、屈辱に耐えねばならないのは、秦檜ではなくて高宗《こうそう》皇帝である。平和を買うために多額の歳貢《さいこう》を支払うのは、秦檜ではなくて租税をおさめる民衆である。講和条約のために終生、北力の荒野に抑留されて望郷の涙を流すのは、秦檜ではなくて欽宗皇帝である。おなじく講和条約のために無実の罪で虐殺され、一族を流刑に処せられたのは、秦檜ではなくて岳《がく》飛《ひ》である。  何ひとつ秦檜は失っていない。そして和平成立の大功績は、ことごとく彼の手に帰《き》した。秦檜という人物が、他人の犠牲を自分の利益に転化させる芸術家であったことがよくわかる。  あらためて、秦檜に対する怒りが胸中に沸《わ》きおこるのを、子温は自覚した。宮中で比類なき権勢をふるい、子や孫を出世させ、離宮をしのぐほどの豪邸で酒《しゅ》池《ち》肉林《にくりん》をほしいままにしながら、秦檜はうしろめたさということがなかったのか。また金国も非情にすぎる。幽囚するにしても、せめて人並みの生活ぐらいさせてやればよかろうに。 「金主《きんしゅ》も天子たる御方《おんかた》を遇する途《みち》を知らぬと見えまする」 「金主はすでに予の存在など忘れておろうよ。むしろそのほうがありがたいくらいだ」 「はい、たしかにつごうがよろしいかと存じます」  子温の声が熱をおびた。 「なぜなら、その忘却に乗じて、陛下を牢よりお逃がし申しあげることがかないますゆえ」  欽宗は息をのみ、しばし声も出なかった。やがて発した声は、かすれてはいたが毅然としたひびきに満ちていた。 「……いや、ならぬ。予が牢を脱すれば、誰の助けによるものか金主は疑うであろう。疑うとて他に疑うべき者もなし、宋人の助けによることは明白じゃ。さすれば、それをもって金主は宋を伐《う》つ口実とするのではないか。予の一身を救うかわりに、国と民とが害を受けるようなことがあってはなるまい」  この方は天子の心を待っておられる。そう子温は思った。無為無能の皇帝とさげすまれ、金国は彼に「重昏侯《じゅうこんこう》」の称号を与えて辱《はずか》しめた。昏とは暗愚の君主を指《さ》す。「重昏侯」というのがいかに侮辱的な、人格を無視する呼びかたであるかわかるであろう。現在ではさすがに称号をあらためて天水郡公と呼ばれるようになっていた。どのように虐待され、侮辱されても、この不幸な天子は、天子としての心のありようを失ってはいなかったのである。 「どうかご心配なさいますな、陛下」 「と申したとて……」 「事をあらだてぬ方法がございますゆえ」 「どのような?」 「おそれ多いことながら、陛下には一時、秘《ひ》薬《やく》をご服用いただき、死者をよそおっていただきます。そしてお身体《からだ》を牢外《ろうがい》へ出し、埋葬すると見せてお逃がしたてまつります」  子温の提案を欽宗は吟味した。しだいに老いた心臓の鼓動が高なりはじめる。 「できるであろうか、そのようなことが」 「ご案じなく」  それは子温の母梁紅玉が考えだしたことであった。欽宗が獄を脱して宋へ帰還すれば、たしかに金主に侵攻の口実を与えるであろう。宋の高宗皇帝としても、いまさら兄を先帝として迎えることはできぬ。とすれば、公的には欽宗を死者としておき、別人として宋へ帰還させればよい。かつて欽宗自身が望んだように、道教寺院にはいってもよいし、山中に庵《いおり》を結んでもよし、西湖の上《ほとり》に家を建ててもよい。世に出て権勢と栄華を求めぬかぎり、おだやかな余生は保証されるであろう。通《つう》義《ぎ》郡王《ぐんのう》韓世忠の一族が欽宗の安全を守り、生活をささえる。 「無名の老人として山中に余生を送る、か。それがかなうなら……かなうものならそうしたい」  欽宗は声をつまらせた。すでに解放をあきらめて幾年になることであろう。だがいま小さな光明が絶望の薄闇をかすかに照らす。 「そなたの志《こころざし》はようわかった。だが、いますぐ決断はできぬ。何しろ予は、かりにいま牢を出られたとて走ることもできぬゆえな」  欽宗はかるく足をたたいてみせた。足が萎《な》えぬよう室内を歩きまわること心してはいるが、完全な自信はないのだ。 「今日のところは、予よりも先にこれを外に出してくれぬか」  小さな穴から欽宗が差しだしたのは古びた布の一片で、七言絶句が一首したためられていた。   徹夜の西風は破れし扉《とびら》を撼《ゆる》がし   蕭条《しょうじょう》たる孤《こ》館《かん》に一灯|微《かす》かなり   家《か》山《ざん》、首《こうべ》を回らせば三千里   目は天の南に断《た》えて雁《かり》の飛ぶこと無し  転句(第三行)に、幽囚者の悲痛な心情がむきだしになっている。布片をにぎりしめた子温の耳に、詩を低く口《くち》誦《ず》さむ欽宗の声が流れこんできた。 「予には詩《し》藻《そう》がない。これは亡《な》き道君《どうくん》皇帝(徽宗)が五国城でおつくりになったものじゃ。三十年近く、予はこれをたずさえてきた。予が還《かえ》れぬときは、この詩一篇だけでも世に知らしめてほしい」 「不吉なことをおっしゃいますな。かならず近日のうちにお救い申しますゆえ」 「そなたの忠心……いや、義侠《ぎきょう》であろうな、嬉しく思うぞ。だが、くれぐれも無理はせぬよう。もし金国人に知られたら、多くの者に迷惑がかかる」 「心いたします」 「ではもう行くがよい。見つからぬようにな」 「明日の夜にでも、また参上いたします。どうかお心を強くお持ちあそばして、南《なん》帰《き》の日をお待ちくださいませ」 「そうしよう……それにしても子温よ」 「は、はい」  したしく字を呼ばれて、子温は姿勢をただした。 「どうやって左廨院まで来ることができたのじゃ」 「金の政事《まつりごと》は昨今、乱れております」 「うむ?」 「獄吏に賄《わい》賂《ろ》がききまする。医者も買収できましょう」  別れを告げて宋からの若い使者が去ると、欽宗は息を吐きだして壁に背をもたれさせた。 「政事が乱れておるか……」  呟きはにがい。彼が即位する直前の宋においても賄賂が横行し、官吏は腐敗を恥じなかった。そしてほどなく宋は滅亡したのである。  燕京は三十数年前まで遼の首都であった。後世、北《ペ》京《キン》と呼ばれるようになる土地である。北と西に山地をひかえ、南と東には平原が展《ひろ》がる。王城の風格を持つ土地だが、この時代までまだ統一帝国の首都となったことはない。  燕京城の西力には、後世、「北京|西山《せいざん》」と呼ばれる山地が展開している。楊《ねこやなぎ》、 柳《しだれやなぎ》、 槐《えんじゅ》、松、楡《にれ》などの樹々が緑したたる広大な森をなしており、いたるところに水が湧きだして沼や池をつくる。森と水の間を渡る風は涼しく、適度の湿気をおびて、おどろくほどに爽快であった。 『二十二史|箚《さつ》記《き》』には、「金、燕京を廣《ひろ》む」という一章がある。金の首都は建国以来、上京会寧府であったが、完顔亮《かんがんりょう》は燕京への遷都を望み、即位後、大臣を派遣して調査と工事をおこなわせた。このとき、大臣が地図をひろげて、宮殿や官庁を建てるにはその土地が吉か兇か確認せねばならぬ由《よし》を言上した。すると完顔亮は一笑していった。 「吉兇《きっきょう》は徳《とく》に在《あ》り、地に在らず。桀紂《けつちゅう》して之《これ》に居《お》らしめれば、善《ぜん》地《ち》といえども何ぞ益せん。堯舜《ぎょうしゅん》、之に居らば、何ぞ卜《ぼく》を以《もっ》て為《な》さん」  運命の善し悪しは君主の徳によるのであって、土地には関係ない。暴君がいれば、どんなよい土地でも役に立たない。名君であれば、そもそも土地の吉兇を占ったりしないだろう。  完顔亮はそういったのである。この発言を見るかぎり、彼はけっして暗君ではない。英雄としての度量と気概をそなえた人物であろうと思われる。  ただし、後がよくないというべきであろう。 「一木《いちぼく》を運ぶの費《ついえ》、二十万に至り、一車を挙《あ》ぐるの力、五百人に至る。宮殿、皆飾るに黄金|五《ご》彩《さい》を以《もっ》てし、一殿《いちでん》の成る、億万を以て計《はか》る」  とは、『続《ぞく》通《つ》鑑《がん》綱目《こうもく》』の表現である。何十万人もの民衆を酷使し、大金を投じて、豪壮な宮殿を建てたのだ。  とにかくも燕京全域の拡張と改修が完成したのは金の貞元《じょうげん》元年(西暦一一五三年)のことである。完顔亮は遷都をおこない、新首都を「中都《ちゅうと》大興《たいこう》府《ふ》」と称した。それから三年が経過して、子温と梁紅玉が黒蛮竜の案内で潜入したとき、燕京はまだ大帝国の首都として歴史の試練を受けていない。  左廨院から脱出した子温は、ほぼ四半刻の後、城内の隠れ家にもどった。城内とはいえ東端に近く、人家もすくない。古い大きな墓がふたつあって、当時の伝説では「戦国時代の燕《えん》王と太子の墓だ」といわれていたが、事実は漢《かん》代の墓であったようだ。  めだたぬ一軒の人家が、阿計替が用意してくれた家だった。梁紅玉と黒蛮竜が、緊張をといた表情で彼を迎えた。阿計替はすでに自宅に帰ったあとだった。彼はいちおう官人なので、長時間にわたって子温たちと同座してはいられないのである。 「ご無事でようござった、韓《かん》公《こう》子《し》」  と、子温のことを黒蛮竜はそう呼ぶ。子温は通義郡王の長男であるから、「公子」と敬称されて当然なのだが、どうにも気恥ずかしい。 「公子はやめてくれぬか。子温と呼んでくれればいい」  そういって、子温は母に布片を手わたした。徽宗の詩が書かれたものである。事情を聞いて、梁紅玉はうやうやしくそれを押しいただいた。服の袖《そで》を二重にして、その奥に布片を隠す。彼女が針を動かす間に、黒蛮竜が報告した。 「阿計替が申しましたが、明日、完顔亮めは宮中の講《こう》武《ぶ》殿《でん》前の広場で大|閲兵《えっぺい》式をおこなうそうでございます」  黒蛮竜は完顔亮を正式の皇帝と認めていないので、名を呼びすてにする。 「それで城内に兵馬が満ちているのか。はでなことが好きな御仁と見えるな」 「虚飾の徒でござるよ」  と、黒蛮竜の口調は吐きすてるようだ。 「だからこそ考えつくことでござる。その閲兵式の際に、靖康帝に何やらさせるつもりらしゅうござるぞ」 「何かとは?」 「それはわかり申さぬが、思うに、完顔亮を讃《たた》える詩でもつくらせるのではござらぬか」  ありえることだ、と、にがにがしく子温は考えた。観衆の前で、欽宗は虜囚としての屈辱をなめさせられるわけである。お気の毒だが後日のことを思えば、明日だけは一日を耐えていただくしかあるまい。脱走に成功するまではおとなしくしていなくてはならないだろう。 「阿計替は明日は非番なので閲兵式を見物に行くそうでござる。公子も靖康帝のお姿を見に行かれますか。おともしますが」 「そうだな、そうさせてもらおうか」  欽宗の気の毒な姿を見るのはいやだが、完顔亮の顔を確認しておくにはよい機会かもしれぬ。敵将の顔を知らぬばかりに討ちとりそこねた、という例はいくらでもあるのだ。欽宗と同様、子温も一時の屈辱に耐えるぐらいのことはしかたなさそうに思えた。  だが完顔亮の考えは子温たちの想像を絶していたのである。     三  欽宗皇帝がどのような状況で死去したか、『宋史』にはまったく記述されていない。 「帝崩問至」  訃《ふ》報《ほう》があった、と記すのみである。想像を排して事実のみを記すとすれば、そう書くしかなかったのであろう。それにしても簡略にすぎるようである。したがって、『大宋《だいそう》宣《せん》和《な》遺事《いじ》』という資料にもとづいて状況を再現してみるしかない。  この年六月、金主完顔亮は新首都たる燕京に皇族、貴族、重臣を集め、三十万の大軍をそろえて大閲兵式をおこなった。このような式典の目的は、皇帝の権威を世に知らしめる、という以外に、軍隊の調練《ちょうれん》ということもある。呼ばれて遠くから来る者にとっては、晴れがましくもあるが迷惑でもあろう。広場の周囲には軍旗が林立し、騎兵と歩兵がきらめく甲冑《かっちゅう》の壁をつくる。身分高い人々のために、階段状の巨大な見物席がつくられ、もっとも高い壇《だん》の上には、むろん完顔亮が座していた。  完顔亮は容姿のすぐれた男で、幅と厚みを具《そな》えた長身、鋭い眼光、隆《たか》い鼻、黒絹のような髭《ひげ》、どれをとっても帝王としての威光に満ちている。年齢は三十五歳。精気と英気にあふれた少壮の皇帝には、無限の未来が用意されているにちがいなかった。  誰しもそう感じずにはいられないであろう。だが完顔亮の精気と英気は、しばしば方向を失って乱流となり、国と民衆に惨《さん》禍《か》をもたらした。  彼が先帝|煕《き》宗《そう》を弑逆《しいぎゃく》して即位したとき、むろん非難の声はあったが、それほど大きくはなかった。煕宗の異常さを誰もが恐れていたし、完顔亮の才幹《さいかん》と度量に期待する声のほうが大きかったのだ。弑逆についても、暴君を打倒した勇気と決断が高く評価されたほどであった。だが暴君を斃《たお》した男は、より以上の暴君だった。  後世、完顔亮の悪業は誇張されているともいわれる。彼は死後、皇帝としての諡《し》号《ごう》をもらえなかった。「海陵王《かいりょうおう》」という称号を与えられたが、やがてそれすら剥奪されて、「廃帝《はいてい》」としか呼ばれなくなってしまう。金国の歴史からいうと、恥ずべき、抹殺されるべき存在なのである。  自分に対する後世の評価を、このとき完顔亮は知ることができない。六月の強い陽光の下、西山からの風を受け、美しい女官たちにかこまれて酒杯を手にしている。 「天水郡公、おひさしぶりでございますな」  講武殿の広場の入口で、欽宗は声をかけられた。声の主は八十歳にもなろうかという老人で、色あせた袍をまとっている。老い衰えた身体を、二本の肢《あし》でようやくささえているといった印象だ。 「ああ、海浜王《かいひんおう》、ご息災《そくさい》であられたか」  欽宗の声に懐《なつか》しさがこもった。海浜王という老人は、右廨院に幽閉された虜囚であった。彼の姓は耶《や》律《りつ》、名は延《えん》禧《き》。かつて遼の天子であり、歴史上、天《てん》祚《そ》帝《てい》と呼ばれる。遼が金に滅ぼされて以来、三十数年にわたって金に抑留されてきた。その歳月は欽宗よりも長いのである。  宋と遼とは、かつて長きにわたって敵対してきた。だが、ともに新興の金に滅ぼされ、玉座《ぎょくざ》を追われて荒野に抑留される身となった。たがいの境遇に同情し、機会があれば語りあうようになった。  天祚帝は欽宗と異なり、亡国に責任がある。女色や遊猟を好んで国政に関心を持たず、危機に際しても無為無策であった。だが、三十年以上の抑留で、その罪は償却《しょうきゃく》されたのではないか、と、欽宗は思う。金の皇族とおなじく、遼の皇族も中国的教養が豊かで、天祚帝も漢語を自由にあやつることができた。 「許可なくしゃべるな、老病夫《おいぼれ》ども!」  金兵が漢語でどなり、ふたりの老皇帝は口をつぐんだ。天水郡公といい海浜王といい、なまじ貴族の称号だけは与えられているだけに、貧しげな服装の老皇帝たちはいっそうみじめであった。 「天水郡公! 海浜王!」  名を呼ばれたふたりのもと皇帝は、よろめくように進みでた。壇上の完顔亮を仰《あお》ぎみて、地に両ひざをつき、拝《はい》跪《き》する。かつての大国の天子たるふたりの老人が、いま無力な虜囚として、金主の眼下に拝跪するのだった。そのありさまを見つめる金国人たちの視線は、半分が冷淡、半分が憐憫《れんびん》であった。だがもっとも多かったのは、彼らがまだ生きていたことにおどろく者たちの数であろう。  そのとき広場に一群の人馬がはいってきた。  褐色の袖をまとった騎士が約五十名。紫色の袖をまとった騎士もほぼ同数。全員の手に弓がある。彼らの姿に不審な視線が集まったが、観衆に対しては何の説明もなかった。 「天水郡公趙桓、海浜王耶律延禧、両名はそれぞれ一隊をひきいて打毬《だきゅう》の試合をはじめよ」  打毬《ボロ》は隋《ずい》のころ波期《ペルシャ》から渡来した遊戯で、地上の毬《まり》を馬上から長い棒で打つ。唐の玄宗《げんそう》皇帝の御宇《みよ》にもっとも流行し、後宮《こうきゅう》の美姫たちすら夢中になった。それはよいが、打毬をするからには馬に乗らねばならぬ。欽宗はまだしも、八十歳にもなる天祚帝にそれが可能だろうか。だが、拒否する自由は、老虜囚たちにはなかった。彼らは馬に乗せられ、そしてはじめて弓を持った男たちに気づいた。  欽宗の顔が恐怖と困惑に曇《くも》った。金主《きんしゅ》が何を考えているか、彼には理解できなかった。相談するように天祚帝をかえりみたが、八十歳になる老人は、馬の背にしがみつくのが精いっぱいで、周囲の情景など視界にはいらないようである。当然のことであった。衝動に駆られて欽宗は叫んだ。 「海浜王! 要心《ようじん》なされよ」  その叫びは天祚帝の耳にとどいたようだ。老人はかろうじて顔をあげ、欽宗に何やら叫び返した。心配なさるな、と言ったようであったが、はっきりと聴きわけることはできなかった。欽宗の傍《そば》にいた金兵が、今度は女真語でどなりつけたからである。内容は同じことで、許可なく声をたてるな、というのであろう。欽宗は口を閉ざし、急速に膨《ふく》れあがる恐怖に耐えながら、天詐帝の姿を眺めやった。  褐色の袍をまとった男たちが、天祚帝に向かって馬を走らせている。袍の色からして、獲物を追いつめる猟犬の群を思わせた。馬《ば》蹄《てい》のとどろきが急接近してくるのにようやく気づき、老いた遼の皇帝は不審そうな眼をあげた。同時に弓弦《ゆんづる》鳴りひびいた。天祚帝の右胸と背中に矢が突きたち、一瞬の間をおいて咽喉《のど》と左|腋《わき》にも矢羽がはえた。  声もなく落馬した天祚帝の老体が馬蹄に踏みつけられるのを、欽宗は見た。鈍い異様な音が欽宗の耳を突き刺す。遼国の最後の皇帝が、むざんに胸郭《きょうかく》を踏みつぶされる音であった。  広場をとりかこむ金国人たちの間から、うめき声がおこった。今日ここで何がおこるか、彼らもはじめて知ったのである。三十万人の観衆をあつめて、完顔亮は公開処刑をおこなおうというのだ。おそらく歴史上もっとも豪華な公開処刑であろう。殺されるのは市《し》井《せい》の罪人ではなく、宋と遼の皇帝である。おそろしい考えだが、たしかにこれ以上の観《み》物《もの》はないであろう。  すべてを欽宗はさとった。大観衆の前でみじめに殺されるために、彼は今日ここに呼び出されたのである。天祚帝の死とともに動きはじめた紫色の袍の男たちこそ、欽宗の処刑人であった。  欽宗の乗馬が走りだした。金兵が馬の横腹を槍の柄でなぐりつけたのである。あきれるほど広い甃《いしだたみ》の広場を、弧《こ》を描くように馬は走った。それを追って、紫色の袍の男たちが馬を躍らせる。彼らの半数は、すでに弓に矢をつがえていた。  欽宗はあえいた。恐怖に全身をわしづかみにされながら、彼は馬の背にしがみついていた。恐怖は死に対するものではなかった。それは不条理に対する恐怖であった。彼は殺されようとしている。なぜ殺されねばならないのか、それが欽宗にはわからなかった。いま殺すくらいなら、なぜ三十年前に殺さなかったのか。 「なぜ予を殺すのか!」  絶叫したつもりだが、声にはならなかった。ふりあおいた眼に壇上の人物が映《うつ》る。冷然として、死に直面した老人を見おろしている。死には遠い、力と若さにあふれた顔が。  最初の矢が欽宗の左胸をつらぬいた。激痛が体内に赤くとどろき、欽宗の身体は宙に舞った。矢は六本まで老天子の肉体をつらぬき、地上に縫《ぬ》いつけた。暗黒が彼をつつんだ。  中華帝国の歴史上もっとも不幸な皇帝のひとりは、こうして死んだ。金の正隆元年、宋の紹興二十六年、西暦では一一五六年。夏六月。あしかけ三十年にわたる抑留の果てである。享年《きょうねん》五十七であった。  紫色の袍を着た兵士たちは、馬から降りて欽宗の遺体に群らがった。遺体は馬蹄に踏みにじられ、骨がくだけ、内臓を破裂させて、人皮につつまれた血まみれの袋のように見えた。やがて、胴から斬り離された首が、高くかかげられた。観衆のすべてに見えるように。  遼の天祚帝の遺体も同様にされた。ふたつの首は盆に載《の》せられて完顔亮の前にうやうやしく置かれた。それは血と泥におおわれた肉の毬《まり》だった。広場をおおう異様な沈黙のなかで、完顔亮はにわかに哄笑《こうしょう》した。彼は席から立ちあがり、足をあげて二個の生首を蹴った。ふたつの首はふたつの弧を描いて地上へと舞い落ちていった。 「見よ、千古の武勲というべきである。一日にして偽《ぎ》帝《てい》二名の罪をただし、誅《ちゅう》に伏《ふく》せしめた。天に二《に》日《じつ》なく、地に二帝なし。天子はただひとり、大金《だいきん》の皇帝たる予のみである。予こそが天下の主である!」  朗々たる完顔亮の声がひびきわたる。白昼の惨劇を目撃した三十万人は、声もなく彼を見つめるばかりだ。 「あそこまでやる必要はあるまいに、無用の残虐を……」  ただひとり、沈痛な表情でそう呟《つぶや》いた馬上の人物がいる。燦然《さんぜん》たる甲冑と美々しい冑《かぶと》の房は、彼が王侯の身であることを示していた。黒いみごとな鬚《ひげ》が滝となって腹までとどいている。彼の姓は完顔《かんがん》、名は雍《よう》、年齢は三十四歳。金主完顔亮の従弟《いとこ》であり、封爵《ほうしゃく》は趙王《ちょうおう》、官職は東京留守《とうけいりゅうしゅ》。  後に金の世宗《せいそう》皇帝となる人物である。 [#改ページ] 第六章 趙王府《ちょうおうふ》     一  子《し》温《おん》の視界で陽《ひ》は翳《かげ》った。たしかに目撃しながら、なお信じることのできない事実が、人の世には存在するのだ。  先夜、獄中の欽宗《きんそう》皇帝に、壁ごしながら拝謁《はいえつ》することができた。つぎは機会を見て帝《みかど》を脱走させる。獄《ごく》吏《り》たちの綱《こう》紀《き》の弛《ゆる》みぶりを見れば、かならずしも困難ではないように思われた。  さまざまな政治的事情から、欽宗を世に出すことができない以上、子温たちの功績も公表されることはない。だが、亡《な》き父の霊には報告することができるし、父も地下《あのよ》で喜んでくれるだろう。幼いころ子温が『論《ろん》語《ご》』を学び、「義を見て為《な》さざるは勇なきなり」と素《そ》読《どく》したとき、「そうだ、そうだ」と手を拍《う》った父|韓世忠《かんせいちゅう》であった。  ひと安心して眠り、めざめたはずなのに、一夜明けて子温の気分は変わっていた。  表現しがたいほど強烈な不安が、冷たい鉄の手で子温の胸郭《きょうかく》を締めつけていたのだ。なぜこれほど不安なのか。理性をもって考えれば、欽宗皇帝がいま金主完顔亮《きんしゅかんがんりょう》によって殺されるはずがない。いま殺されるべき理由はどこにもない。不安をいだく必要などないのだ。  くりかえし自分に言い聞かせるのだが、そのつどかえって不安は増大していった。阿《あ》計替《けいたい》や黒蛮竜《こくばんりゅう》に同行してもらい、金国居住の漢人に変装して講《こう》武《ぶ》殿《でん》の方角に向かうと、前後左右すべて閲兵式に向かう人馬の列だ。 「て、天水郡公《てんすいぐんこう》はいずこにおわす? 尋《き》いてみてくれ」  阿計替にむけた子温の声が慄《ふる》えた。阿計替が漢語を女真《じょしん》語に通訳して兵士たちに伝える。もともと燕京《えんけい》は乾いた土地で、夏の陽を受けて土はさらにかわき、人馬の舞いあげる埃《ほこり》が口のなかまで侵入してくる。 「天水郡公とは誰のことだ」  首をかしげる者に、阿計替が説明する。これは探《さぐ》りをいれる意味もある。 「ほれ、以前に南朝(宋《そう》)の天子だったご老人のことさ。ずっと燕京の牢獄にいたが、今日の閲兵式で姿を見せるそうだ」  そういわれても大半の者は首をかしげるだけだが、なかには、 「そんなことを知ってどうするのだ」  と問い返す者もいる。不審の表情が疑惑に深まる寸前に、阿計替がさりげなく架空の事情を説明してみせた。 「天水郡公に何やら恩《おん》賜《し》のご沙汰《さた》があるとかで、姿を捜しておるのさ。天水郡公が陛下に何と御礼を申しあげるか、教えといてやらんとな」 「どんな恩賜だ」 「そんなことまで、私らのような下っぱにはわからんよ。それより天水郡公がどこにいるか教えてくれ」 「知らん」 「だったら早く、そういってくれ。時間をむだにしてしまったではないか。こちらは忙しいのだからな」  咎《とが》めるような阿計替の口調に、金兵は不快げな表情で視線を逸《そ》らせた。阿計替の巧妙な演技で、金兵は不審を封じこまれてしまったのだ。  閲兵式に参加する金軍の将兵の半数以上は、はじめて燕京に来たので、道に迷う者も多い。彼らの間に子温たちはまぎれこみ、関門をこえて講武殿前の広場の隅にはいりこんでしまった。  天は子温たちのささやかな成功を冷笑したのだろうか。子温は三十万人の女真族とともに、史上に類を見ない公開処刑を見せつけられることになったのである。見せつけられたこと自体は、誰を怨《うら》みようもない。子温は招かれたわけではなかった。  褐色の袍《ほう》を着た騎馬の一隊と、紫色の袍を着た一隊。彼らの姿が、手にとどくほどの距離を通過していったとき、子温の感じる不吉さは天に冲《とど》くほど高まった。彼らの姿は、まさしく喪門神《まがつがみ》の群に見えたのである。夢中で子温は兵士たちを押しわけ、前方へ出ようとした。怒声があがり、黒蛮竜と阿計替が懸命に彼をおさえる。そして、彼らから二百歩ほど離れた場所で、欽宗は矢を受けて殺されたのだ。  このような残虐をあえてやる者の真意はどこにあるのか。子温には想像もつかぬ。ただ激情が沸《わ》きかえって脳を灼《や》いた。声をあげなかったのは、声帯が麻痺《まひ》したからにすぎぬ。無意識に彼の手は左腰の短剣をさぐった。その手首を、黒蛮竜の大きな手が押さえこんだ。 「公《こう》子《し》、なりませぬ。いま飛び出しても徒死《いぬじに》なさるだけでござるぞ」  黒蛮竜の必死のささやきが、くりかえし子温の耳をたたいた。子温の激情は蒸気をなお噴きあげていたが、理性の冷風が吹きとおって、暗転していた彼の視界をふたたび明るくしていった。夏六月、白日のもと、三十万の将兵が甲冑《かっちゅう》と刀剣とを帯びて立ち並んでいる。見はるかす黄金と白銀の波が、ことごとく金兵であった。とうてい斬り破りようもない。  黄金と白銀の波が揺れて曇った。西北からの激しい風が吹きこんで、砂《さ》塵《じん》を舞いあげたのだ。兵士たちが袖《そで》をあげ、眼をかばう間に、三人の侵入者は後退して門へと向かった。  閲兵式はさらにつづき、数万人の兵士と数千頭の馬が踏みこえていった。首を失って地上に倒れ伏したふたりの皇帝の上を。式が終了したとき、もはや彼らの遺体は存在せず、骨も肉も皮も引き裂かれ、つぶされて、大地に溶けこんでしまったのである。  隠れ家に帰ってきた子温たちの表情を見て、梁紅玉《りょうこうぎょく》はすべてを悟《さと》ったようであった。卓に着いた子温は口もきけぬ。どういってよいかわからず、声すら出ず、ただ両の拳《こぶし》を卓に打ちつけるだけである。黒蛮竜と阿計替がかわって事情を説明した。彼らとても完全に冷静なわけではなかったが、たがいに記憶をおぎないあって、講武殿の惨劇のほぼ全容を梁紅玉に告げることができた。欽宗が矢を受けて殺される場面になると、阿計替も涙を流してまともにしゃべれなくなった。生前の欽宗と、彼は親しく語りあった仲なのである。 「よく子温を制《と》めてくれたね。御礼をいいますよ」  ふたりの金国人に、梁紅玉は頭をさげた。蒼ざめはしたが、平静さを失ってはいなかった。 「死を恐れぬことと、生命を軽んじることとは似て非なるものだからね。靖康帝《せいこうのみかど》をお救いできなかったのなら、つぎは生きて帝のご無念を晴らすしかない。一時の逆上で事をおこしてはならないよ、子温」  大きく子温はうなずいた。彼自身は講武殿で闘死しても悔《くい》はなかった。だが、かつての宋の皇帝が惨殺されたとき、報復の刃《やいば》をかざす者は宋の臣以外にない。そのことは万人の目に明らかである。闘死した子温の骸《むくろ》はそのまま、宋の諜者が金に潜入した証拠となる。金主完顔亮が宋に対して侵略の兵を向ける、その口実となるかもしれなかった。後日の復仇《ふっきゅう》を期して、ひとまず退くしか、子温に選ぶ方途《みち》はなかったのである。 「逆上して、おぬしらまで巻きこむところだった。赦《ゆる》してくれ」  子温も、ふたりの金国人に頭をさげた。 「何の、ご心情はよくわかります」  黒蛮竜が同情をこめていう。涙を拭《ぬぐ》いながら、阿計替は欽宗のことを語った。 「私は陛下とお呼びするわけにはまいりませんので、八官人《はちかんじん》とお呼びしておりました。ご気性のおだやかな、気品のある御方でしたなあ。あんなむごい亡くなりかたをなさるとは……」  八官人とは「八番めのだんなさま」というほどの意味である。欽宗は徽《き》宗《そう》の長男であるが、従兄弟《いとこ》たちを含めると一族の同世代で年齢が八番めであったようだ。そのことは『宋《そう》史《し》』には記述されておらず、『大宋《だいそう》宣《せん》和《な》遺事《いじ》』によって知られる。  欽宗自身が子温に語ったように、阿計替はできるかぎりの厚意を欽宗たちにしめした。衣食住だけではない、「いつかは帰れる日が来ましょう」と励《はげ》まし、和平についての情報も探りだしては報告した。金軍に拉致《らち》されて各地に抑留されている宋国人たちと、引きあわせもした。彼が任を解かれたとき、欽宗は彼の手をとり、涙ながらに別離を惜しんだ。  虜囚《りょしゅう》となった亡国の皇帝に親切にしたところで、阿計替には何の益もない。冗談で、復位のあかつきには恩賞をはずんでくだされ、といったことはある。だが、事実としては、虜囚に対して寛大すぎる、という理由で金の朝廷から叱責されたのが、阿計替のもらった「恩賞」であった。 「もし黒蛮竜や阿計替に会うことがなかったら、女真族すべてを憎むことになっていただろう」  そう子温は思わざるをえない。黒蛮竜たちと知己《ちき》であればこそ、完顔亮の存在が女真族にとっても災厄である、という視点を、子温は持つことができた。黒蛮竜たちと会わぬまま、欽宗の惨殺を目撃していたら、女真族ことごとくを殺しつくしても飽《あ》きたりない心情になっていたにちがいない。 「公子、お会いになっていただきたい方がございます」  姿勢をただして、黒蛮竜が口を開く。いろいろと彼も迷っていたが、今日の惨劇を目《ま》のあたりにして、決意するところがあったようだ。阿計替がうなずいてみせたのは、両者の間で諒解《りょうかい》がなされていたのであろう。 「おぬしらの知己か、その人は」 「知己とはおそれおおい言いかたで、それがしどもよりはるかに身分の高い方でござる」 「皇族かい?」  梁紅玉が問うと、黒蛮竜が勢いよく答えた。欽宗の死を告げたときの沈痛さと別人のようである。 「葛王《かつおう》殿下でござる」 「いや、つい先だって趙王《ちょうおう》となられた。あの御方こそ、金国の真《しん》天《てん》子《し》となられるにふさわしい」  阿計替の声まで弾《はず》んでいる。彼ら完顔亮に反感をいだく女真族にとって、その人物はよほど期待される存在であるらしい。阿計替はさらにいった。 「私には弟がおりまして、沙里《さり》と申します。これが趙王殿下のお邸第《やしき》におつかえしておりますれば、案内させましょう」  子温はためらった。黒蛮竜や阿計替が善意で提案しているのはわかるが、彼はまだ金国の貴人と対面するだけの心情の整理ができていない。相手に迷惑ではないか、こちらの一方的な信頼を裏切られたらどうするか、そもそも対面したところでどのような成果が期待できるのか。即答できずにいる子温を見て、口を開いたのは梁紅玉であった。 「ではそうしておくれ。子温も手ぶらで帰国はできないからね。どのような成果を得られるか、それは子温の器量しだいだろうよ」     二  完顔雍《かんがんよう》の官職は東京留守《とうけいりゅうしゅ》である。金国の東京は、燕京の東北八百里(約四百四十キロ)、遼河《りょうが》の畔《ほとり》にあり、後世、遼陽《りょうよう》と呼ばれる戦略上の要地であった。当然、留守《りゅうしゅ》たる雍はそこに駐在しているわけだが、皇族として燕京城内にも邸第《やしき》をかまえている。彼の封爵《ほうしゃく》は趙王であるから、邸第は「趙王府《ちょうおうふ》」と呼ばれる。  燕京城の大拡張工事にやや遅れて、趙王府は完成した。建てられてから二年ほどしか経過しておらず、栽《う》えられた樹木もまだ若い。建物も規模は大きいが質実な造りで、金銀|珠玉《しゅぎょく》の類は使われていなかった。百万金を費《ついや》したといわれる皇宮の壮麗さには、とうてい比較しようもない。 「おぬしと同じだ。堅いばかりでおもしろみがないな」  そう評したのは完顔亮である。雍より一歳年長の従兄《いとこ》であり、金国の皇帝である人物だ。雍は少年のころから亮とともに四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》の陣中にあり、大軍を統御《とうぎょ》する術《すべ》を学んだ。同門の弟子でもあったわけだ。  惨劇から一夜が明けて、雍は朝から邸第の内院《なかにわ》にいる。四阿《あずまや》の椅子にすわって、卓上の葡《ぶ》萄《どう》をつまみつつ何やら考えこんでいた。この年、最初の葡萄である。この時代、燕京の周辺は葡萄を多く産したようだ。  歴史上、葡萄をたいそう好んだ人に、三国時代の魏《ぎ》の文帝《ぶんてい》曹《そう》丕《ひ》がいる。文帝は、政治でも学問でも芸術でも、とかく口うるさい批評家であったが、こと葡萄に関しては、「残暑きびしいころ、酒を飲んだ後に新鮮な葡萄をつまむのは、じつに爽《さわ》やかな味わいだ」と絶讃している。  雍の心境はといえば、爽やかさには遠かった。昨日の閲兵式での光景が脳裏によみがえる。三十四年を生きてきて、宮廷でも戦場でもさまざまな光景を見てきたつもりだ。煕《き》宗《そう》皇帝の、斬りきざまれて血泥《けつでい》の塊《かたまり》となった遺体に対面したこともある。だが、昨日、亡国の皇帝ふたりが殺された光景ほど、胸が悪くなるものはなかった。そして、壇上で傲然《ごうぜん》と佇立《ちょりつ》していた亮の姿も。  ——自分を制するということができぬ人だ。  亮に対して、そう雍は思わざるをえない。漢文化に心酔し、女色に耽溺《たんでき》し、権力にのめりこむ。何をやるにしても、亮は極端で、程度というものを知らない。 「君たらんと欲《ほっ》せば則《すなわ》ちその君を弑《しい》し、国を伐《う》たんと欲せば則ちその母を弑し、人の妻を奪わんと欲せば則ちその夫を殺さしむ」 「智は以《もっ》て諫《かん》を拒《こば》むに足《た》り、言《げん》は以て非を飾るに足る」  とは『金《きん》史《し》・海陵本紀《かいりょうほんき》』の記述である。後者は型どおりの表現で新鮮さに欠けるが、事実、海陵こと完顔亮はそのような男であったろう。誰よりも頭脳の回転が速く、誰よりも弁舌《べんぜつ》がたくみで、それに対抗できる者などいない。自分が誰よりも優れている、と思えば、自制心がとぼしくなるのも当然であった。  自分と亮との資質のちがいを、少年のころから雍は思い知らされてきた。漢族の学者から史学や儒学を教わったときもそうであった。 「宋においては言論をもって士《し》大《たい》夫《ふ》を殺さず」  そう教師から聞かされたとき、雍は大きな衝撃を受けた。信じられぬ思いで、彼は問うた。 「では臣下が皇帝に対して反対を唱えても、死刑にはならぬのか」 「なりませぬ。免職とか左遷とか、さらには事実上の流刑とかはございますが、死刑になることはございませぬ」  断言されて、雍は感歎するばかりであった。おおげさにいえば、雍はこのとき、文明とはどういうものか、ということを知らされたのである。皇帝に反対しても死刑にはならないとは!「ああ、金はとうてい宋におよばぬ」と、彼は歎息した。  だが、同じ事実に対して、亮の考えは雍と異《こと》なった。「言論をもって士大夫を殺さず」と聞いたとき、亮は鼻先で笑ったのである。 「だから宋はだめなのだ」  雍がおどろいて、なぜそう思うのか、と問うと、明快に亮は答えた。 「宋には党争《とうそう》が多い」  党争とは政策や人脈を原因とする派閥抗争のことである。 「何をいっても殺される心配がないものだから、宋の士大夫どもは好きかってなことをいう。無益な口論に時を費《ついや》し、他人を責めるばかりで、自分が責任をもって行動しようとせぬ。死を覚悟せぬ言論など、国に害を与えるだけのものではないか」  雍は返答ができなかった。かつて四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が軍をひきいて黄《こう》河《が》を渡ろうとしたとき、宋の対応の遅れを、つぎのように笑いとばしたものである。 「宋人どもには好きなだけ議論させておけ。奴らが結論を出すころには、吾々《われわれ》はとうに黄河を渡っている」  この発言は、完全には正しくなかった。金軍が黄河を渡ってしまっても、まだ宋の士大夫たちは議論をつづけていたのだ。議論をやめるどころか、今度はあらたな議論の種が加わった。 「見よ、お前たちが無益な議論で国を誤らせたのだ。金軍が黄河を渡ったのはお前たちのせいだ」  たがいに罵《ば》倒《とう》し、責任を押しつけあううちに、金軍は首都|開封《かいほう》の城門に達してしまったのであった。  亮が「だから宋はだめなのだ」と嘲笑《ちょうしょう》するのも一理ある。だが雍は思うのだ。「反対すれば殺される。意見などいうまいぞ」と廷臣たちが息をひそめているより、誰はばかることなく大声で議論しているほうが、よほどよいではないか、と。  雍自身、すこしも安全ではない。亮の即位以来どれほど多くの皇族や大臣が殺されたか。亮は生《せい》母《ぼ》すら殺したのだ。亮の母は契丹《きったん》族で、遼《りょう》の皇族の出身であったが、息子の乱行を責めて、毒殺されてしまったのである。  雍はさらに記憶をたどる。昨日の閲兵式の直後であった。亮は雍を皇宮の一室に呼んだ。意見を聞きたいことがある、というのである。雍は用心せざるをえなかった。亮がこの世でもっとも嫌いなのは、自分の考えに反対されることである。  鋭い視線を雍の顔にそそぎながら、亮は問いかけてきた。 「宋で秦檜《しんかい》が死んだことは存じておるな」 「はい、聞きおよびました」 「病死だと思うか」  亮の悪癖で、このような問いには、かならず揶揄《やゆ》の調子がこもる。臣下の智恵のていどを量《はか》ろうとするかのようだ。慎重に、雍は言葉を選んだ。 「そう聞いておりますが」 「聞くだけなら、予《よ》も聞いておる」  唇の片端だけを、亮は吊《つ》りあげた。雍の慎重さ、用心深さが、彼は気にいらない。亮は華麗さ、大胆さを好んだ。後宮《こうきゅう》に納《い》れた蘇《ソ》埒《レツ》和《ワ》卓《タク》という女性が男遊びにふけっても処罰しなかったのは、そのぬけぬけとした大胆さが気に入ったからなのである。  ——雍の奴は女より小心者だ。  亮はそう思っている。  たしかに雍はおもしろみのすくない人物ではある。彼の伝記は『金史・世宗《せいそう》本紀』に記録されているが、名君としての業績を称揚し、仁慈や倹約の精神を賞賛する記述ばかりで、読んで感心はするが楽しいものではない。笑話や失敗談などまったく書かれていない。  これは、「つごうの悪い話はすべて抹殺したのだろう」と考えることもできるが、むしろ事実として、雍は逸《いつ》話《わ》のすくない人であったと思われる。雍は誠実と正論の人で、公人としての義務を何よりも優先させる人であった。したがって、私人としておもしろみに欠けるのは、しかたないのである。  亮と雍とは血を分けた従兄弟《いとこ》どうしである。そして、極端に思考法も価値観もちがい、たがいをまったく理解することができなかったようだ。端的に表現すれば、奔放《ほんぽう》で利己的で陶酔癖のある天才と、堅実で苦労性で自省癖のある秀才とのちがい、ということになるであろうか。     三  沈黙は長くはつづかなかった。 「秦檜は暗殺されたのかもしれぬ」  めんどうくさくなったのか、亮は言葉を投げだした。「は」と曖昧《あいまい》に応《こた》えただけで、雍としては答える術《すべ》がない。 「証拠があるのか、といいたそうな面《つら》だな。あるわけがない。あればたちどころに宋を問責《もんせき》してくれる。本朝《わがくに》にとって、最大の功労者だったのだからな」  亮は大笑した。もったいぶった宋の士大夫たちが色を喪《うしな》い、狼狽《ろうばい》するありさまを想像すると、彼は愉《たの》しい。それは従弟《いとこ》である雍に対しても同様で、まじめくさって正論ばかり吐く雍を揶揄してやりたい気分が、つねにある。「いったいお前は何が楽しくて生きているのだ」といってやりたい気がしてならぬ。  秦檜が暗殺された、などということを、亮自身、信じているわけではない。秦檜の死を惜しんでいるわけでもない。どうせなら騒乱の種ができたほうがおもしろい、と思っているのだ。ただそれだけのことであった。その証拠というべきであろうか、宋の丞相《じょうしょう》が暗殺された、というような重大な発言を、そのまま亮は放りだしてしまった。あらためて口を開いたときには、前兆《さきぶれ》もなく、べつの話題を持ち出す亮であった。 「契丹《きったん》人どもはしばしば謀《む》叛《ほん》をたくらむが、理由がわかるか」 「遼朝の再興を望んでのことでございましょう」  雍の返答に、亮は濃い眉を動かし、侮《ぶ》蔑《べつ》の思いを吐きすてた。 「当然のことだ。当然のことをいうのは、何もいわぬと同じことだ」  口調が憐《あわ》れみのそれに変わる。 「よいか、契丹人どもが遼の再興などという妄想をいだくのは、かつての皇帝が生きておったからだ。だから今日、予は海浜王《かいひんおう》を誅戮《ちゅうりく》して、契丹人どもが無益な夢に迷わぬようしてやったのだ」  遼の天《てん》祚《そ》帝《てい》を殺したのには、りっぱな政治的理由がある。そう亮は主張するのである。たしかに一理あるかもしれぬが、結局それは口実にすぎない。なぜあのように衆人環視のなかで残忍な殺しかたをしたか。それに対して亮は答えていないのだ。さらに、天祚帝だけでなく欽宗をも殺害した理由はどこにあるのか。 「遼は滅びた。宋は江南《こうなん》で再興こそしたが、いったん滅びた」 「は、たしかに両国とも滅びておりますが」 「国が滅びたのに、なぜ奴らはのうのうと生きておるのだ。恥を知る者なら、亡国の際に自ら生命を断って、宗《そう》祖《そ》に罪を謝すべきだろう」  宗祖とは歴代の先祖たちのことである。つまり亮は、先祖たちに代わって、不肖《ふしょう》の子孫に懲罰を与えてやった、というのだった。それが欽宗を殺した理由である、と。  ——この人はなぜそのように漢族や契丹族の憎悪をことさら煽《あお》るような所業《まね》をするのか。  どこまでもまじめに、雍は心を傷《いた》める。  漢族や契丹族をあわせて三千万人以上。それをことごとく殺して女真族のみで国家を運営していくということは不可能である。憎悪の毒を薄め、融和して生きていくしかないのに。そう思いつつ、雍は、いわずにいられなくなった。 「陛下の御《ぎょ》意《い》はよくわかりましたが、天水郡公にしても海浜王にしても、すでに抑留三十年をこえ、老残《ろうざん》の身でございました。むしろ厚遇して陛下のご寛容をお示しあったほうが……」 「おぬしはいつもそうだ」  亮の声は嘲弄《ちょうろう》のひびきを隠しおおせることができなかった。 「いつでもしたり顔で正論を唱えるが、それが役に立ったことがあるか。東昏王《とうこんおう》の例を想いおこせ。おぬしが殺される前に、おれが奴を殺してやったのだぞ」  またしても雍は返答ができぬ。東昏王すなわち煕宗皇帝は暴虐の君主《きみ》であった。多くは酒毒のせいであろう。酒に酔って戸部《こぶ》尚書《しょうしょ》(財政大臣)宗礼《そうれい》を殺した。寝室で妃の裴満《はいまん》氏《し》を殺した。皇族の完顔元《かんがんげん》、阿《ア》懶《ラン》、達《ダ》懶《ラン》を殺した。重臣の奚《えい》毅《き》、田殻《でんかく》、邪《セイ》具《グ》膽《セン》、王植《おうしょく》、高鳳廷《こうほうてい》、王傚《おうこう》、趙益興《ちょうえきこう》らを殺した。文人の宇文虚中《うぶんきょちゅう》、高《こう》士《し》談《だん》らを殺した。彼の治世に血と酒にまみれて異臭を放つに至った。  煕宗の暴虐を断ったのは、完顔亮がふるった弑逆《しいぎゃく》の剣である。諫言《かんげん》でもなく、正論でもなく、暴力によってのみ、恐怖政治を終わらせることができたではないか。そういう自信が亮にはあり、この絶大な自信の鉄壁に対しては、正論の矢など無力にはね返されるだけである。  考えてみれば、天祚帝や欽宗の惨殺を正当化するために煕宗の例を持ちだすのはおかしいのだが、そのように論点をずらし、相手の批判を無効化してしまうのが亮の特技であった。まことに『金史』が評するとおりであった。「言は以て非を飾るに足る」。彼は自己正当化の、比類ない達人であったのだ。 「ところでな」  いきなり亮は話題を変えた。彼の話は、湧《わ》きおこる乱雲さながらに、めまぐるしく変化する。多くの者は、それについていくことさえ容易ではない。 「近いうちに遷都しようと思っておる」  雍は唖然《あぜん》とした。彼の表情を見て、亮は愉しげに笑う。沈着かつ重厚な雍がおどろきあきれるのは、亮にとってよい観《み》物《もの》である。 「燕京では帝都たるに不足とおおせられますか」 「北方にかたよりすぎる」  その返答で、雍は自分が何かをさとったように思う。現在の金の領域からすれば、燕京が北にかたよりすぎるということはない。亮が企図しているのは、宋を完全に併呑《へいどん》して天下を統一することではないのか。それにしても、つい三年前、建国以来の旧都を棄《す》てて燕京を新都としたばかりではないか。 「では、玉座をいずれにお遷《うつ》しあそばしますか」 「開封《かいほう》だ」  これは予測の範囲内にある回答であった。宋の旧都である開封は、中原《ちゅうげん》の経済と交通の中心地である。それに加え、かつての宋都に君臨するということは、亮の勝利感をくすぐるにちがいない。 「亮の才は器《うつわ》に過ぎるようだ」  四《スー》太《ター》子《ツ》はそう評したことがある。甥《おい》である亮に危険なものを感じていたのだろう。才能は豊かだが、器量がともなわない。才能と感情を自分で制御することができない。人々の上に立つ者としては、大いなる欠点であろう。  ——自分の才能は、この人の足もとにもおよばぬ。そのことを自分は嫉妬して、この人を低く評価しようとしているのだろうか。  そこまで考えてしまうのが、雍のまじめすぎるところであった。だが、嫉妬の感情はともかく、どう考えても開封への遷都がめでたいこととは思えぬ。胸奥《きょうおう》で彼はうめいた。  ——つい先年、燕京城を大拡張して遷都した。今度は開封に遷都して、伐宋《ばつそう》の大軍を発するというのか。そんな資金がどこにある!? すでに国庫は空《から》に近いというのに。 「資金はある」  亮が答えた。雍は一瞬、呼吸をとめた。胸奥の想いを口に出してしまったかと恐れた。そうではなかった。亮は自分の思考の流れにしたがって発言しただけであった。 「資金はある。宋が毎年、本朝《わがくに》に献上してくる歳貢《さいこう》だ。あれを貯えて、伐宋の軍費にあてるとしよう」  亮は笑った。悪意が結晶したかのような笑いである。 「つまり宋は自分たちを滅ぼすための軍資金を、すすんで支払うわけだ。奴らの愚かさは後世の笑いものとなるだろう。千年後に、史書を読んでみたいものだ」  ふいに笑いをおさめて、亮は雍に問いかけた。 「本朝が毎年受けとる歳貢の額を存じておるか」 「銀二十五万両、絹二十五万匹でございます」 「それだけ巨額の歳貢を受けながら、なお金は宋より貧しい。なぜだ!? 米も茶も綿も塩も、すべて宋から買わねばならんからだ」 「それはたしかに……」 「江南を獲《と》るのは、大金国千年の計である。彼《か》の地を獲ってこそ、真の繁栄があるのだ」  雍は即答できなかった。従兄である亮の思考法に、おいそれとはついていくことができない。「豊穣《ほうじょう》な江南の地を征服すれば、金国は富む」。そのとおりである。江南の富は、金国の国庫を埋めつくして余りあるであろう。だが、征服できれば、の話である。  雍の思考を、亮はまるで先どりしているかのように話を進めた。 「岳《がく》飛《ひ》、韓世忠、呉《ご》※[#「王+介」、unicode73A0]《かい》はすでに亡く、劉《りゅうき》と呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》は老いたと聞く。名将ことごとく凋落《ちょうらく》して、宋軍に人材なし。百万の精鋭をもって長江《ちょうこう》を渡れば、さえぎる者もなく、杭州《こうしゅう》への道が開けるであろう」 「おそれながら……」  必死の思いで雍は反論をこころみた。宋の名将たちが世を去ったのは事実だが、それは金も同様である。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の死後、十万以上の大軍を実戦で指揮統率し、万里の道を遠征できる将帥は存在しなくなった。南方、宋との国境は安定している。西方、西《せい》夏《か》との国境も同様である。北方においてのみ、遼の再興をめざす残党たちが蠢動《しゅんどう》し、蒙古《モンゴル》と呼ばれる遊牧民の集団がしばしば掠奪《りゃくだつ》行為をおこなっている。それに対して金軍が出動しても、せいぜい二、三万までの兵数だ。宮廷内の混乱ともあいまって金軍首脳部の統兵《とうへい》能力は昨今、下落する一方である。いったい何者をして、伐宋《ばつそう》百万の大軍を統帥《とうすい》せしめるつもりなのか。 「無用の心配だ」  亮の声には揺らぎの気配もない。 「なぜなら予が親征《しんせい》するからだ」  この日、幾度めのことか、雍は唖然とした。かつて四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼でさえ黄天蕩《こうてんとう》において宋の韓世忠に大敗し、江南の征服を断念したのだ。どうやら亮は、自分の将才が四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼をしのぐものと信じているらしい。でなければ、これほどの自信を持って断言できるものではなかった。それにしても、この自信はどこから来るのか。何が亮をしてかくも自信に満たさしめるのか。  困惑の極に立たされて、雍は視線を室内にさまよわせた。その視線が一点に固定する。一枚の屏風《びょうぶ》が置かれていた。柳や桃などの樹木にかこまれた城市《まち》や山水《さんすい》は江南の風景であろう。その風景にかさねて、つぎのような詩句が書かれていたのである。   提兵百万西湖上   立馬呉山第一峰 「ああ、この人はやはり……」  雍は知った。金国主完顔亮の野心をはっきりと知った。疑いようもない。この詩をつくった人物は、百万の大軍をひきいて、かならず宋へ侵攻していく。和平は破られる! 「兵を提《ひつさ》ぐ百万、西《せい》湖《こ》の上《ほとり》。馬を立つ、呉《ご》山《さん》の第一峰《だいいっぽう》」  雍の視線に気づいて、高らかに亮が詠《よ》みあげた。西湖とは、杭州に接したあの西湖である。亮の詩才は尋常ではない。百万の大軍を統帥して江南を征服してくれよう、という壮麗な覇気が、虹のように雍を圧倒した。 「この人は英雄になりたいのだ」  あらためて雍は亮の願望を確認した。  金王朝もすでに第三世代にはいっている。太《たい》祖《そ》皇帝や太宗《たいそう》皇帝の第一世代、二《アル》太《ター》子《ツ》宗望《そうぼう》や四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の第二世代。彼らは英雄だった。北方の暗い森のなかに住み、強大な遼に圧迫されながら、つつましく河で魚を採《と》り、砂金を集め、火田《はたけ》で雑穀《ざっこく》をつくり、熊や虎や鹿を狩って生活していた。だがひとたび起《た》って金国を興すや、十年にして遼を滅ぼし、十一年にして宋を亡ぼした。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は十数万騎の大軍をひきいて長江を渡り、宋の高宗《こうそう》皇帝をして海上へ逃亡せしめた。  英雄の時代は、だが、二十数年で終わった。和約が結ばれ、平和が訪れた。金は第三世代にはいる。煕宗皇帝や亮や雍の時代である。彼らは何をしているのか。平和の世とは建設の世であるはずだ。毎年、宋から贈呈される巨額の歳貢を費《つか》って、社会の安定と国力の充実、そして文化の向上に努《つと》めるべきであった。そう雍は思っている。だが亮にとって、そのようなことはおもしろくも何ともないのであろう。片々《へんべん》たる雑事は臣下に委《ゆだ》ね、「英雄」としての大事業と快楽に専念するつもりであろうと思われた。 「燕京にはおぬしを置いておこう。おぬしに後事を委ねておけば安心だ」  いったん口を閉ざして、完顔亮は雍の顔を見やった。 「おぬしは信用できる男だからな。宗族《そうぞく》のなかに、おぬしのような男がいてくれて、予は嬉《うれ》しく思うぞ」 「ありがたき幸せにございまする」  かろうじて雍は口から声をおしだした。     四  不誠実さにおいて、よい勝負であった。そう回想を結論づけて、趙王完顔雍《ちょうおうかんがんよう》は椅子から立ちあがった。葡萄の汁を手巾《ハンカチ》でぬぐい、来《きた》るべき日のことに想いをはせる。このまま亮の欲望と恣意《しい》にまかせておけば、金国は滅びる。それを阻止できるのは雍しかいないのではないか。 「阻止せねばならぬ。だがそのためには帝を廃する以外にない……」  雍の腹心ともいうべき人々に完顔福寿《かんがんふくじゅ》、完顔謀衍《かんがんぼうえん》、高忠建《こうちゅうけん》、廬《ロ》万《バン》家奴《カド》といった名があげられる。名から見て、高忠建は漢族か渤海《ぼっかい》人、他の三人は女真族であったかと思われる。当時の金国は多民族国家であり、皇帝の亮にしてからが母親は契丹族であった。  完顔福寿らは、雍がいまただちに起兵するといっても従《つ》いてくるであろう。その他には? 朝廷の重臣といえば、張浩《ちょうこう》であり※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈良弼《きっせきれつりょうひつ》であり※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈《きっせきれつ》志《し》寧《ねい》である。彼らはいずれも有能であり、亮の乱行に批判的であるが、一挙に帝位|簒奪《さんだつ》ということになれば、やはりためらうであろう。そもそも現在の帝座が弑逆の結果なのだ。二代つづけて簒奪がおこなわれるとあっては、宋や西夏に対して面《めん》子《つ》がたたぬし、後世の史家に対しても恥ずかしいことである。  雍自身にも大きなためらいがある。現在の皇帝を廃するなど、いわずと知れたこと、臣下としての大罪である。亮はあきらかに雍を危険視し、挑発しようとしているが、このまま座して死を待つか。それができぬとすれば起《た》って亮を打倒するしかないではないか……。 「大家《だんなさま》」  そう呼ばれて雍は振りむいた。舎人《しゃじん》の沙里《さり》であった。めずらしい客人をつれてきたという。内院《なかにわ》の土の上にひざまずいたふたりの男を見て、雍の表情がわずかに変わった。沙里に声をかけ、他の者を通さぬよう命じる。一礼して沙里は立ち去った。 「おぬしは黒蛮竜であろう」  さらに左右を確認してから、雍は客人のひとりに低い声をかけた。 「一別以来でございます、殿下」  緊張のうちに旧懐の思いをこめて、黒蛮竜は拝《はい》跪《き》した。歩み寄って、立ちあがるよう雍はうながした。 「よく来てくれた、といいたいところだが、官憲に追われる者が堂々とわが邸第《やしき》にはいってくるようでは困ったものだな」  これは冗談だが、雍は日ごろ諧謔《かいぎゃく》とは無縁の人と思われている。黒蛮竜はむきになった。 「お言葉おそれいりますが、それがし、天にも地にも恥じるところはございませぬ。かの弑逆者たる完顔亮を憎みますのも、かの者が人倫《じんりん》にはずれること甚《はなはだ》しいからでございます」 「かの御方は、本朝の天子におわすぞ」  雍はたしなめたが、声には力強さが欠けた。 「このままでは大金国は滅びまする!」  黒蛮竜のほうは声を張りあげ、あわてて口をおさえた。国の滅亡を広言するのは大罪である。彼はすでに官を棄《す》てて賊となった身だが、雍を巻きこむわけにはいかぬ。否、趙王府へはいった以上、必然的に巻きこむことになってしまうが、それを他人に知られるわけにはいかぬのだ。 「その御《ご》仁《じん》は?」  雍が問う。黒蛮竜は後ろを振りむき、ひざまずく若い男を紹介した。 「されば、この御仁を殿下にお引きあわせしようと存じ、かくは参上いたしました。宋の通《つう》義《ぎ》郡王《ぐんのう》・枢密《すうみつ》使《し》たる韓良臣《かんりょうしん》どののご子息にて、子温どのと申されます」 「韓良臣?」 「良臣は字《あざな》にて、姓を韓、名は世忠と」 「おお、わかった」  雍は大きく瞠目《どうもく》した。子温にむけて漢語で話しかける。 「黄天蕩でわが軍を大破したあの韓元帥か。すると母君はあの梁女将軍《りょうじょしょうぐん》……」  黄天蕩の戦いのとき、雍はまだ八歳であったから、従軍はしていない。だが、いかに壮絶な戦いであったか、雍は幾度も話に聞いている。当時、金軍の主力であった兵士たちは現在、ほとんど五十歳をすぎて初老の域にはいっていた。 「咯咯咯《タンタンタン》! 咯咯咯咯咯咯!」  そう兵士たちは宋の軍《ぐん》鼓《こ》のひびきを口で再現してみせ、あのひびきを夢裡《むり》に聴《き》いて夜半にはねおきたことがある、と告白するのであった。また、河霧のなかから忽然《こつぜん》として出現した梁紅玉の軍旗、それに記された五つの文字について、印象のあざやかさを語る兵士もいた。   夫戦勇気也  夫《そ》れ戦いは勇気なり。「戦いは勇気あってこそのものだ」とでもいう意味になる。味方の大敗に終わった戦いではあるが、兵士たちの話は少年であった雍の胸を躍らせた。もっとも精彩に満ちた話をしてくれたのは、雍の初陣以来、十年にわたって補佐の任にあたった黒蛮竜であった。  両親の名を出されて、むしろ子温は恥じいった。 「不肖《ふしょう》の子でござる。父母の名を辱《はずか》しめるばかりにて……」  彼がそういうと、雍の両眼に、短くだが鋭く閃光がよぎった。 「天水郡公をお救いに参られしか?」  雍の声は穏和だが、剛弓から放たれた矢となって、子温の胸を射《い》た。無言のまま、ただ子温は金国の皇族の顔を見やったのである。一歩、子温のほうへ歩みよって、雍は語をつづけた。 「昨日のこと、何と申しあぐるべきか、言葉もござらぬ。金国人が何をいうか、とお思いであろうが、後日の修好のため、謝罪を容《い》れていただければ幸いでござる」  その表情を見、その声を聴いて、子温は自分の「成果」をさとった。それは容易に得がたいもの、つまり将来への期待であった。 [#改ページ] 第七章 莫《ばく》須《す》有《ゆう》     一  風が激流となって峡谷を吹きぬけていく。  宋《そう》の紹興《しょうこう》二十六年(西暦一一五六年)十一月末。秦嶺《しんれい》山脈の冬は、風に舞う粉雪とともに深まりつつあった。  秦嶺山脈は中華帝国の西方に位置する長大な山岳の群である。北方には長安《ちょうあん》をいだく関中《かんちゅう》平野、南方には漢中《かんちゅう》盆地と四《し》川《せん》盆地。東西の長さは六百里(約三百三十キロ)にもおよび、大陸の南北をへだてる自然の壁であった。山脈の南では雨が多く、気候は温和で、米や柑子《みかん》を産し、野には竹が生《は》える。北は乾燥して冬はことに寒く、緑も比較的すくなくなる。  自然の壁はまた、政治と軍事における長城であった。中華帝国が南北に分裂するとき、秦嶺はその境界となって、しばしば大軍が山道をこえ、苛烈な戦闘がまじえられ、人馬の声と刀槍のひびきとが峡谷にこだました。とくに三国時代には魏《ぎ》と蜀漢《しょくかん》との執拗《しつよう》な攻防戦が展開され、司馬《しば》仲達《ちゅうたつ》と諸葛孔明《しょかつこうめい》にかかわる古戦場が各地に遺《のこ》されている。  同時に多いのは、宋金両軍の古戦場である。大陸全土の制圧をめざす金軍と、それに抵抗する宋軍との戦闘は、幾度もくりかえしおこなわれ、多くの血を流し、それにともなう物語を生んだ。もっとも有名な戦場は和尚原《わしょうげん》であり、饒風嶺《ぎょうふうれい》、武休関《ぶきゅうかん》、仙人関《せんにんかん》、百通坊《ひゃくつうぼう》などがそれに次ぐ。  紹興二十六年は表面的には和平の時代であったが、この地方を防衛する宋軍はつねに臨戦態勢にあって金軍の侵攻にそなえていた。その警戒網にかかった者がいる。警戒の笛が鳴り、やがて監視用の石塁《せきるい》に連行されてきたのは、服に薄く雪をつもらせたふたりの旅人であった。それぞれ馬に乗った老婦人と青年、そして荷物をつんだ驢馬《ろば》である。彼らは山道で何か燃やしており、その煙を発見されたのである。  彼らの身分と名を問い質《ただ》した兵士たちは、にわかにそれまでの態度をあらため、護衛と案内役をつけて彼らを成《せい》都《と》へと送り出したのであった。  成都は三国時代、蜀漢の首都となった。唐《とう》の時代には、首都長安を賊軍に追われた皇帝が、安全なこの土地に避難してきた。唐の滅亡後には前濁《ぜんしょく》、後蜀《こうしょく》というふたつの王朝が、この地を王城とした。後蜀の時代、ときの国主が芙《ふ》蓉《よう》の花を好み、全城をこの花で埋めつくしたため、「芙蓉城《ふようじょう》」の異名が生まれた。また古代より良質の錦《にしき》を産したため「錦城《きんじょう》」とも呼ばれる。  宋の時代には四《し》川《せん》宣《せん》撫使《ぶし》の本拠地となった。この広大な地方は、成《せい》都《と》府路《ふろ》、梓州《ししゅう》路などいくつもの行政区に分かれていたが、四川宣撫使はそのすべてを統轄しており、いわば総督として巨大な権限をにぎっていた。前任の四川宣撫使は不敗の名将|呉《ご》※[#「王+介」、unicode73A0]《かい》、その死後は正式にではないが弟の呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》が宣撫使の職務をつとめている。  秦檜《しんかい》が岳《がく》飛《ひ》を殺したとき、そのやりくちに嫌悪と恐怖をいだきつつも、朝廷の文官たちは結果を受けいれた。強大な傭兵《ようへい》部隊はことごとく解体され、権力は文官の手に帰した。「学問も教養もないくせに、武勲を盾にそっくりかえっていた武官ども」は姿を消した。  ただひとつ残された主戦派武将の勢力は、「四《し》川《せん》王《おう》」呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]だけであった。  呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の官位は秦鳳路経略《しんほうろけいりゃく》安《あん》撫使《ぶし》といい、いわば西北方面軍司令官というところである。だが軍事と行政において、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の実権は、後世でいう四川省の全域と陝西《せんせい》省南部、甘粛《かんしゅく》省南部におよんでいた。それは三国時代の蜀漢帝国の領土にほぼかさなる。まさしく「四川王」と称されるにふさわしかった。後には呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は正式に四川宣撫使となり、死後は信王《しんおう》の称号を受ける。  韓世忠《かんせいちゅう》の未亡人|梁紅玉《りょうこうぎょく》の名を聞いた呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は、喜んでこのめずらしい客人を邸第《やしき》に迎えた。  阿母《かあちゃん》もたいしたものだ、と子《し》温《おん》はいまさら思わざるをえない。秦嶺の山中で監視の兵に発見された謎の旅人とは、この母子であった。彼らは夏、燕京を出発し、黒蛮竜《こくばんりゅう》と同行して金国領を横断した。そして秦嶺の北で黒蛮竜と別れ、宋国領にはいったのである。黒蛮竜を同行させ、通行証まで用意してくれたのは、趙王完顔雍《ちょうおうかんがんよう》であった。 「よう来られた、梁女将軍《りょうじょしょうぐん》」  この年、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は五十五歳である。実際の年齢よりさらに年長に見え、灰白色の髪や髭《ひげ》に老将の風格がある。字《あざな》は唐卿《とうけい》。少年のころから勇敢で騎《き》射《しゃ》にすぐれ、兵書を愛読したという。  呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の兄は呉※[#「王+介」、unicode73A0]という。兄弟そろって「抗金名将《こうきんのめいしょう》」と呼ばれる名誉をになう。呉※[#「王+介」、unicode73A0]の字は晋卿《しんけい》。呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]より九歳の年長であった。  呉※[#「王+介」、unicode73A0]はまだ字も待たない年齢のころから従軍して戦功をかさねた。主として西《せい》夏《か》との戦いだが、方臘《ほうろう》の乱に際しても従軍したから、どこかで韓世忠とめぐりあったかもしれない。呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]も兄にしたがって戦場を駆けまわった。そのうち文官で対金主戦派である張浚《ちょうしゅん》に、兄弟そろって才能を認められ、以後、四川に侵攻してくる金軍との戦いに生涯をかけた。  金の将軍|撒離喝《キリカ》はあるときの戦いで呉※[#「王+介」、unicode73A0]に惨敗し、泣きながら逃げたので、あきれた金兵たちが彼を「啼哭郎君《なきむしとのさま》」と呼んだ、などという話もある。  呉※[#「王+介」、unicode73A0]・呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の兄弟が勇名をとどろかせたのは、和尚原《わしょうげん》の大会戦であった。  宋の紹興元年、金の天会《てんかい》九年、西暦一一三一年。呉※[#「王+介」、unicode73A0]は三十九歳、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は三十歳という少壮である。この年、金の四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》は十万の大軍をひきい、秦嶺山脈をこえて四川の地に侵攻しようとした。  四川は長江《ちょうこう》の上流にある。この地を占拠して軍を再編成し、補給をととのえ、長江の流れにそって東進する。これは八百五十年前、晋《しん》が呉《ご》を滅ぼして天下を統一したときの戦略であった。  英気と闘志にみちた宗弼は、晋の壮大な戦略を再現し、一挙に宋を滅ぼして天下統一をなしとげるつもりである。 「金の四《スー》太《ター》子《ツ》」と聞けば、泣く子もだまる。だが四川の地理に精通した呉兄弟は怯《ひる》む色を見せなかった。 「金軍は、われわれに対して四つの点でまさっている。第一に騎兵が優秀であること。第二に兵士が堅忍《けんにん》不《ふ》抜《ばつ》であること。第三に甲冑《かっちゅう》の質がよいこと。第四に弓矢の性能がよいことだ。だが、それらの長所は同時に短所ともなる」  そして彼らは言い放った。 「おれたちが四川に在《あ》るかぎり、金軍に寸《すん》土《ど》も侵《おか》させはせぬ」  決意と自信に満ちて、呉兄弟は四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の襲来を待ち受けたのであった。だが、このとき、呉兄弟がひきいる兵は六千にすぎない。彼らはまだ若く、さほどの名声もなく、四川全土は四《スー》太《ター》子《ツ》の雷名《らいめい》に慄《ふる》えあがっていた。四川全土をあげて金に降伏しようという動きすらあったのだ。  十月。ついに戦いがはじまった。  金軍の先鋒は烏魯折合《オルチハ》、孛菫哈哩《ブキハリ》の二将軍であったが、宋軍が後退するのを見ると、勢いに乗って急進した。錯綜《さくそう》する山岳や峡谷を駆けぬけて宋軍に追いついたのだが、突如として後方に宋軍の別動隊が出現し、背後から雨のごとく矢をあびせかけた。あわてて金軍は引き返そうとしたが、狭い山道では自由に動けぬ。混乱するところへ、呉※[#「王+介」、unicode73A0]が馬を飛ばして山上から駆け下り、一刀のもとに孛菫哈哩《ブキハリ》を馬上から斬って落とした。烏魯折合《オルチハ》は逃げた。  敗報を受けて怒った四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は、自ら軍をひきいて和尚原に陣を私いた。四川攻略に関して、四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は充分に準備をととのえていた。河には浮梁《うきはし》をかけ、道には五里ごとに石塁を築いて警備と補給の中継点とした。この石づくりの塁《とりで》は、数百里にわたって、あたかも首飾りの珠《たま》のように連《つら》なったので、これを「連珠営《れんじゅえい》」と称した。黄天蕩《こうてんとう》で大敗した後、これだけの準備を短期間に成しとげた宗弼の力量は、非凡というしかない。 「いよいよ四《スー》太《ター》子《ツ》自身が来るか」  恐怖よりも、むしろこころよい緊張をもって、呉兄弟は出陣した。出陣したときには、勝利のためにすべての準備がととのっている。和尚原から秦嶺の山深くまで、あらゆる山、峡谷、道、川、森、断崖に罠《わな》がしかけられていたのだ。和尚原は高原状の土地だが、山が迫っており、十万の大軍を展開するにはやや狭い。  起伏に富んだ高原で、両軍は激突した。両軍の総帥たる宗弼と呉※[#「王+介」、unicode73A0]とが、たがいに槍をふるって一騎打におよび、撃ちあうこと三十合に達したが勝負がつかぬ。その間に呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]はたくみな指揮で戦いつつ軍を後退させた。兄弟は呼吸をあわせて金軍を高原から山間へと引きずりこんだ。逃げる宋軍を追撃して金軍が進んでいくと、樹木が生《お》いしげった険《けわ》しい山の上に数百の軍旗がたなびいている。  金軍は山麓《さんろく》を包囲し、持久戦の態勢をとる。だが山上の部隊は囮《おとり》だった。呉※[#「王+介」、unicode73A0]と呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は山中の間道《かんどう》を疾駆して金軍の後方にまわりこみ、日没寸前の時刻に補給部隊を襲って火矢を放ったのだ。初冬、乾燥した季節である。たちまち糧秣《りょうまつ》は燃えあがり、峡谷を吹きわたる強風にあおられて樹木にまで火がついた。風と炎の音がとどろき、夕闇の一角が深紅に染まって、金軍を驚倒させる。あわてて引き返すところへ、山上の部隊が逆《さか》落《お》としに攻めかかった。さらに各処の山や谷にひそんでいた伏兵がいっせいに起《た》ち、せまい山道にひしめく金兵めがけて矢と火矢の雨をあびせる。石を投げ落とす。火につつまれた金軍の人馬が、つぎつぎと断崖から谷底へ転落していくありさまは、おそろしくも異様な美しさであったという。必死に軍を統御しつつ宗弼は後退していった。  夕闇と炎が交錯するなかで、その姿を呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が見つけた。 「四《スー》太《ター》子《ツ》を討ちとれ! 奴を斃《たお》せば金賊はおのずと潰《つい》えるぞ」  そう叫ぶと、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は馬上で弓を引きしぼり、宗弼めがけて射《い》放《はな》した。矢は流星のように飛んで、宗弼の左腕に命中した。宗弼は大きくよろめいたが、落馬をこらえて馬を走らせた。馬は名馬|奔龍《ほんりゅう》である。けわしい山道を走ること平原を往《ゆ》くような速さであった。ついに呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は追いつけず、くやしさのあまり馬上で弓をへし折ったという。一年前の韓世忠につづいて、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]もまた歴史を変えそこねたのであった。  かろうじて戦場から脱出したものの、宗弼も意気消沈するほどの大敗であった。一夜にして戦死者は二万をこえ、峡谷に墜《お》ちたまま行方不明になった者も一万人に達した。黄天蕩につづく四《スー》太《ター》子《ツ》惨敗の記録がこうして生まれた。  これらの記録を見ると、宗弼の戦歴は敗北の連続であり、「どこが不世出《ふせいしゅつ》の名将か。負けてばかりではないか」とも思われる。だが、これらの戦いで、勝った者は韓世忠や呉※[#「王+介」、unicode73A0]など複数だが、負けたのは宗弼ひとりである。勝った者は、「あの四《スー》太《ター》子《ツ》に勝った」と名誉にした。弱い無能な敵に勝っても名誉にはならないのだ。  逆にいえば、岳飛、韓世忠ら宋の名将たちが寄ってたかって、宗弼ひとりと互角に戦っていた、ともいえるのである。東は長江の河口から西は黄《こう》河《が》上流まで、宗弼の行動範囲は両国の国境線すべてにおよび、距離にすれば数万里になるであろう。彼の力量を過小評価することは、とうていできない。  和尚原の戦いにおいて大勝利をおさめたことは、宋軍にとって大いなる自信となった。「天険《てんけん》に拠《よ》って堅く守れば金軍は恐るるにたりぬ」と兵士たちは思った。一年前の黄天蕩の会戦は、宋軍が水上戦で金軍より強いことを証明した。今度は山岳戦でも勝てることが証明されたのだ。 「四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は宋兵に追いつめられ、自分の髯《ひげ》を切り落として容貌を変え、かろうじて逃れた」という噂が流れ、宋の将兵は気分をよくした。この話は、後に『三国志演義』に取りいれられてさらに有名になった。ただし、自分の髯を切り落として逃げたのは馬超《ばしょう》に追われた曹操《そうそう》ということになっている。     二  なお生きていれば、呉※[#「王+介」、unicode73A0]はさらに多くの武勲をたて、威名をとどろかせたにちがいない。ところが四十代も半ばになって、呉※[#「王+介」、unicode73A0]はいちじるしく好色になり、成都の内外で美女を集めるいっぽう、あやしげな精力剤を飲むようになった。このため急速に健康を害し、大量に血を吐いて死んでしまった。紹興九年(西暦一一三九年)のことで、呉※[#「王+介」、unicode73A0]は四十七歳であった。  残念ながら詩的な最期とはいえないが、彼の早すぎる死は多くの人に惜しまれた。  呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の兄呉※[#「王+介」、unicode73A0]はかつて岳飛と親しく語りあい、意気投合した仲である。岳飛の惨死を知って、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]に怒りかつ慄然《りつぜん》とした。ついで韓世忠が宮廷を去った。劉《りゅうき》も杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》を追われた。あいつぐ兇報に、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は歯ぎしりして秦檜の専横《せんおう》をののしったが、彼ひとりではどうすることもできなかった。兄が岳飛より二年早く死んだのが惜しまれた。  かくして呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は自分の根拠地である四川地方にたてこもり、そこを動かぬようになった。四川を金軍が攻撃してくれば、智勇のかぎりをつくしてそれを撃退する。だが四川から出て戦うことはしない。また、宮廷から招かれても杭州臨安府には行かぬ。そう決めた。彼が高宗《こうそう》に謁見するのは秦檜の死後である。  呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]には、国を愛する心も朝廷を思う心もある。だが岳飛のような目にあうのはまっぴらであった。大軍を擁《よう》して四川にたてこもっていれば、無実の罪で虐殺されるようなことはないであろう。呉※[#「王+介」、unicode73A0]とともに、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は和尚原で金軍を撃滅した。それ以後、一度も敗れることなく四川を守りつづけ、生きながら武神として崇敬《すうけい》されている。  呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は行政家としてもすぐれており、古代の用水路を修復して広大な耕地を開き、民衆に喜ばれた。ただ剛勇を誇るだけの人物ではなかった。兵士も民衆も、彼のもとで安《やす》んじていられた。  呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の判断は正しかった。有力な武将をことごとく追放し、宮廷で専横をほしいままにする秦檜も、四川の地には指一本ふれることができなかった。呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]を屈伏させるためには、大軍をもって四川へ進攻せねばならぬ。だが四川は天然の要害であり、用兵の天才たる呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が地の利を生かして防御すれば、五年や十年は持ちこたえるであろう。まして、秦檜自身の手で岳飛を殺し、韓世忠を追放したいま、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]と互角に戦える武将など存在しないのだ。  さらには、四川を討つために宋軍が出動し、長江下流域が空《から》になれば、北方の金国が南下の野心に駆られるであろう。たしかに和約を結んではいるが、それが永遠のものでないことは万人《ばんにん》が知っている。長江は自然の偉大な防壁ではあるが、だからといって軍隊を配置せずにおけるものではない。  また、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が四川にこもって独立を宣言し金国と同盟を結んだりしたらどうなるか。四川は広大で豊かな土地であり、過去に幾度も独立国家が形成されている。しかも、長江の最上流に位置しているのだ。そこから呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が船団を編成して一気に長江を下ったとすれば、同時に金軍は長江を渡って攻めこむであろう。南宋は北と西の二方面から攻撃され、破滅するしかない。  むろん呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]はそこまでする気はなかった。彼はどこまでも「宋の呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]」として名を残したかったのだ。だが秦檜の魔手に対して、つねに対抗策を用意しておく必要があった。  抗州から遠く四千里(約二千二百キロ)をへだてながら、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は秦檜の正体を的確に見ぬいていた。岳飛の惨死が、彼に大いなる教訓を与えたのだ。秦檜に道理や正論は通用しない。そして秦檜は負ける|けんか《ヽヽヽ》は絶対にしない男だった。つまり秦檜と互角以上の力を持つ者だけが、誇りを失うことなく地位を保《たも》っていけるのである。  そして呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は自分をよく知っていた。用兵と統率において屈指の名将であり、四川全域を統治する能力もある。だが宮廷において秦檜と権謀《けんぼう》を競《きそ》う手腕はなかった。あの岳飛でさえ、秦檜の奸智の前には幼児のごとく無力であった。四川の天険と、万里の距離とが、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]を守ってくれるであろう。  そして十五年。この間、宋と金との間に和平は保たれたが、四川においては北方の守りが解かれることはなく、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は北方の空をにらんで年をかさねていったのである。かつて四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼を騎射の的《まと》とした少壮の勇将も、いまは初老となっていた。  梁紅玉の口から、金国へ潜入した事情を聞いて、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は感歎した。むろん梁紅玉は事情のすべてを語ったわけではなく、慎重に、話すべきことを選んだ。それでも呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の血を騒がせるには充分であった。 「ようもしでかされたものだ。わしも老いを歎《なげ》いてはおられぬ。女将軍に倣《なら》わせていただくとしよう。それにしても、靖康帝《せいこうのみかど》は何とおいたわしい……」  ひとしきり死者を悼《いた》んでから、表情が変わる。最前線に立つ武将の表情である。 「だが容易ならぬことだ。金主完顔亮《きんしゅかんがんりょう》はたしかに侵略の意思を持っておるのか」  呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]も、信頼できる諜者を金国に潜入させて、情報を収集している。地理的な条件から、金国の西部に関する情報が中心であった。遼《りょう》の残党や西《せい》夏《か》の動きについても調査している。その結果、帝国中枢部の統制力が弱まっていることは推測できた。小さい叛乱《はんらん》が続出し、金軍が出動しても根絶できずにいるのである。  金国内で何かがおこりつつある。それは確実であったが、金の朝廷内で具体的に何がおこっているか、知りようがなかった。その事情を子温たちは探ってきたのである。  金国内で大規模な馬の徴発がおこなわれていること、軍隊の動き、軍用道路の建設、それらを語った後、子温は、趙王完顔雍《ちょうおうかんがんよう》から教えられた詩句を紙に書いて呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]に示した。金主完顔亮の作である。 「兵を提《ひつさ》ぐ百万、西《せい》湖《こ》の上《ほとり》。馬を立つ、呉《ご》山《さん》の第一峰」  その詩句を見て、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は低くうめいた。あまりにも壮大な覇気の表現であり、あまりにも直截《ちょくせつ》な野心の表明であった。 「金主完顔亮は紙上にではなく地上に英雄の詩を書きたがっております。というより、そうせずにいられないのです」 「うむ、たしかに」  大きく息を吐きだす呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]だった。 「疑問の余地もない。金主はまちがいなく南征《なんせい》の軍を起《おこ》すだろう。問題は、それがいつかということだが、女将軍には何ぞ存念《ぞんねん》がおありか?」  問われて、考えつつ梁紅玉は答える。 「明年すぐにも、ということはございますまい。百万の軍を動かすまでには、二、三年の時《じ》日《じつ》が必要でしょう。まして遼の残党が大規模な叛乱をおこすとすれば、さらに一、二年はかかります。合計四年というあたりかと存じます」 「なるほど、わしもそう思う」  うなずく呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が嬉《うれ》しげに見えるのは、同じ時代を生きて戦いぬいた者どうしの紐帯《ちゅうたい》のゆえであろうか。母の傍で子温はそう思った。  ——それにしても、ただひたすら金国の滅亡を願うのであれば、むしろ趙王完顔雍をこそ殺すべきではなかったか。  その疑問が、子温の胸にわだかまっている。雍の人格に敬意をはらいつつも、そう思えてならないのだ。もし雍が帝位に即《つ》けば、金帝国は破滅の淵から立ちなおり、北方に揺るぎなき国《こく》威《い》をそびえたたせるのではないか。そうなれば、失われた領土を回復するという宋王朝の悲願は、永く実現しないであろう。完顔亮が暴走し、人の形をした狂風《きょうふう》となって金国内を荒れくるい、彼に取ってかわるべき者が誰もいない。そのような状態で金国が自壊していくことこそ、宋にとっては望ましいことではないか。  そう思いつつ、同時に子温は想いおこす。彼ら母子を助けてくれた黒蛮竜《こくばんりゅう》や阿《あ》計替《けいたい》の顔を。彼ら母子のために通行証を用意してくれた雍の顔を。秦嶺の山中で、その通行証を、子温たちは焼きすてた。 「無用のものになったら焼きすててくれ」  それが雍の出した唯一の条件であった。子温らが金兵にとらわれたら、むろん困ったことになる。また通行証が宋軍の手に渡ったら、それが偽造され、金国内で宋の諜者を横行させることになり、金国人である雍には耐えがたい。だから焼きすててほしいのだ。そう説明されて、子温は雍の思慮に感歎したのだった。彼らが秦嶺の山中で焼きすてたのはその通行証であり、その煙によって彼らの所在が呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の軍に発見されることになったのである……。 「四川はわしが守る。金兵の靴一足たりとも踏みこませはせぬよ」  力強く呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は約束した。四川を訪れた子温たちの目的は、これで果たされたといえる。もともと彼らが西まわりで帰国した理由はいくつかあった。東方国境からの逃亡者が増えて、そちらの警備が強化されたこと。来た道をそのまま帰るよりべつの路《みち》をたどるほうが、より広く金国内のようすを探れること。若き日の韓世忠が活躍した西方の風土を見たいと梁紅玉が望んだこと……。とりわけ、四川の呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]に会って金軍侵攻の可能性を話しておくことは、今後の対金戦略の立案《りつあん》に、きわめて大きな意味を持つものだったのである。  この年十二月二十九日、子温と梁紅玉は成都を離れた。有名な万里橋《ばんりきょう》のたもとから船に乗り、岷江《びんこう》を下って長江の本流にはいり、水路で抗州まで向かうのである。これがもっとも安全で、しかも速い旅の方法だった。  万里橋には三国時代の故事《こじ》がある。諸葛孔明は腹心の部下|費※[#「ころもへん+韋」、unicode8918]《ひき》が国使として呉《ご》へおもむくのを見送り、「万里の道、ここより始まる」と告げた。ただ距離が遠い、というだけではなく、費※[#「ころもへん+韋」、unicode8918]がおこなう外交交渉の困難を思いやってのことである。蜀漠は単独で魏に対抗することはできず、呉との同盟が成立しなければ国が滅びるのだ。悲壮な出立《たびだち》であったが、費※[#「ころもへん+韋」、unicode8918]は飄々《ひょうひょう》として笑顔で船に乗り、ついに同盟を成立させたといわれる。  成都の空は雲が低くたれこめ、微風は温かく湿っていた。何分《なにぶん》にも非公式のことなので、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は子温らを見送ることはしなかったが、四川を出るまで三名の部下をつけて護衛と案内をさせてくれることになった。厚意を謝しつつ、子温たちは船上の人となった。  あとは身を船にまかせて万里の長江を下るのみである。杭州に着くのは年が明けて二月ないし三月というところか。江南《こうなん》は春深く、花と緑のただなかにあるだろう。  ——今日は十二月二十九日か。  その日付には、子温の記憶を鋭く剌すものがあった。それは十五年前のことである。子温の父韓世忠の戦友である岳飛が無実の罪でとらえられ、二ヶ月にわたる拷問の末に殺されたのが十二月二十九日であった。     三  惨劇が生じたのは宋の紹興十一年(西暦一一四一年)冬のことである。  ときの丞相《じょうしょう》秦檜は最終的な決断を下した。金国と和平する、そのためにじゃまになる岳飛を殺す。  かなり皮肉な形で、和平は困難になりつつあった。岳飛、韓世忠らの奮戦によって、宋軍は各地で金軍を撃破し、勢いに乗っている。一方、金国では事実上の最高指導者である大《ター》太《ター》子《ツ》宗幹《そうかん》が急死して内紛が生じ、また遼の残党が大規模な叛乱をおこしていた。いまや金国のほうが和平を必要としていたのだ。機を逃せばずるずると戦争状態がつづくことになりかねない。  この時期、対金和平を成立させるためには、三大将帥の同意が絶対的に必要であった。張俊《ちょうしゅん》、韓世忠、そして岳飛の三名である。張俊は最初から和平に賛成であった。もともと盗賊あがりであった張俊は、戦争を利用して巨億の富を手中にし、これ以上戦う意欲を失っていた。韓世忠は、両宮《りょうきゅう》(徽《き》宗《そう》上皇と欽宗《きんそう》皇帝)および領土の返還が実現せぬかぎり、和平に反対であった。だが、高宗皇帝から「和平は予《よ》の意思である」といわれると、不満をおさえて和平に同意せざるをえなかった。和平が成立すれば、領土はともかく両宮は返されるであろう。  問題は最後のひとりである。岳飛は和平に対して徹底的に反対をつづけていた。彼は原則論者であったから和平に反対したのだが、鋭敏な感覚で、秦檜が推進する和平案にいかがわしさを感じてもいたのだ。いま和平を必要としているのは宋よりもむしろ金であり、金の指導部と密《ひそ》かに結託した秦檜自身ではないのか。  まだ三十代の岳飛が、韓世忠をすらしのぐ宋随一の名将として、どれほどの武勲をあげてきたか。例をあげれば際限がない。農民の家に生まれ、二十歳で義勇軍の隊長となった。徽宗や欽宗の御宇《みよ》には、もっぱら各地の賊徒を討伐して功績をあげた。金軍が侵入してくると、黒竜潭《こくりゅうたん》や※[#「堰のつくり+おおざと」、unicode90FE]城《えんじょう》などでかがやがしい勝利をあげた。洞庭《どうてい》湖《こ》で強大な勢力を誇っていた賊軍を、単独で滅ぼした。わずか八百の兵で五万の敵を撃破したこともある。深く金国の領土に進撃して、かつての首都|開封《かいほう》の近くにまで迫ったこともあった。彼のひきいる部隊「岳《がく》家《か》軍《ぐん》」は金軍に恐れられ、「山を憾《うご》かすは易《やす》し、岳家軍を憾かすは難《かた》し」とまでいわれたのである。  岳飛の字《あざな》が鵬挙《ほうきょ》というのも有名である。名は親からもらうものだが、字は成人の証《あかし》として自らつけるものである。「鵬挙」という字はあきらかに「飛」という名に対応するものであった。「飛びたつ鵬《おおとり》」と自称するところに、岳飛の強烈な自負《じふ》を見ることができる。  韓世忠の字は良臣《りょうしん》である。名の「忠」と字の「臣」とが対応しているが、直接すぎてあまり芸はないようだ。 『三国志』の登場人物でいえば、趙雲《ちょううん》の字は子竜《しりゅう》で、名の「雲」と字の「竜」とが対応している。諸葛|亮《りょう》の字を孔明というが、「亮」と「明」はともに「あきらか」という意味である。また随《ずい》の名将|薛世雄《せつせいゆう》は字が世英《せいえい》で、名と字とに共通の文字が使われていた。本名とまったく無関係の字はまず存在しないので、字を「表字《ひょうじ》」ともいう。兄弟順がわかるときもある。字に「伯」とついていれば長男で、「仲」とついていれば次男である。  岳飛の軍旗を見ただけで金軍が撤退するということも何度かあって、総帥である四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼を歯ぎしりさせたものであった。 「一に岳|爺爺《やや》、二に韓世忠」  とは、宋の将軍たちに対する金軍の評価だった。韓世忠は岳飛より十歳以上も年長であったが、岳飛の華麗な名声には一歩およばなかった。というより、誰も岳飛にはかなわなかったのだ。宋軍の諸将のなかで、岳飛はもっとも若く、もっとも才能に富み、もっとも雄弁で、もっとも実績があった。そのすべてが他の将軍たちにとっては不快の種であった。 「岳将軍はとにかく自信が強くてね。自分以外の将軍はみな無能だと思ってたんだよ」  梁紅玉でさえ苦笑まじりにそう評するほどであった。同僚の将軍たちのなかで、岳飛に好意的だったのは、韓世忠と呉※[#「王+介」、unicode73A0]ぐらいのものである。岳飛が無実の罪で殺されたとき、韓世忠は激しく秦檜に抗議して宮廷を去った。呉※[#「王+介」、unicode73A0]はすでに死去し、その弟呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は遠く数千里をへだてた四川の北方で金軍と対《たい》峙《じ》しており、動くに動けなかった。  岳飛は詩や文章でも一流で、いくつもの詩が後世まで遺されている。 「たいしたものだ。岳鵬挙は詩もつくるし上奏文まで書ける」  韓世忠は感心したものだ。彼はまったく文字が読めないというわけではないが、無学にはちがいない。詩を詠《よ》むとか上奏文を書くとかいった「知的な」行為とは無縁であった。さらに岳飛は書《しょ》でもすぐれており、諸葛孔明の「出師表《すいしのひょう》」を書写したものが有名である。 「でも、すなおに岳鵬挙どのの学識に感心したのは、お前の阿爺《とうちゃん》ぐらいのものだったねえ。他の人はむしろ反感を待ったよ」  梁紅玉は説明する。たとえば張俊のような無学者から見ると、岳飛の態度は学識を鼻にかけて同僚の将軍たちをあなどっているようにしか見えない。いっぽう秦檜のような科《か》挙《きょ》出身の知識人から見ると、岳飛の学問などたかの知れたもので、あのていどで何を自慢しているのか、ということになるのだ。かくして、知識人の秦檜と無学者の張俊とが、岳飛に対する反感という一点で結びつくようになる。  これは張俊にしてみれば、丞相と枢密《すうみつ》使《し》との対等の同盟である。だが秦檜は張俊ごとき下《げ》僕《ぼく》としか思っていない。張俊は秦檜に踊らされ、岳飛を罪におとそうと暗躍をはじめる。そのことに岳飛は気づかない。 「どうして気がつかなかったのだろう? 岳将軍は頭脳《あたま》のいい人だったのに」  少年のころ、不思議に思って子温が問うと、吐息まじりに梁紅玉は答えた。 「そう、頭脳のいい人だったさ。でも、ちょっと自信の強すぎる人でね。自分は正しいことをしているのだから、当然それにふさわしい待遇を受けると思っておいでだったのさ」  岳飛は部下や民衆からは愛されたが、上官や同僚からは嫌われた。才能と自信と実績と、三つを兼《か》ねそなえた岳飛は、それだけでも嫉《しっ》視《し》される存在だったが、彼は意に介《かい》しなかった。岳飛の部下たちには有能な者が多かったが、いずれも岳飛を神のごとく崇拝していたので、忠告する者もいなかった。  昇進して清遠軍《せいえんぐん》節《せつ》度使《どし》になったとき岳飛は自慢した。 「三十二歳の若さで節度使になったのは、太《たい》祖《そ》皇帝と私ぐらいのものだろう」  この発言はまずかった。太祖皇帝とは、宋王朝を開いた趙匡胤《ちょうきょいん》のことである。武勇にすぐれ、度量の広い趙匡胤は、後周《こうしゅう》という王朝につかえて武勲をかさね、三十二歳で節度使に出世した。さらに後周の皇帝が没して幼少の皇太子が即位すると、平和|裡《り》に譲位を受けて皇帝となり、宋王朝を開くのである。彼は旧王朝の皇族たちを大貴族として厚遇し、礼儀を守った。だがとにかく一武将の身から帝位を手にいれた成りあがりであるにはちがいない。 「岳飛め! 自分をおそれおおくも太祖皇帝と同列に論じるとは、増長にもほどがある。あるいは太祖に倣《なら》い、一武将から皇帝となるつもりか。宋朝を簒《うば》う気か」  そう疑われたのだ。本気で疑わない者に対しては口実を与えることになった。  その後、朝廷が将軍たちの傭兵《ようへい》集団を解体して官軍を再編し、かわりに思いきって彼らに高い地位を与えることになった。盗賊あがりの張俊と韓世忠とが枢密使となったが、岳飛は枢密副使にとどまった。まだ若すぎるというのが理由だったが、実力随一を自負する岳飛には、これも不満の種となった。     四  宋の有力な将帥たちのなかで、最初に兵権を投げだしたのは劉光世《りゅうこうせい》である。自分の軍を朝廷に差しだし、巨億の資産を手にした彼は、それをかかえて安楽な引退生活にはいった。本人はそれでめでたく幸福になったが、朝廷としては事後処理の必要がある。  このとき劉光世の部隊四万人は、岳飛の指揮下におかれる予定だった。それだけ岳飛の将才が評価されていたわけだが、その予定を主戦派の文官である張浚《ちょうしゅん》は変更した。たるみきっている劉光世の部隊も、岳飛のもとでは軍律ただしい精強な軍隊に一変するであろう。それはけっこうなことに見えるが、べつの解釈をすれば、岳飛という一個人が合計十万に近い精鋭の武装集団を擁することになるのだ。韓世忠ら他の将帥たちと比較しても、その戦力は突出したものとなる。張浚は主戦派であったが、宋の文官らしく、武将たちを一段下に見ていた。彼らの力を均衡させて、たくみに統御していくつもりだったのである。  このことに、むろん岳飛は不満であった。しかも、どういう心理であったか、張浚は、劉光世の部隊の指揮権を誰にゆだねるか、岳飛に質問したのである。張浚が挙《あ》げた候補者は、張俊、王徳《おうとく》、呂《りょ》祉《し》、※[#「麗+おおざと」、unicode9148]瓊《れきけい》、楊折中《ようきちゅう》といった将軍たちであった。そのすべてを岳飛は否定した。あいつは無能、そいつは粗暴、こいつは人望がない、という具合である。ついに張浚は腹をたてた。 「岳将軍、卿《けい》の本心はよくわかった。要するに、どうあっても劉|平叔《へいしゅく》(劉光世)の部隊を自分に引き渡せ、というのだな」  岳飛も屹《きっ》として張浚をにらみ返した。 「それがしは求められて意見を申しあげただけでござる。それをけしからぬとおっしゃるのであれば、もはや何も申しあげることはござらぬ」  張浚も岳飛も主戦派だが、だからといって妥協も譲歩もしない。たがいに自分の正しさを信じ、相手が自分に同調すべきだと思っている。両者は決裂し、岳飛は官位を返上して故郷へ帰ってしまった。 「また岳将軍が|かって《ヽヽヽ》なことを。あの男は、自分の意見が容《い》れられないと、すぐにすねる。しかたない、機《おり》を見て呼びもどそう」  張浚はそういって舌打ちしたが、それなどむしろ好意的な意見で、秦檜などは冷然として、腹心の万《ばん》俟《き》禽《せつ》に語ったものである。 「岳飛めは官を棄《す》てたそうだ。よろしい。永遠に官を棄てたままにしておけるよう、とりはからってやるとしよう」  秦檜は、すでに突破口を開いていた。岳飛がひきいる、いわゆる「岳家軍」の内部に不満分子がいたのだ。王《おう》貴《き》、王俊《おうしゅん》という二名の将軍で、彼らは同僚の張憲《ちょうけん》とたいそう仲が悪かった。張憲は岳飛の信頼がもっとも厚い人物である。秦檜は彼らに買収と脅迫の手を仲ばした。二名のうち王俊は、むしろ進んで買収に応じ、陰謀に加担した。かつて軍律を破って掠奪《りゃくだつ》をおこない、岳飛から厳罰を受けたという恨みがあったのだ。王貴のほうは一度は拒否したが、「では岳飛に連《れん》座《ざ》させ一族すべて流刑に処するぞ」といわれ、ついに屈した。  かくして罠《わな》が完成する。王俊と王貴は、秦檜に訴状《そじょう》を提出した。「岳飛および張憲に叛意あり」という内容である。「言論によって士《し》大《たい》夫《ふ》を殺さず」というのが宋の国《こく》是《ぜ》であるから、丞相に反対したというだけで死刑にはできない。だが叛逆をたくらんだということになれば死刑にできるのだ。秦檜は二千名の兵を廬《ろ》山《ざん》に派遣し、岳飛の山荘を包囲した。  こうして岳飛は逮捕された。  縄をかけられたとき、岳飛は逃亡も抵抗も試《こころ》みなかった。法廷で堂々と弁明し、自らの無実を証明するつもりであったのだ。りっぱな態度であったが、じつは甘かった。彼は最初から無実の罪で殺されることに決まっていたのだ。  同時に張憲も逮捕された。張俊は口実をもうけて張憲を枢密府に呼びよせ、問答無用で彼に縄をかけたのである。  このとき張俊は、岳飛の養子である岳雲《がくうん》をも逮捕した。とっさの処置であったが、これは秦檜を喜ばせた。岳雲は二十三歳の弱年《じゃくねん》ながら勇猛で用兵に長じ、気性の烈《はげ》しさば養父をすらしのぐほどである。養父が不当逮捕されたことを知れば、敢然として岳家軍五万三千をひきい、秦檜を討つべく起兵するにちがいなかった。秦檜は三人をまとめて大《だい》理寺《りじ》(最高検察機関)の獄《ごく》に送り、審問《しんもん》を万俟禽の手にゆだねた。  裁判の名を借りた拷問が開始された。いかに岳飛らが主張しようとも、聞く耳を持つ者はいなかった。最初から有罪は決まっているのだ。  縛られ、鞭《むち》うたれながらも岳飛は不屈だった。ただ自分の無実を主張するだけではない。自分以外の将軍たちをことごとく無能と決めつけ、「金軍と戦って勝てるのはおれだけだ」と叫んだ。韓世忠や劉でさえ自分に比べれば志《こころざし》が低い、と断言したのだから、たしかに岳飛は自信過剰な男だった。 「白状しろ、白状せぬか」  万俟禽にも焦《あせ》りがある。ここまできて岳飛の自白を得ることができなければ、万俟禽のほうが秦檜の不興をこうむり、失脚する恐れがあった。彼の嗜虐《しぎゃく》癖を満足させるだけでなく、保身のためにも自白させねばならぬ。  かくして拷問は凄惨《せいさん》をきわめた。すでに岳飛の全身は棍棒《こんぼう》と鞭で乱打されて、皮膚は裂け、肉はほころび、骨が見えるほどであった。その血まみれの身体を天井から吊《つ》るして、さらに鞭うつ。針を突き刺す。傷口に塩水をかける。天井から吊るした綱をねじり、弱りきった身体を激しく回転させ、さらに内臓をねらって角棒でなぐる。胃壁が裂け、岳飛は血を吐いた。その頸《くび》に革紐《かわひも》をかけ、窒息寸前まで絞《し》めあげる。赤く灼熱《しゃくねつ》した石炭を足の甲《こう》にかけると、肉の焼ける臭気が室内にたちこめ、獄《ごく》吏《り》も顔をそむけた。  これほどの拷問にも、岳飛は屈しない。もはや呼吸も鼓動も弱まり、歯をくだかれてまともに声を出せなくなっても、なお、主張してやまなかった。 「自分は無実である。不軌《むほん》などたくらんだことはない」  ただ痛めつけるだけでは能がない、と考えた万俟禽は、岳飛の右手だけを自由にし、筆、紙、墨、硯《すずり》を与えた。自分の手で自白書を記せば拷問をやめてやる、というのである。黙然と筆をとった岳飛は、墨痕《ぼっこん》あざやかに、八つの文字を紙上に書きつらねた。   天日昭昭《てんじつしょうしょう》 天日昭昭  太陽が明らかに地上を照らすがごとく、自分の無実は明らかである。そう書くと、筆を投じ、毅《き》然《ぜん》として万俟禽をにらみすえた。 「おのれ、どこまでも生意気な!」  歯ぎしりした万俟禽は、自分が考案した桔槹刑《きつこうけい》に岳飛をかけた。言語を絶する苦痛にさいなまれ、血と胃液を吐いて岳飛は昏絶《こんぜつ》する。医者に治療させてから、ふたたび桔槹刑にかける。十一月にはいり、十二月が来た。ありとあらゆる拷問の方法を使って、万俟禽はなお岳飛ら三名を自白させることができなかった。 「岳飛ら三名を逮捕して、すでに二ヶ月がすぎた。いまだに三名とも自白せず、罪を認めぬとはどういうわけだ」  秦檜に呼ばれて、ひややかにそう問われても、万俟禽は恐縮するばかりである。 「埓《らち》があかんな」  平伏する万俟禽に目もくれず、秦檜はつぶやいた。万俟禽の無能さに、秦檜は失望している。岳飛は最初から無実なのだ。頑迷なほどに誇り高い岳飛が、拷問に屈していつわりの自白をするはずがない。岳飛の告白文を、万俟禽が書けばすむのに、なぜそれに気づかぬのか。  ——すでに罪をでっちあげたのだ。自白もでっちあげればすむことではないか。迂《う》遠《えん》な。そんなことだから、私より何歳も年長のくせに、後輩に顎《あご》で使われるのだ。この一件が終わったら、この男に用はないな。  冷厳な判断を秦檜は下した。  秦檜は陰気な表情で自邸の書斎にすわっていた。屋外にひろがる灰色の冬空を映《うつ》したかのような顔色であった。このとき彼が放心の目をむけていたのは東むきの窓であった、ということまで史書には記されている。  彼の妻がはいってきた。侍女が三名したがっていた。ふたりは書斎の中央の床に火炉《ひばち》をおき、ひとりは卓上に盆をおいた。盆の上には柑子《みかん》が山のように盛られている。  無言のままに秦檜は柑子をひとつ手にとった。皮をむく手つきが、老病の人のようにおぼつかない。皮をむき終えて袋をつまんだが、指先の力を制御できず、そのままひねりつぶしてしまった。とびだした柑子の汁が秦檜の指を濡らし、袍《ほう》を汚した。  侍女たちが退出した後、秦檜の妻|王《おう》氏《し》は表情をあらためて夫に尋ねた。 「貴男《あなた》らしくもない、何を憂えておられるのです。よければ妾《わたくし》に話して下さいましな」 「岳飛めのことだ。奴をどうしようかと思ってな」  素直に秦檜は答えた。彼ら夫婦は、かつて金軍に一時とらえられ、帰国するまで労苦をともにした。秦檜は妻の才智を評価していたらしい。夫の言葉にうなずくと、王氏は火筋《ひばし》を手にとり、火炉の灰に六つの文字を書いた。   捉虎易縦虎難  虎《とら》を捉《とら》うるは易《やす》く、虎を縦《はな》つは難《かた》し。  うむ、と、秦檜はうなった。 「岳飛は虎のように危険な人物です。彼を解放して自由の身にすれば、何をしでかすか知れません。つかまえた虎は殺してしまうべきです」  王氏はそう夫に忠告したのである。たしかに、いまさら岳飛を釈放したり流罪ですませたりすることはできぬ。結論はひとつしかないのだった。 「よく申してくれた。心の氷が溶けたような想いだ。善は急げ、すぐに実行するとしよう」  その場で秦檜は机にむかい、万俟禽への密書をしたためた。     五  その日、紹興十一年十二月二十九日。  秦檜からの密書を受けて、万俟禽は狂喜した。ついに岳飛を殺せるのだ。これまでは、自白を得るために生かしておくよう命じられていた。だが、ついに丞相は万俟禽に岳飛を殺すよう命じてきたのである。  屈強な処刑人の一群をひきいて、万俟禽は岳飛の前に立つ。血にまみれた瀕死の男は、壁を背にして坐したまま、動く力もない。 「逆賊岳飛よ、きさまが私とはじめて会ったときのことを憶《おぼ》えておるか」 「…………」 「もう十年も往古《むかし》になるかな。私は提点《ていてん》湖《こ》北刑獄《ほくけいごく》の職にあった。きさまは部隊をひきいて私の任地を通過していった……」  万俟禽の両眼に脂《あぶら》っぽい光が浮かび、唇の両端が吊りあがって兇々《まがまが》しい半月形をつくる。 「きさまはあのとき私にきちんと礼をしなかったな」 「…………」 「たかだか兵卒あがりの一士官の分際《ぶんざい》で、朝廷の高官たる私に、きちんと礼をしなかったな。その罪をいま思い知らせてくれるぞ。正義がかならず勝つということを教えてやる!」  万俟禽が手を振ると、屈強の処刑人が四人、衰弱しきった岳飛の身体を引きずりおこした。太い紐《ひも》を頸《くび》に巻きつける。 「ゆっくりゆっくり絞めあげろ。罪にふさわしい苦痛を味あわせてやるのだ」  舌なめずりしながら万俟禽は命じたが、彼の熱い期待はかなえられなかった。衰弱しきった岳飛は、頸に紐を巻きつけられたとき、すでに息絶えていたようであった。享年三十九である。  岳雲と張憲とは、血まみれの身体に縄をかけられ、市場に引きずり出されて斬首された。無念の形相を並べたふたつの首は、そのまま市に曝《さら》され、身体は野に棄《す》てられた。  惨劇のしめくくりは秦檜の上奏である。彼はうやうやしく高宗に告げた。 「逆賊岳飛めは罪を逃れぬところと覚悟し、獄中で自《じ》縊《い》いたしました。岳雲と張憲も自白いたしましたので、ただちに処刑をすませてございます」  高宗は無表情にうなずいただけである。この無表情は、秦檜に対する高宗の自己防御法であったかもしれない。岳飛の一族をことごとく南方の辺境に流刑に処する、と告げられたときも、高宗はただ無言でうなずいた。  岳飛の軍旗には「精忠《せいちゅう》岳飛」の四文字が記されていた。筆をふるってその四文字を書いたのは高宗である。岳飛の将才に幾度となく救われながら、高宗は彼を見殺しにした。軍旗を下賜《かし》されたときの岳飛の感激ぶりを想いおこすと、高宗の胸の一部がさすがに痛むのだった。  年が明けてすぐ、韓世忠は梁紅玉や幕僚たちとともに前線から杭州臨安府へと駆けもどってきた。岳飛逮捕の報がようやく彼のもとへとどいたのである。おどろいた韓世忠は、「岳鵬挙《がくほうきょ》が不軌《むほん》などたくらむはずがない。おれが弁護する」と叫んで、馬に飛び乗ったのであった。そして臨安府に入城し、岳飛の邸第《やしき》に向かったところ、封鎖されて近よることもできぬ。韓世忠自身の邸第にもどると、岳飛がすでに殺されたことを、家《か》僕《ぼく》たちが告げた。呆然《ぼうぜん》の数瞬がすぎると、激情に駆られた韓世忠は丞相府に乗りこもうとした。 「なりません。丞相府へ行けば殺されますぞ」  慎重な解元《かいげん》が制止した。丞相府にはいる者は剣を帯びることを禁じられている。秦檜は丞相府内に完全武装の刺《し》客《かく》を数十人も配置しているかもしれぬ。いかに韓世忠が「万人の敵」であっても、白手《すで》では対抗しようもない。 「では、それがしが兵をひきいて丞相府の門外で待機し、事あったときには韓元帥をお救い申そう」  太い腕をさすったのは猛将|成閔《せいびん》である。解元がめずらしく大声で一喝《いっかつ》した。 「軽々しいことを口にするな。韓元帥を逆賊にするつもりか!」  成閔が反論できずに黙りこむと、解元は必死に韓世忠を説得した。 「いまは自重《じちょう》が肝要《かんよう》かと存じます。丞相は奸悪《かんあく》にして恥を知らぬ者なれば、目的のためにいかなる非道をもなすでありましょう。まして今回の件は、張枢密《ちょうすうみつ》(枢密使張俊)が深く関与しておりますれば、宋軍が分裂して相《あい》撃《う》つの恐れさえございます。どうかご自重を」  血を噴くような瞳で宙をにらんでいた韓世忠は、ゆっくりと頭《かぶり》を振った。 「おぬしの言には万金《ばんきん》の値がある。だが、ここで無実の者のために抗議ひとつできなかったら、韓世忠という人物には銅銭一枚の価値もないのだ。おれは丞相府へ行く。とめるな」 「とめませんよ、お行きなさい、良臣どの」  静かな声は梁紅玉のものだった。彼女の傍で、息をのんで父親を見あげているのは、十五歳になったばかりの長男|韓彦直《かんげんちょく》、字は子温である。初陣して三年めを迎えていた。  韓世忠が丞相府に姿をあらわしたとき、秦檜は巧言《こうげん》をもって彼を丸めこむつもりであった。無学者の韓世忠が何を血迷って抗議になど来たか。そう思っていた秦檜だが、対面するとたじろいでしまう。圧倒的な迫力で、韓世忠は正面から丞相を詰問し、ゆるぎもしない。岳飛が不軌《むほん》を謀《はか》ったという証拠を示せ。ひたすらそういう。秦檜は何度も話をそらそうとしたが、韓世忠はごまかされない。ついに追いつめられた秦檜は、低い声を押しだすように答えた。 「……莫《ばく》須《す》有《ゆう》」 「莫須有!?」  韓世忠は唖然《あぜん》とした。莫須有とは、「全然なかったとは断言できない。もしかしたらあったかもしれない」というていどの意味である。もともと物証があるはずはない。自白も得られなかった。公然と処刑することができなかったから、岳飛を獄中で密殺《みっさつ》したのである。 「証拠もなく自白もないのに、丞相は岳鵬挙を殺したとおっしゃるのか!?」 「…………」 「莫須有のただ三字をもって、丞相は有《ゆう》為《い》の人材を証拠なしに処刑なさりしか! それで天下の人々が納得するとお思いか!」  韓世忠のたくましい拳《こぶし》が慄える。誰にも信じられないことであったが、秦檜の顔に、恐怖の影がひらめいた。だがそれは一瞬で消え、表情と姿勢をあらためた秦檜は大声で叫んだ。 「韓元帥は上《しょう》の御《ぎょ》意《い》に異論がおありか!」  韓世忠の表情が一変した。高宗皇帝の名を出されては、彼はまったく身動きがとれなくなる。岳飛は「陛下が金賊との和平を考えておいでなら、陛下はまちがっておられる」と言い放つことができる男だった。韓世忠にはそれはできなかった。しばらく秦檜をにらみつけていたが、やがてたくましい肩が落ちた。無言で彼は丞相府を去り、数日のうちに宮廷をも去って、ついに帰らなかった。もはや彼のいるべき席は、宮廷にはなかったのだ。 「莫《ばく》須《す》有《ゆう》、千古の冤罪《えんざい》」  と、中国の歴史書、小説、戯曲などに題される事件がこれである。  こうして紹興十二年、宋金両国間に和平条約が結ばれた。淮《わい》河《が》をもって両国の境界とし、宋は毎年、金に対して銀二十五万両と絹二十五万匹を支払う。さらに宋の天子は金の天子に対して「臣」と称する。屈辱的な不平等条約であった。だがとにかく平和がもたらされ、宋は経済と文化の発展にむけて歩みはじめる。  平和ほど庶民にとってありがたいものはない。だが庶民にとっても、岳飛の死は傷《いた》ましかった。岳飛は不敗の名将であり、軍律は厳しく、たとえば張俊や劉光世の軍のように自国民から掠奪することを厳禁した。それだけでも岳飛は賞賛されるべきであった。庶民は声をひそめて、岳飛の武勲をほめたたえ、一方で権勢をほしいままにする秦檜をののしった。  ——両国の和約は私が成立させた。この平和と繁栄は私の功績だ。  秦檜はそう自負していたが、彼に対して感謝する庶民は、おそらくひとりもいなかったであろう。庶民が感謝した相手は岳飛であった。岳飛が侵略者に対して善戦し、ついには無実の罪を負《お》って死んだからこそ、和平が成ったのだ。南宋の恩人は秦檜ではなく岳飛である、ということを、民衆は感じていた。生前の岳飛をきらっていた士《し》大《たい》夫《ふ》たちも知っていた。否、秦檜自身も知っていた。だからこそ秦檜は、「文《もん》字《じ》の獄《ごく》」をおこし、言論弾圧に狂奔《きょうほん》する。事件に関連した公文書をすべて焼きすて、わが子である秦《しん》※[#「火+喜、unicode71BA]《き》に国史を編纂《へんさん》させた。自分につごうよく歴史を改竄《かいざん》するためである。さらに民間で歴史書を編《あ》むことを禁止し、反対派の主要人物を流刑に処した。  一方で、秦檜を弁護して、つぎのような主張をすることも可能である。 「秦檜の政策によって、南宋は平和と繁栄を手にいれることができた。その功績に比べれば、無実の人間に汚名を着せて殺すぐらい、ささいなことではないか。無知な民衆に憎まれる秦檜こそ被害者というべきだ」  ただし、この論法は、秦檜自身でさえ公言したことがない。詭《き》弁《べん》にも限界があるということであろう。  秦檜の共犯者となった張俊のその後はどうであったろうか。兵権を返上して宮廷貴族となって以来、張俊の生活は豪奢《ごうしゃ》をきわめた。紹興二十一年(西暦一一五一年)に高宗皇帝を自宅に招いて盛大な宴会をおこなっている。これは「張王府《ちょうおうふ》の宴」として有名で、このときの菜単《メニュー》が八百年後まで完全に残っている。それによると、前菜だけで七十二種類にのぼり、休憩時間をはさんで「再《さい》座《ざ》」となる。あらためて六十八種類の軽食や果実、菓子が出され、ついで酒が出される。下酒《さかな》が三十種類。それからようやく飯が出されて下飯《おかず》がまた数十種……。  その間に音楽や演芸がもよおされ、二百人以上の客はすっかり満腹したという。この宴会の菜単《メニュー》を文化史の研究素材とした学者もいるほどである。  張俊の一族は、べつに天罰を受けることもなく、代々、巨億の富を相続して栄華をきわめた。張俊の曾《ひ》孫《まご》にあたる張磁《ちょうじ》は詩集や随筆をあらわし、風流な文人として知られる。ところがやはりただの風流人ではなかった。  韓侘冑《かんたくちゅう》という宰相が専横をきわめ、外交政策での失敗も多かったので、史弥《しび》遠《えん》という人が陰謀をめぐらし、韓侘冑を暗殺した。そして今度は史弥遠が宰相となって権勢をふるうことになるのだが、最初、史弥遠は韓侘冑を殺すつもりはなかった。宮廷から追放してすませるつもりだったのである。ところが、陰謀に参画《さんかく》した張磁は、平然として主張した。 「あとくされがないよう、宰相を殺しておしまいなさい。理由はどうとでもつけられます。生かしておいたら、いつか報復されますぞ」  結局、史弥遠は韓侘冑を暗殺した。事は成功したわけだが、史弥遠は、張磁が気味わるくなった。 「考えてみれば、張磁《やつ》の曾祖父《ひいじいさん》は岳飛を無実の罪で殺した一味だ。反対派を平気で殺すというのは、張家のお家芸というわけだ。あんな奴を近づけたら、今度は私がやられてしまうぞ」  そして史弥遠は張磁を宮廷から追放してしまった……。  後世、岳飛は名誉を回復され、外敵の侵略に抵抗した民族の英雄として賛美された。抗州にも岳王廟《がくおうびょう》が建てられ、神として崇敬《すうけい》されるようになる。そして岳王廟には鎖《くさり》で縛られた「四《し》賊《ぞく》」の銅像が置かれた。岳飛の殺害にかかわった秦檜、その妻王氏、万俟禽、そして張俊の四人である。彼らは、生前の権勢と富《ふう》貴《き》とを、死後は千年にもおよぼうかという永い汚辱に変えることになった。彼らは誰かを怨《うら》むべきなのだろうか。  ……子温と梁紅玉は、新年を江上で迎えた。宋の紹興二十七年、金の正隆《せいりゅう》二年、西暦一一五七年である。 [#改ページ] 第八章 前夜     一  子《し》温《おん》と梁紅玉《りょうこうぎょく》が杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》の土を踏んだのは、宋《そう》の紹興《しょうこう》二十七年三月のことである。出発から一年有余を経《へ》て、彼らは無事に帰ってきたのであった。  四《し》川《せん》から江南《こうなん》へ、満々たる長江《ちょうこう》を下る船旅は、春色《しゅんしょく》を帯びて長閑《のどか》であった。つねに薄曇《うすぐもり》の四川盆地をすぎて三峡《さんきょう》を通過する。河幅はせばまり、左右には断崖《だんがい》がせまり、水流も気流もともに速まって、飛ぶように疾《はし》る船の上空で雲が渦まき、風が咆《ほ》える。断崖の上は松や柏の密林で、鳥や猿《ましら》の鳴声が絶えない。三峡をすぎると、ふたたび流れは広くゆるやかになって、湖《こ》北《ほく》の平野にはいる。  子温たちより二十年ほど後に、官僚であり文人である范成大《はんせいだい》という人が、船で長江を下り、克明《こくめい》で風趣《ふうしゅ》ゆたかな旅の記録を残した。これが有名な『呉《ご》船録《せんろく》』である。  旅のちょうど中間、洞庭《どうてい》湖《こ》の近くで、子温たちは一度、船をおりた。西《せい》湖《こ》に劣らぬ美しさを誇るこの湖では、二十年ほど前に岳《がく》飛《ひ》が強大な湖《こ》賊《ぞく》を滅ぼしている。そのすぐ近くに、梁紅玉の旧知である劉《りゅうき》がいた。 「儒将《じゅしょう》の風《ふう》有《あ》り」と、『宋史・劉伝』には記されている。儒将とは、武将でありながら儒学《じゅがく》をはじめとした学問を修《おさ》めた人のことである。知性と品格を感じさせる人物で、劉はあったようだ。  梁紅玉の訪問を受けると、一瞬の当惑につづいて、劉の老顔が再会の喜びにかがやいた。 「おう、韓《かん》家《か》軍《ぐん》の女将軍《じょしょうぐん》ではござらぬか。何とおめずらしい。ご息災《そくさい》でいられたか」  老人とは思えぬ朗々たる大声である。「声は哄鐘《こうしょう》のごとし」と伝に記されているほど、劉の声は有名だった。彼はもう十年以上も荊南《けいなん》節《せつ》度使《どし》の職にあり、兵士からも民衆からも敬愛されていた。いわゆる「抗金名将《こうきんのめいしょう》」のうち、今日なお健在なのは、四川の呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》と荊南の劉、この二名だけであった。 「劉三相公《りゅうさんしょうこう》もお元気で」  梁紅玉の顔にもなつかしさがあふれる。 「劉三相公」とは老雄劉に対する敬称である。紹興二十七年にちょうど六十歳だから、韓世忠《かんせいちゅう》より九歳若いことになる。梁紅玉と同年である。劉は少年のころから父にしたがって従軍し、強弓《ごうきゅう》をもって世に知られた。西北方面の防衛にしたがい、若くして辺境に勇名をとどろかせ、西《せい》夏《か》軍に恐れられた。  金軍との戦いにおいても、鉄騎隊をひきいてかずかずの武勲をあげた。順昌《じゅんしょう》城を守っていたとき、金の大軍に攻撃されたが、わざと城門を開いて静まりかえっていたので、金軍は伏兵の存在を疑い、戦わずして撤退した。胆略《たんりゃく》ともにそなえた勇将だったのである。  また東村《とうそん》という場所に金軍が陣営をかまえたとき、後世に伝わる果敢な夜襲をかけた。その夜、天候が不安定で夜空には雷光がひらめいていた。劉はえりすぐった勇士百人をひきいて金軍の陣営に斬りこんだのである。劉の統率は完璧であった。雷光がひらめき、雷鳴がとどろくなか、劉たちは五百余人の金兵を斬り、味方はひとりの死者も出さずに引きあげたのだ。  劉の巧妙果敢な戦術によって、金軍の南下速度は鈍ってしまった。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》が自ら乗りだして劉に決戦を挑んだ。このとき、劉のたてこもる順昌城を遠くから眺めて、四《スー》太《ター》子《ツ》は豪語したのである。 「あんな城など、おれの靴尖《つまさき》で蹴とばしてくれる」  こうして紹興十年(西暦一一三〇年)の夏、劉は小さな城にたてこもって二十万の金軍を防ぎつづけ、洪水や暴風雨にも耐えぬいた。ついに宗弼は攻略を断念して去ったのである。 「神《しん》機《き》武略《ぶりゃく》」とまで称された劉だが、仲の悪い盗賊あがりの張俊《ちょうしゅん》に讒言《ざんげん》され、秦檜《しんかい》の手で左遷されてしまう。むしろ、それは劉の人格にとって名誉なことであった。  ただ、なぜか四川の呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は劉の将才をあまり高く評価していなかったようで、『宋史・呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]伝』につぎのような発言が記録されている。 「信叔《しんしゅく》は雅量《がりょう》ありて英慨《えいがい》なし」  信叔とは劉の字《あざな》である。劉は寛大で度量の広いりっぱな人物だが、英雄としての強い気力に欠ける、というのである。この評価は歴史家にとっても意外なようで、『宋史』は、「嵩其然乎《あにそれしからんか》(はたしてそうだろうか)」と疑問を投げかけている。ただひとつ理由として考えられるのは、秦檜の専横《せんおう》に対する劉の対応である。岳飛は秦檜に反対して殺され、韓世忠もまた宮廷を去った。劉は秦檜に抵抗することなく、おとなしく荊南節度使となった。なぜ秦檜に抵抗しなかったのか、と、気性の烈《はげ》しい呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は歯ぎしりし、劉のおとなしさに飽《あ》きたらなかったのであろうと思われる。だがそれでも、「劉三相公」と敬愛される為人《ひととなり》は、高く評価されていることがわかる。  劉に対しても子温らは金国の事情を説明し、完顔亮《かんがんりょう》の大侵攻に対しての心がまえを求めた。劉はうなずき、自信をこめて穏やかに笑ってみせた。 「けっこうだ、おそらく儂《わし》にとって生涯最後の戦いになるじゃろうて」  子温たちは劉と別れてさらに旅をつづけ、建康《けんこう》府《ふ》で次男の韓彦質《かんげんしつ》、三男の韓彦《かんげん》古《こ》の出迎えを受けた。子温はそこで母を弟たちに託し、ひとり騎《き》行《こう》して抗州臨安府に駆けつけた。  虞《ぐ》允文《いんぶん》の邸第《やしき》を訪れると、午睡《ひるね》中だった主人は、牀《しょう》からはね起きて客人を迎えた。沓《くつ》を片方はき忘れていたので、有名な仙人の藍采《らんさい》和《わ》を思わせる姿だった。世俗ばなれしたその姿に、子温は好意を感じた。 「そのまま仙人になれるような風骨《ふうこつ》をなさっておいでだ」 「それは間《ま》のぬけた顔ということですかな」  気を悪くしたようすでもなく、虞允文は笑った。子温はあわてて否定したが、相手の笑いに引きこまれて自分も笑いだしてしまう。笑いがようやくおさまると、虞允文は子温を書斎に招《しょう》じいれた。子温に茶をすすめ、金国のようすについて要点のみ問う。金主《きんしゅ》に侵攻の意思あり、と聞くと、うなずいて、それ以上は聞かなかった。くわしくは陛下の御前でこそ、というのである。そして虞允文は話すがわにまわり、宮廷人たちの動静を子温に教えてくれた。先年、宰相となって宮廷に復帰した万《ばん》俟《き》禽《せつ》は、今年にはいって老耄《ろうもう》いちじるしく、高宗《こうそう》皇帝の顔すら判別《みわけ》がつかなくなって、公務でも礼儀でも失敗をかさねている。致仕《ちし》(引退)も近いだろう、ということであった。 「しばしば宮中で眠りこみ、悪夢を見たのか狂ったように叫びたてます。岳鵬挙《がくほうきょ》どのの祟《たた》りだ、という声もありますが、すっかり痩《や》せおとろえて、あれはもうお気の毒ながら、長くはないでしょうな」  すこしも気の毒がってはいない虞允文の口調だった。子温も同意見である。万俟禽は自宅で死ねるだけでも幸福というものではないか。 「今後むしろ重要なのは、過激な主戦論をおさえることでござる。先制してこちらから金国に攻撃を加えよう、などという人たちがおりますからな」 「ふむ、おるでしょうな」  このとき両者が同時に想いおこした人物は張浚《ちょうしゅん》である。字は徳遠《とくえん》、文官にして主戦派の領袖《りょうしゅう》。秦檜に反対して宮廷を追われ、隠退生活の間に一度ならず刺客にねらわれたといわれる。秦檜が死んだとき、粛清予定者の名簿が遺《のこ》されたが、その最初に張浚の名が記されていたともいう。秦檜の死後、名誉職をえて宮廷に復帰したが、たちまち激烈な主戦論を唱《とな》えて、ふたたび追放されてしまった。信念の人ではあるが、どうにも懲《こ》りない人だ。  その日、夕刻に高宗への拝謁《はいえつ》がかなった。むろん非公式なものであり、高宗は重臣との会食を早めに切りあげて、書斎に子温と虞允文を招きいれたのである。  そして高宗がまず知らされたのは、不幸な兄|欽宗《きんそう》の死であった。あるいは北方の荒野で窮死《きゅうし》したか、とは思っていたが、想像を絶する殺されかたをしていたのだ。しばらく高宗はあえぐばかりで声も出ず、虞允文も粛然《しゅくぜん》としていた。 「このこと、絶対に他言せぬようにな」  ようやく高宗がいったのは、そのことであった。  金国が欽宗の死を公式に報告してくることはありえない。歴史上に類のない酸《さん》鼻《び》な処刑をおこなったのだから当然のことだ。そして公式の報告がない以上、宋としては、欽宗の死を知っている、という事実を公表するわけにいかないのだった。「知らせもしないのに、なぜ知っている」と疑われるのは当然で、その当然のことが外交上も戦略上もまずいのである。  ——かさねがさねお気の毒な。  子温はやりきれない気分だった。あしかけ三十年の抑留の末、公衆の面前で惨殺され、葬儀すらしてもらえぬのである。むろん、いずれはその死は公表され、むなしくも格調高い葬儀がとりおこなわれるであろうけれども。  気をとりなおしたように高宗は、金軍の動静を子温に問うた。そして、出兵必至との答えに、ふたたび衝撃を受けることになった。完顔亮の詩を見せられると、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]と同じように、高宗もまた子温の報告を信じるしかなかったのである。 「二十数年ぶりに、またもや船に乗って海に浮かぶことになるのか」  高宗は歎息した。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の急追を受けて杭州から脱出し、海上で新年を迎えたときの不安と屈辱とを、彼は想いだしている。あれから三十年近く経過し、すでに老境にはいりつつある身で、あの逃避行をふたたびくりかえすのか、と思えば、溜息《ためいき》も出るであろう。  子温はやや憮《ぶ》然《ぜん》とする。どうやら高宗は杭州臨安府にとどまって侵略者と対《たい》峙《じ》する意思はないようであった。虞允文が子温の表情を観察してから、高宗に言上する。 「今回、そのご心配はございませぬ。伐宋《ばつそう》百万の大軍などと申しても実数は半分というところでございましょう」 「その理由は?」 「女真《じょしん》族のみで百万の軍を編成することは不可能でございます」  契丹《きったん》族からさらには漢族まで動員せねば、百万もの兵数はそろわぬ。漢族が宋との戦いに本気になるはずはない。契丹族としても、自分たちの国を滅ぼした金国のために、必死で戦う気にはなれぬであろう。金軍は兵数が増えるほど、士気の低さや意思の不統一に悩むであろう。 「それで本朝《わがくに》はどれほどの兵を動員できるのじゃ?」 「十八万というところでございましょうか」 「十八万か……せめて五十万ほどは兵をそろえられぬか」 「御諚《ごじょう》れど、数ばかり膨《ふく》らませても意味がございませぬ。そもそも長江の水こそ、百万の兵に匹敵すると思《おぼ》しめせ」  虞允文の声に、高宗はうなずいたが、老境にはいりつつある顔には憂色が濃かった。     二  気をとりなおした高宗がつぎに問いかけたのは、金軍の侵入経路についてである。子温はそれに答えた。  第一に、長江の下流を渡って正面から建康周辺を衝《つ》く。第二に、秦嶺《しんれい》をこえて四川を奪《と》り、長江の流れに乗って東へ下る。このいずれも、過去の歴史において実現している。第一の例は、隋《ずい》が陳《ちん》を滅ぼしたとき。第二の例は、晋《しん》が呉《ご》を滅ぼしたときである。金主完顔亮は、おそらく第一の例に倣《なら》うのではないかと思われる。 「なぜ四川への来寇《らいこう》は可能性が低いと申すのじゃ?」  高宗の問いに、虞允文と子温とがこもごも答える。 「四川には呉《ご》唐卿《とうけい》(呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498])どのがおりますれば、大軍をもって占領するにも時《じ》日《じつ》を要しましょう。さらに、占領した後、多数の軍船を建造するにも時日を要します。いずれも金主の好まざるところでございましょう」 「また、ひとたび北方に異変が生じた場合、四川からふたたび秦嶺をこえて大軍を北《ほっ》帰《き》させるのは容易ではございませぬ。結局、江南を支配するのが金主の最終目的でございますから、最初からそこを直撃してまいりましょう。むろん絶対ではございませんから、北方への守りを備えるよう呉唐卿どのにはお話し申しあげてまいりました」  うなずいて、高宗は別の問いを発する。 「長江の北にも軍を配置し、北岸で敵を防ぐことはできぬか」  子温は頭《かぶり》を振った。 「金の大軍がひとたび淮《わい》河《が》を渡って南下すれば、長江を背にしてそれを防ぐのはきわめて困難であろうと存じます。拠《よ》るべき要害とてございませぬ」  むろん、まったく無防備にしておくわけにもいかぬ。金軍の不審を誘わぬていどに、国境警備の兵力は配置しておかねばならない。だが、それ以上の兵力を配置するのは無意味である。全滅するか、逃亡|四《し》散《さん》するか、撤退するか、いずれにせよ数万の兵をむだにするだけである。  形だけうなずいたが、高宗は完全に納得したようには見えず、子温はかるい不安をいだいた。  つぎに高宗が子温たちに問うたのは、戦闘指揮にあたる将軍たちの人選であった。その問いに答えるのは、なかなかむずかしい。人材がすくないのである。  韓世忠の幕僚のうち、思慮深くて用兵に長じた解元《かいげん》は早く死んだ。韓世忠の隠棲後一年、五十四歳のときである。彼に後《こう》事《じ》をゆだねていた韓世忠はずいぶんと落胆した。解元とは同年で、三十五年にわたる戦友の仲であった。  猛将|成閔《せいびん》は健在であった。この人物は、かつて韓世忠につれられて高宗皇帝に拝謁したことがある。そのとき、韓世忠は、つぎのように紹介した。 「臣はかつて自分の武勇を天下に並びなきものと信じておりました。ですが、この男に会って、それが|うぬぼれ《ヽヽヽヽ》であったと知りました」  天子の御《ご》前《ぜん》で、成閔はおおいに面目《めんぼく》をほどこしたわけである。成閔は韓世忠に絶賛されるほどの強剛《きょうごう》であったが、将帥《しょうすい》としては欠点があった。部下に対して必要以上に厳酷《げんこく》であり、兵士たちに人望がなかった。成閔の武勇は三国時代の張飛《ちょうひ》に喩《たと》えられることがあるが、どうやら欠点まで似ていたようである。  岳飛が殺害された後、岳《がく》家《か》軍《ぐん》は解体された。だが岳飛|麾下《きか》の有力な武将は幾人か生存していた。とくに人望・実績ともにすぐれていたのは牛皐《ぎゅうこう》で、勇猛果敢な闘将として知られていた。当然ながら秦檜は彼を危険視し、紹興十七年(西暦一一四七年)に彼を毒殺した。公式発表においては、宴会の料理にあたって中毒死したとされたが。なぜ牛皐ひとりが中毒死したのか、まともに説明できる者はいなかった。  牛皐は無学だが機智《きち》に富み、素朴で豪快な性格が庶民の人気を集めていた。『説岳《せつがく》通俗《つうぞく》演《えん》義《ぎ》』のような稗《はい》史《し》では、秦檜の魔手をのがれた牛皐が、秦檜の一党を滅ぼし、四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼をも討ちとって、岳飛の復讐をとげることになっている。むろんこれは史実に反するが、牛皐という人物に庶民の夢が託されていることがわかる。  牛皐の他に、岳家軍の有名な武将といえば、張憲《ちょうけん》、王《おう》貴《き》、任《じん》子《し》安《あん》、張峪《ちょうよく》、余《よ》化竜《かりゅう》、趙雲《ちょううん》、楊再興《ようさいこう》、狄猛《てきもう》、狄雷《てきらい》、その他多数いた。いまではすべて四散してしまった。岳飛がもっとも信頼していた智勇兼備の張憲は、岳飛とともに秦檜に殺された。楊再興は戦死した。彼はもともと群盗の出身で、討伐の官軍と戦ったとき、岳飛の弟と一騎打して殺してしまった。つかまって死刑になるというとき、その武勇を惜しんだ岳飛に赦《ゆる》され、武将となった。以後、彼は岳飛に忠誠をつくし、金軍と戦いつづけて壮烈な闘死をとげたのである。  韓家軍、岳家軍以外でいえば、現存する将軍たちの随一は楊折中《ようきちゅう》であろうか。  楊折中は、字《あざな》を正《せい》甫《ほ》という。高宗皇帝から名を賜わって、存中《ぞんちゅう》と改名した。少年のころから武芸に励み、世が乱れはじめたとき、昂然《こうぜん》として知人に宣言した。 「大丈夫《たいじょうぶ》たるもの、まさに武《ぶ》功《こう》をもって富貴を取るべし。いずくんぞ首をうつむけて腐儒《くされじゅしゃ》とならんや」  覇気に富んだ人物であったようだ。剛勇で戦闘指揮にも長じていた。岳飛などからは二流の将帥と見られていたようだが、大軍を統率する力量はないにしても、勇戦してしばしば武勲をたてた。彼が五百騎の騎兵をひきいて、柳子鎮《りゅうしちん》という戦場で金軍を夜襲したとき、激戦となり、一時、彼の生死が不明とされた。「朝廷震恐」とあるから、高宗は蒼《あお》ざめて彼の身を案じたのである。結局、楊折中は馬で淮河を渡り、意気揚々と帰ってきた。  楊折中は生涯に二百回をこす戦闘に参加し、全身に五十もの創《きず》があった。闘将というべきであろう。高宗はよほど楊折中が気に入っていたようで、彼に存中という名を賜い、官位も財宝も気前よく与えた。この年、紹興二十七年に、楊折中は五十六歳で、官位は殿前《でんぜん》都指揮使《としきし》、すなわち近衛軍団総司令官であり、爵位は恭国公《きょうこくこう》であった。  後年、楊折中が致仕したとき、高宗は、「あの男がいてくれぬものだから、もう三晩も不安でろくに眠れぬ」と語っている。『宋史』は楊折中について、「勇敢で忠実な人だが、それにしても何と幸運な人生であったか」と評している。岳飛が健在であったら、「何であのていどの男があんなに出世するのだ」といったにちがいない。 「恭国公は実戦経験が豊富で、上《しょう》のご信頼も厚い。かならず一軍をひきいていただかねばなりませぬ」 「恭国公のほかには……」 「さよう、寧国軍《ねいこくぐん》節《せつ》度使《どし》の李《り》将軍ははずせぬかと存じます」  李将軍とは李顕忠《りけんちゅう》のことである。  ありふれた表現ながら、李顕忠は数奇な運命の人であるといえよう。もともと宋の有名な武門に生まれた。初陣《ういじん》は十七歳のときであるが、ただひとりで十七人の金兵と戦ってその全員を斬りすて、たぐいまれな武勇をあらわした。その後、家族が金軍の人質になり、しかたなく金軍の将となった。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼に武勇を高く評価されたが、いつかかならず宋に帰順《きじゅん》するつもりだった。彼の父である李《り》永《えい》奇《き》から、宋王朝への忠誠心をたたきこまれていたのである。  ついに機会を見て、李顕忠は宋への脱出を実行した。父親と充分、計画を練《ね》った上でのことだが、父親は脱出に失敗し、一族郎党二百余人、すべて追跡してきた金軍によって殺された。惨劇の場所は馬翩谷《ばしょうこく》という峡谷で、降りつもった雪が人血に溶かされて赤い河をつくったという。  李顕忠は一族を救うことができず、わずか二十六騎の部下をひきいて西へ走った。宋に通じる南方への道はすべて封じられていたので、西の国境を突破して西夏の国にはいったのである。ここで西夏国王に依頼されて、「青面夜叉《あおおに》」と称する勇猛な土豪を討伐した。李顕忠はこのとき三千の西夏騎兵をひきいて五万の敵と戦い、一方的な勝利をおさめ、青面夜叉を捕虜としたのである。  喜んで西夏国王は李顕忠を厚遇したが、もとより西夏に永住する気はない。西夏軍が金に攻めこんだとき、同行して延安《えんあん》城を陥《おと》し、そこで彼の一族を殺した者たちを発見して、ことごとく斬った。一族の復讐を果たしたので、いよいよ宋に帰順しようとしたが、西夏軍が承知しない。李顕忠を裏切者よばわりして攻撃してきたので、李顕忠も反撃した。八百騎の兵で四万の西夏軍を斬り散らしたというから、戦闘における李顕忠の強さは底が知れない。  こうしてついに李顕忠は宋への帰順を果たした。秦嶺をこえ、四川にはいって呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《かい》の歓迎を受け、杭州臨安府に到着して高宗皇帝に拝謁する。ときに宋の紹興九年(西暦一一三九年)、李顕忠は三十歳であった。なお、李顕忠の本名は世《せい》輔《ほ》というのだが、顕忠という名を高宗皇帝から賜わって、このとき改名したのである。  宋、金、西夏と三つの王朝につかえた李顕忠も、紹興二十七年には四十八歳。かつては為人《ひととなり》も用兵も剛烈《ごうれつ》そのものであったが、いまはともに円熟の域にはいっている。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が、「あの男に負けたくないのなら最初から戦わぬことだ」と語ったほどの戦闘力は、宋軍にとって大きな力となるはずであった。  ただ、李顕忠を全軍の総帥とするわけにはいかない。楊折中より年齢も若く、宋での軍歴も浅いから、李顕忠が総帥となったのでは楊折中が承知しないであろう。結局、名目《めいもく》的に高位の文官が総帥となり、劉、楊折中、李顕忠といった老練の実戦派武人がそれを補佐する、という形になりそうであった。いまさらいっても詮《せん》ないことだが、岳飛が健在であればこの年五十五歳で、あらゆる面から見て、宋軍の総帥となりえたにちがいない。  この年四月、子温の官職は、工《こう》部侍《ぶじ》郎《ろう》となり、屯田員外郎《とんでんいんがいろう》を兼ねた。公表できない子温の功績に対して、昇進という形で高宗は報いたのである。  このまま世が平和にうつろえば、子温の前途には官僚としての順調な人生が待っているはずだ。だが、金軍の大侵攻が数年後にひかえている以上、文官としての境遇に安住してはいられなかった。帰宅して、奥にしまいこんだ甲冑《かっちゅう》を取りだす。父が健在なころ、つまり子温が十四、五歳のころに着用していたもので、もはや着用に耐えない。新調するしかなさそうだった。  ふたたび甲冑を櫃《ひつ》にしまいこんでいると、母が姿を見せた。息子が何をしていたのか、見ただけでわかったようだが、それについては何もいわなかった。かわりに、天候の話でもするような気軽さで声をかけた。 「ああ、子温、お前の縁談をまとめておいたからね。五月になったら花嫁に会うことになる。せいぜいおめかしするんだよ」  鈍い音がした。かかえていた櫃が子温の足の上に落ちたのだ。眼から極彩色の火花が散る。ようやく苦痛と驚愕が去って、声が出たのはたっぷり百を算《かぞ》えてからだった。 「おれはまだ嫁をもらう気はないよ。彦質や彦古のほうを先にしてやればいい。だいたいこんな急に……」  床にすわりこんで足をさすりつつ、子温は抗議した。梁紅玉は平然として抗議を受け流した。 「長幼《ちょうよう》の序《じょ》というものがあるからね。お前が嫁をもらわないかぎり、彦質も彦古も結婚できないじゃないか。国を救うより先に弟たちを救うのが長兄の責務《つとめ》ってものだろ」 「あのな、阿母《かあちゃん》……」 「まったく甲斐《かい》性《しょう》のない息子を持つと苦労するよ。お前の阿爺《とうちゃん》は京口《けいこう》一の美妓《びぎ》に惚《ほ》れられるほどいい男だったけどねえ」  子温は頭をかかえた。努力し準備すれば金国百万の大軍には勝てるかもしれぬが、どう悪あがきしたところで、この母には勝てそうもなかった。     三  完顔雍《かんがんよう》は楼上で夕陽を眺めていた。東京府遼陽《とうけいふりょうよう》城の西は茫漠《ぼうばく》たる曠《こう》野《や》である。乾いた地表から幾億幾兆のこまかい塵《ちり》が宙天高く舞いあがって、それが落日の光を乱反射させる。ために太陽は人血を塗りかためたかのように深《しん》紅《く》の円盤となって沈んでいく。紅塵《こうじん》である。視界ことごとくが紅《あか》く染まって、天と地との境界を分かつものは黄金色の小波《さざなみ》となって揺動する地平線のみである。ただ一条、銀色の帯が紅い礦野にきらめくのは遼河《りょうが》の流れだ。 「紅塵とはすなわち騒がしい世のことをいうが……ついに無名の師《いくさ》を起《おこ》して国を害《そこな》うか」  吐息すら紅く染まりそうな曠野の落日であった。  金の正隆《せいりゅう》六年、宋の紹興三十一年、西暦一一六一年の夏。ついに金主完顔亮は伐宋の大軍を起《おこ》した。百万の兵をそろえることには失敗したが、それでもなお六十万の兵を集め、三十二の総管《そうかん》(軍団)を編成して南下を開始したのである。一部重臣の反対を一蹴《いっしゅう》し、続発する叛乱《はんらん》を無視し、空《から》の国庫から目をそむけ、民衆の怨《えん》嗟《さ》の声に耳をふさいで。  子温たちと会ったとき、雍の封爵は趙王《ちょうおう》であった。現在は曹国公《そうこくこう》である。王から公へ、格下げにされたのだ。何ら失敗を犯したわけでもなく、一種の政治的な挑発と見るべきであろう。  ——私が激発するのを待っているのだ。  そう雍は思わざるをえない。そもそも、これまで無事でいられたほうが不思議なのだ。雍が少年時代に親しんでいた皇族たちは、亮の手でほとんど一掃されてしまった。こんなことになろうとは、かつて誰が想像したであろう。  十九年前のことを、ふと雍は回想した。岳飛が殺され、宋との和平が成った当時のことである。早春、風はなお寒く、野営する金軍の陣を吹きぬけていった。幕舎のなかで、雍は叔父《おじ》である四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼から問われたのだ。将来、金国の皇族として、女真族の指導者として、どのような抱《ほう》負《ふ》を展《の》べるか、と。雍は答えた。 「女真族と漢族、それに契丹族も、なるべくたがいに争わず、それぞれの特長に応じて仲よく共存できればよいと思うのですが」 「孩子《こども》の夢みたいなことをいうな、お前は」  あきれたように宗弼は雍を見やる。そのようなことが可能であるなら、戦場での流血も宮廷での陰謀も地上から消え去るであろう。甥《おい》の甘い理想を戒《いまし》めようとして、宗弼はやや表情を変えた。 「お前ならそれができるというのか」 「私でなくともできましょう。ただ誰もやろうとしないだけだと思います」 「ふん、賢《さか》しげにいいおるわ」  宗弼は笑った。好意的な笑いであった。彼はこの沈着で思慮ぶかい甥が好きだった。才気の鋭さ華《はな》やかさにおいては亮がはるかにまさる。だが、天才の鋭気よりも凡人の誠実さのほうが、しばしば世を動かし百姓《じんみん》を救うこともあるのだ。  金の皇族はつねに陣頭に立つ。このとき宗弼はふたりの甥を陣にともなっていた。長兄|宗幹《そうかん》の子|亮《りょう》と、三兄|宗《そう》輔《ほ》の子|雍《よう》である。亮は二十一歳、雍は二十歳。ともに金の次代をになう俊秀《しゅんしゅう》であり、稀《き》代《たい》の雄将である宗弼のもとで実戦の経験をつんでいた。  宗弼は甥たちを観察している。これは対宋戦役の総指揮にも劣らぬ重要な任務だった。それによって次代の金国の統治者が決定されるかもしれないのだから。  宗弼の見るところ、亮は才気抜群だが情緒が不安定で衝動的なところがあり、どうにも危うくてならぬ。彼の父宗幹は大《ター》太《ター》子《ツ》と敬称され、太《たい》祖《そ》皇帝の長男でありながら帝位継承からはずされていた。力量も人望もある宗幹にとっては残念であったろうが、不平を鳴らすことはまったくなく、太宗《たいそう》と煕《き》宗《そう》と、二代にわたり重臣として忠誠をつくした。  だがどうやら息子の亮はそれが不満だったようだ。本来なら帝位は祖父太祖皇帝から父宗幹へ、さらに自分へと受けつがれるはずではないか。そう考えているようすが、ありありと見える。宗幹は沈《ちん》毅《き》な人で、不満を絶対に口にしなかったが、あるいは家に帰って酒の数杯も酌《く》めば、つい|ぐち《ヽヽ》が出たかもしれない。なぜ母親の身分が低いからといって、自分が帝位継承からはずされなくてはならぬのか、と。その心情は宗弼にもよくわかる。大《ター》太《ター》子《ツ》は皇帝たるにふさわしい人物であった。だが息子の亮はというと、宗弼は、否定的にならざるをえない。  後年、宗弼の子らは、亮によってことごとく殺害される。それを予測したわけでもないが、亮に対する警戒心を宗弼は消せずにいた。  それは金の皇統《こうとう》二年、宋の紹興十二年、西暦一一四二年の一月。陣営に在《あ》る宗弼の顔色はすぐれなかった。先日、彼の愛馬|奔龍《ほんりゅう》が老いて死んだのである。鄭重《ていちょう》に葬《とむら》うよう指示する文書を雍に託そうとしたとき、亮が幕舎に駆けこんで来て大声で告げた。宋より公式発表がもたらされ、枢密《すうみつ》副《ふく》使《し》の岳飛が処刑された、というのである。  四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は声を失った。  たしかに彼は和平の条件として、岳飛の死と岳飛軍の解体を要求した。だが、それは外交上の交渉技術というものである。金は金の条件を出し、宋は宋の条件を出す。そこから交渉がはじまり、妥協や譲歩がおこなわれて和約が成立するのだ。そうなるまでの段階で、とくに最初のうちは強い姿勢を見せるのが当然であった。  金の国内事情は、和平を渇望している。その弱みを宋に知られぬためにも強気を示すしかない。宗弼としては、岳家軍の解体は譲れぬ条件であったが、岳飛は官位の剥奪、そして杭州臨安府からの追放というところで妥協が成立するだろう、と見ていた。それ以上のことを望んで、講和が不成立になっては元も子もない。  それが岳飛ばかりか養子の岳雲《がくうん》まで処刑され、一族ことごとく流刑となり、名誉と財産を奪われたという。宋では「言論によって士《し》大《たい》夫《ふ》を殺さぬ」のだから、講和に反対したという理由では死刑にできぬはずではないか。 「岳《がく》爺爺《やや》は不軌《むほん》をたくらみ、その陰謀が露《ろ》見《けん》したので殺された由《よし》にございます」 「ばかな……」  四《スー》太《ター》子《ツ》はうめいた。岳飛が宋朝に不軌《むほん》をたくらむなど、ありえないことである。宗弼が金国に不軌をたくらむなどありえないように。秦檜が非常の策に出たことは明白であった。 「だが、いかに和平が至上の命題だとしても、そこまでやるか」  ふたたび宗弼がうめいたとき、亮が皮肉っぽく口を開いた。 「四《スー》太《ター》子《ツ》、そのお考えは逆でしょう」 「逆? どういう意味だ」 「秦|丞相《じょうしょう》は講和を結ぶために岳爺爺を殺したのではありますまい。岳爺爺を殺すために講和を利用したのです。順序が逆です」  息をのんで、宗弼は甥を見つめた。亮は黙然と叔父《おじ》を見返す。そのていどのことがわからぬか、と、自分の智《ち》を誇る表情であった。その点は不愉快であったが、たしかに亮の智を宗弼は認めざるをえない。  岳飛が勝利をかさね、実力を蓄《たくわ》え、発言力を強めるほど、秦檜の権勢は危うくなるのだ。この際、金国の外交的要求を奇貨《きか》として、岳飛を抹殺する。金国に対しては、岳飛を殺すという条件をのんだという理由で他の条件について譲歩を求めることもできる。譲歩を引き出したということで、秦檜は功績を誇示できる。一石二鳥どころではない。岳飛を殺すことで秦檜はどれほど多くのものを手にいれることか。  宗弼の耳に歓声が聴《き》こえた。高く低く、さながら黄河の水音のように。金軍の将兵が狂喜して騒ぎまわり、それが本営に伝わってきたのである。 「あいつらは何を喜んでおるのだ」  宗弼の問いに、かたい表情で答えたのは、もうひとりの甥雍である。 「むろん岳爺爺が死んだことを喜んでいるのでございましょう。彼《か》の御仁は、わが国にとって、人の形をした災厄でございましたゆえ」  亮や雍が岳飛の名を呼びすてにせず、岳爺爺と呼ぶのは、金軍がいだく敬意のあらわれである。宗弼は眉をしかめると、ふいに立ちあがった。無言のうちに幕舎を出る。まるで祭礼のような騒ぎのなかに踏みこむと、彼の姿に気づいた士官たちがあわてて礼をほどこした。形だけ礼を返して、宗弼は問いかけた。 「おぬしら、いったい何を喜んでおるのだ」 「むろんのこと、岳爺爺が死んだと聞いて、みな狂喜しておるのでございます」 「ほう、岳爺爺が死んだのか」 「四《スー》太《ター》子《ツ》さまにはご存じなかったので?」 「岳爺爺が死んだのか。それはめでたい」  士官たちの不審を無視して宗弼は声を大きくした。 「では岳爺爺を殺した者に、おれが千金の報賞をくれてやるとしよう」 「四《スー》太《ター》子《ツ》さま……」 「誰が戦場で岳爺爺を討ちとった? 大金国最高の勇者は誰だ。名乗り出よ!」  士官たちは静まりかえった。四《スー》太《ター》子《ツ》が憤怒していることは、いまや誰の眼にも明らかであった。金軍の手で岳飛を討ちとったのならともかく、宋国内部の陰謀によって殺されたのを喜ぶのは恥ずべきことであった。これ以後、金軍の雰囲気はむしろ喪《も》に服しているように見えたという。  この年の五月、煕宗皇帝の生辰《たんじょうび》を祝賀するため、宋の重臣|沈昭遠《しんしょうえん》らが高宗の使者として上京会寧府《じょうけいかいねいふ》を訪れた。金では数人の重臣が接待にあたったが、その一員となった雍は、非礼を承知でいわずにはいられなかった。 「このたびは本朝《わがくに》のために岳爺爺を殺していただき、まことにありがたく存ずる。かの御仁は、兵を用《もち》いること神のごとく、『精忠岳飛《せいちゅうがくひ》』の軍旗を見ただけで、わが軍は馬首をめぐらすほどでござった。その岳爺爺が亡《な》きいま、われらは二十年ぶりに安眠できます。それにしても貴国が友《ゆう》誼《ぎ》のためには忠勇無双の功臣すら殺してくださる国だとわかり、深い感銘を受けました」  これほど痛烈な皮肉を敵国人から投げつけられるとは、想像もしていなかったであろう。沈昭遠は羞恥《しゅうち》のために赤くなり、ついで屈辱のために蒼ざめた。さして同情する気には、雍はなれなかった。岳飛の不当な死に関して、沈昭遠個人に罪があるわけではない。だが、無念といえば岳飛自身やその遺族のほうが、はるかに無念であるはずだった……。     四  夜の帳《とばり》がおりて、雍は留守府《りゅうしゅふ》の書斎に非公式の客人を迎えた。黒蛮竜《こくばんりゅう》である。彼はこの五年間、金国内を縦横に歩きまわっていた。梁紅玉|母子《おやこ》を秦嶺まで送り、草原や砂漠で辺境の情勢をさぐり、雍に期待する武将や官僚との間に連絡網をつくった。この夜、八ヶ月ぶりに雍のもとへ報告に訪れたのである。 「契丹族の叛乱は拡大する一方でございます。このままでは興安嶺《こうあんれい》一帯が離反しましょう。さらには軍中に在《あ》る契丹族も叛乱に呼応するやもしれませぬ」  黒蛮竜はそう報告し、さらに、西夏国の向背《こうはい》にも不気味なものがある、と告げた。 「西夏も好んで本朝《わがくに》に服属しているわけではないからな」 「はい、つねに本朝の隙をうかがっております。西夏の内部には、かつての宋ならともかく、本朝に服属するのは耐えがたい、という声もあるようで」  もっともだ、と、雍は苦笑した。金国を建てた女真族も、西夏国を建てた党項《タングート》族も、漢民族と対立してきたが、それでも漢文化を尊敬し、おたがいを自分たち以下の蛮族だと思っているのだった。 「それと、どうか副留守《ふくりゅうしゅ》にご油断なさいませぬよう」  雍の官職は東京留守である。彼を補佐するために副留守がいる。副留守の姓名は高存福《こうぞんふく》というが、形は補佐役であっても正体は監視役であった。 「よくわかった。心しよう。これからも、気づいたことは何でも私に言ってくれ」  そんなことはわかっている、と、亮ならいうであろう。雍は亮とちがう。他人の忠告が得がたいものであることを雍は知っていた。自制心と自律心の強さが、公人としての雍の美点であり、私人としておもしろみに欠けるところであったろう。亮はといえば、先日、必死で伐宋を諫《いさ》めた宰相の※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈良弼《きっせきれつりょうひつ》を追放している。殺さないだけましであったろうか。  完顔亮のこの時代、いまひとりの金国の宰相は張浩《ちょうこう》という人である。姓は張、名は浩、字は浩然《こうぜん》。女真族でも漢族でもなく、かつて栄えた渤海《ぼっかい》国の名門の出身者であった。渤海語・契丹語・女真語・漢語を使いこなす語学の達人で、中国古典の教養にも富み、何よりも行政手腕にすぐれていた。礼部尚書《れいぶしょうしょ》をつとめていたとき、宮廷で人事抗争がおこり、一時的に、彼以外の大臣がすべて空席になってしまった。そのとき彼がひとりですべての大臣職を兼任して国政を処理し、まったくとどこおらせなかった。  煕宗のもとでも海陵《かいりょう》のもとでも、張浩は宰相をつとめた。ということは、両帝の暴政に対して、いくらかの責任はまぬがれない、ということになるだろうか。だが、どうやら張浩は、自分自身の職責を限定していたようだ。ひたすら行政事務の処理に専念し、よけいな意見などいわなかった。  その張浩が、ついに雍に対して秘かに働きかけてきた。即位とか起兵とか、露骨なことはいわないが、国を救うために最善の方法をとってほしい、というのである。事態はそこまで来ていたのだ。雍は黒蛮竜の顔を見なおして口を開いた。 「岳爺爺の悼《いた》むべき最期とともに、英雄の時代は終わったのだ。金でも宋でも」 「は……」と、黒蛮竜の反応は当惑げである。彼は雍を全国の真天《しんてん》子《し》、女真族の英雄、救世の人傑《じんけつ》と信じている。だからこそ生命がけで彼のために働いているのだ。雍は黒蛮竜を信頼し、彼に感謝している。だが、あまり英雄視されるのは不本意であった。 「私は英雄ではない。英雄になりたいとも思わぬ。英雄にできないことを、誠意をもっておこなうだけだ」 「ご謙遜を」 「いや……」  謙遜ではない、と言いかけて、雍は口を閉ざした。彼自身が戒《いまし》めていればよいことだ、他人に押しつけることはない、と気づいたのである。  後に世《せい》祖《そ》皇帝となる雍は、胸に七つの小さな黒子《ほくろ》があり、それが北斗七星の形に見えたという。英雄伝説の典型的なものである。英雄であることを否定しつづけた雍自身にとっては意味のないことだった。 「そうそう、興安嶺の西に住む契丹族の長老から、奇妙な話を聞きました」 「ほう?」 「興安嶺のはるか西には、蒙古《モンゴル》と呼ばれる騎馬遊牧の蛮族どもが住んでおりますが、その一部族長の家に、先ごろ男児が生まれたとか。その赤ん坊が掌《てのひら》に血の塊《かたまり》をにぎって生まれてきたので、吉か兇か、当地の巫術師《シャーマン》どもが騒いでおるやらに聞いております」  黒蛮竜の話にそれほど興味をいだいたわけでもなかったが、礼儀上、完顔雍は応じた。 「血の塊とは、あまり吉兆とも思えぬが、その赤ん坊の名は何という」 「それがしも興味を持ちましたので、聞いておきました。たしか鉄木真《テムジン》とやら申すとか」  そうか、とだけ答えて、雍は眼を閉じた。  契丹族よりさらに西北の辺境で蠢動《しゅんどう》する蒙古族などに、彼が必要以上の関心を寄せる理由もない。彼は女真族を再生させ、金国を建てなおさなくてはならなかった。血の塊をにぎって生まれてきた赤ん坊などに騒ぎたてるというのは、未開の民である蒙古族が英雄を必要としているからだろう。だが金国にはもはや英雄は不要なのだ。  宋の紹興三十一年(西暦一一六一年)秋、高宗は主戦派の文官|張浚《ちょうしゅん》を宮廷に呼びもどした。官は判建康《はんけんこう》府《ふ》および行宮留守《あんぐうりゅうしゅ》。目前にせまっている金軍の大挙侵攻にそなえて、最前線地帯の行政を統轄《とうかつ》することになったわけだ。ことに「行宮留守」というからには、高宗が杭州臨安府を放棄するときには、張浚が首都防衛の大任にあたることになろう。 「ま、これはこれでよし、ということですな」  虞允文はそう評した。張浚はすくなくとも敵の大軍を前にして怯《ひる》むような人物ではない。独善的ではあるが剛《ごう》毅《き》で決断力に富む。金軍を撃退するために全力をつくし、生命すら惜しまぬであろう。前線に立つ将兵は、後背の不安なしに敵軍と戦うことができるはずであった。  同時に、虞允文は江淮軍参謀《こうわいぐんさんぼう》に任じられ、子温は江淮軍副参謀となった。事実上、少壮の彼らふたりが対金作戦の主役となったのである。子温の、文官としての人生は一時、中断されることになった。あるいは、一時ではなく、永遠かもしれない。  すでに金国に潜入している諜者たちから、大軍が燕京《えんけい》を進発したとの情報がもたらされていた。実数六十万の兵を百万と号し、金主完顔亮が自らこれを統率している。全軍は三十二の総管(軍団)に分かたれ、河《か》北《ほく》の空は旌《せい》旗《き》におおわれている、と。  欽宗の涙と岳飛の血とによって購《あがな》われた平和は、二十年目にして破られた。子温の亡父韓世忠らの努力も無になった。  父のことを、あらためて子温は考えた。韓世忠は政治がわからぬ人だった。彼にとって政治とは、かつて白居《はくきょ》易《い》や蘇軾《そしょく》が杭州でおこなったようなことだった。民衆のために害を取りのぞき、彼らの生活を平穏にすること、それが韓世忠の考える政治だった。  それに対して、秦檜が無実の岳飛を獄中で殺害したこと。高宗が兄欽宗の帰国をはばみ、北方の曠野で抑留生活を送らせていること。それが政治というものだ、といわれても、韓世忠は納得できないであろう。それでは政治とは、権力者が他人を犠牲にしてそのことを正当化する技術であるにすぎないではないか。  岳飛が殺され、韓世忠が宮廷を去ったとき、一部の文官たちは意地悪くささやきあったものだ。岳飛は学問があったから警戒されて殺され、韓世忠は無学だから殺されずにすんだ、ときには無学も身を助ける、と。  そのとき梁紅玉は静かな口調で文官たちにいった。 「妾《わたくし》の夫は無学ですが無恥ではございませんよ」  文官たちは恥じ、かつ恐れて沈黙したという。  父のことを「政治がわからぬ無学者」と嘲笑《ちょうしょう》する者は、そうするがよい。子温は父を尊敬する。そして、父たちが守りぬいたこの国を守らねばならない、と思う。この四年間、金の使者や諜者に知られぬよう、また国内に恐慌《きょうこう》を来《きた》さぬよう、ひそかに戦略の立案や防御力の整備にあたった虞允文らの苦労を生かして、金主の野望をうちくだくのだ。  紹興三十一年(西暦一一六一年)九月、北の国境から急報がもたらされた。ついに金軍が淮河に達し、浮梁《うきばし》をかけつつある、というのである。  ついにその時が来たのだ。子温たちが杭州臨安府に帰還してから四年半後のことであった。 [#改ページ] 第九章 采石《さいせき》磯《き》     一  高宗《こうそう》皇帝からの命令を受けて、子《し》温《おん》はただちに出陣することになった。彼は本来、文官ではあるが、文官が実戦に参加することは、宋《そう》の歴史では珍しくない。まして彼が文官職につくのは父の引退後で、少年のころは戦場で日を送っていた。『説岳《せつがく》通俗《つうぞく》演《えん》義《ぎ》』で、「武芸にすぐれた韓公《かんこう》子《し》」と記されているのは子温である。  家を出るとき当然、妻子と別離したのであろうが、子温の妻子について、『宋史・韓彦直《かんげんちょく》伝』には記述がない。正史の伝は公人としての記録であるから、私生活については記述がないのが普通である。特筆することもない平穏な家庭生活であったかと思われる。  特筆することだらけの梁紅玉《りょうこうぎょく》も、息子とともにまず杭州臨安府《りんしゅうこうあんふ》に赴《おもむ》いた。虞《ぐ》允文《いんぶん》を介《かい》して、ときの皇太子から招きがあったのである。ただしすぐには会えず、虞允文に再会した子温は江淮軍《こうわいぐん》の再編成に忙殺《ぼうさつ》された。  江淮軍とは「長江《ちょうこう》・淮《わい》河《が》下流方面軍」とでも訳せばよいであろうか。事実上、対金防衛戦の総兵力といってよい。  子温は江淮軍の副参謀であり、虞允文が参謀である。総帥は葉《よう》義《ぎ》問《もん》という人で、科《か》挙《きょ》出身の文官であった。剛直な人で、秦檜《しんかい》の残党が暗躍するのを摘発した。国使として金国におもむいたときには、土木工事や輸送のありさまを観察し、金軍の侵攻が近いことを正確に予測している。  ただし軍事に関しては無能で、基礎的な軍事用語も知らなかったらしく、しばしば兵士たちや民衆に冷笑をあびている。葉義問のせいではなく、彼を任命した高宗の責任であろう。  就任すると同時に、葉義問は、長江の北に軍を展開させた。指揮官は劉《りゅうき》と王権《おうけん》の二将軍である。淮河を渡ってくる金の大軍を正面からくいとめよ、と命令したのだ。これはかつて子温が高宗に不可を言上した無謀な作戦行動であった。王権はかつて韓世忠のもとで金軍と戦った人である。彼は抗戦の不可能を主張したが、再度の命令を受け、やむなく二万の兵で六十万の金軍と戦った。一戦にして蹴散らされ、かろうじて全滅をまぬがれて逃げもどる。「神機武略」と称される劉は、葉義問の無謀な命令を無視し、戦わずに後退した。揚州《ようしゅう》の城市《まち》から長江を渡って帰ることにした、そのときのことである。 「さてと、ただ退却するだけというのも、あまりおもしろくないな」  白い髯《ひげ》をひねった劉は、従卒《じゅうそつ》に文房《ぶんぼう》四《し》宝《ほう》(紙・筆・墨・硯《すずり》)を持って来させた。ただ紙は使わなかった。太い筆をふるって、老将軍は揚州府庁の白い壁に六つの文字を大書したのだ。   完顔亮死於此  完顔亮ここにおいて死す。劉が書いたのは、金軍にとってまことに不吉な予言の句であった。劉は易占《えきせん》や陰陽《おんよう》五行の心得があり、完顔亮が敗死することを予知していたといわれている。  このように余裕を持って劉は兵を退《ひ》いたのだが、周囲の反応はかならずしも老雄の意図どおりではなかった。 「劉、王権の両将軍は金軍の侵攻をささえきれずに撤退。宋は長江以北の領土を失った」  金軍が誇大に宣伝したこともあるが、その報は強烈な衝撃波をもって宋の朝野《ちょうや》を席捲《せっけん》した。最後の一兵にいたるまで淮河を渡りおえた金軍は、潮が満ちるように長江北岸へと押しよせつつある。  江北《こうほく》の住民は家をすて、大小無数の舟で長江を渡って江南《こうなん》へと逃げてきた。陸路、長江の上流へと逃げる者たちもいる。江南の民衆も動揺して家財をまとめ、さらに南方へ避難する準備をはじめた。朝廷も動揺し、悲鳴まじりで両将軍の責任を問う声が沸《わ》きおこった。 「劉信叔《りゅうしんしゅく》(劉)ともあろう者が戦わずして退くとは。呉《ご》唐卿《とうけい》(呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》)が彼を英慨《えいがい》なしと評したのも宜《むべ》なるかな」  強硬論に生命をかける張浚《ちょうしゅん》も、そう歎息して、劉を弁護しようとしなかった。 「やはりだめか。そろそろ船の用意をさせよう」  杭州臨安府の皇宮で、蒼《あお》ざめてそう口走ったのは高宗である。逃げることに慣れているから腰は軽い。父|徽《き》宗《そう》や兄|欽宗《きんそう》の轍《てつ》をふむのは恐ろしかった。いまにも港へ向かって駆け出そうとするかのように、座から立ちあがる。  その袖《そで》を、張浚の手がとらえた。強烈な眼光が高宗を射《い》すくめた。 「お逃げあそばすな、陛下! お逃げあそばしては国が瓦《が》解《かい》いたします。むしろ親征なさって、帝威を金賊どもにお示しあれ」  金軍が来るたびに逃げまわっていた高宗と、金軍も秦檜も恐れずに主戦論を唱《とな》えつづけた張浚とでは、危地《きち》に立ったときの凄《すご》みがちがう。高宗は反論できず、むなしく口を開閉させた。そのとき、皇太子が毅《き》然《ぜん》として座から立ちあがった。 「張浚はよく申してくれた。陛下は建康《けんこう》へ御《ぎょ》駕《が》を進めたもう。わたしが先駆となろう」  皇太子の発言は、老いた張浚を感動させた。彼が床に拝《はい》跪《き》すると、皇太子はその手をとって立ちあがらせた。高宗は事態の主導権を失い、口のなかで何やらつぶやくだけであった。  張浚と葉義問との協議によって、前線指揮官のあたらしい人事がさだめられた。金軍に江北の地をあけわたした劉と王権とが更迭《こうてつ》されたのである。劉に替わったのは成閔《せいびん》、王権に替わったのは李顕忠《りけんちゅう》であった。ただ、成閔も李顕忠もまだ前線に到着しないので、葉義問が、劉と王権からとりあげた軍隊の指揮を直接とることになった。  この人事は、老雄劉の矜持《きょうじ》を傷つけた。戦略的な撤退を、「臆病、無能、老衰のゆえ」といわれたのでは、傷つくのが当然である。まして、無謀な命令を出したのは葉義問であり、その彼が今度は劉から軍隊をとりあげて自分で指揮するというのだから、納得できるはずがなかった。過労と精神的な打撃とのために、劉は京口《けいこう》城内で病床に就《つ》いた。十月はじめのことだ。  虞允文と子温が病床を見舞うと、劉は力ない笑いで応《こた》えた。右手で虞允文の、左手で子温の手をとって、老雄は自嘲《じちょう》した。 「もうわしなどの出る幕はない。朝廷は兵を養うこと三十年、最後の大功は儒生《じゅせい》の手に帰するじゃろう。無力なる老兵は、ただ恥じて死ぬのみじゃ」  気のきいた慰めの言葉もなく、ただ療養につとめるよう願って、虞允文と子温は彼のもとを去った。  劉の病臥《びょうが》は残念だったが、子温は対金戦に明るい展望を持っていた。完顔亮が大軍をひきいて南下する、そのとき北方で何がおこるか、子温は予測していたのだ。五年前のことを、彼は想いだす。 「残念だが何ごともお約束するわけにはまいらぬ。だがこれだけは申しあげておこう。無名の師《いくさ》を望まぬこと、金国は宋国と同様である。和平を欲《ほっ》するや切《せつ》であること、女真《じょしん》族は漢族に劣らぬ」  燕京《えんけい》の趙王府《ちょうおうふ》で、そう完顔雍《かんがんよう》は子温に語ったのだ。彼の意思を、ほぼ子温はさとったが、事が事だけに言葉にして確認するのはむずかしかった。 「暴君を憎むという一点においては、いかがでございましょうか」  そういう尋ねかたをしてみるしかなかった。雍は短く苦笑したようだが、「何を愛し何を憎むか、人の情は黄《こう》河《が》の北も長江の南も同じであろう」と答えた。それ以上の答えを望むのは愚《おろ》かであった。さまざまの好意を謝しつつ、子温は雍と別れ、燕京を去ったのである。  無事に帰国してから、子温は、金国内で誰の助力を受けたのか、しばしば問われた。  絶対に完顔雍の名を出すわけにはいかなかった。黒蛮竜《こくばんりゅう》や阿《あ》計替《けいたい》についても同様である。名を出せばどのような迷惑が彼らに降りかかるか知れなかった。高宗に対してすら、彼は、「臣も彼らの正体を存じませぬ」としか答えなかった。高宗のほうからは、子温は意外な事実を聴《き》かされた。 「じつは、そなたを北方に派遣せしは、虞允文だけではなく、建王《けんおう》の発案にもよるのじゃ。金国の暴君に注意せよ、と、それはうるさくてな」  建王とは皇太子のことである。姓は趙《ちょう》、名は最初に伯《はくそう》、後に※[#「王+爰」、unicode7457]《えん》、さらに即位直前に眷《けん》と改名し、字《あざな》は元永《げんえい》という。二度の改名は高宗のすすめによるものであった。  皇太子は、後に孝宗《こうそう》皇帝となる人である。  もともと高宗の最初の太子は幼年にして病死している。以後、高宗には男児が生まれなかった。金軍の侵入によって引きおこされた動乱で、皇族の多くが死に、あるいは行方不明となっている。皇統《こうとう》を絶やさぬために、高宗は手をつくして生き残りの皇族を捜し、ようやく太《たい》祖《そ》皇帝の七代めの子孫を見つけだしたのであった。  高宗のほうは、太祖の弟である太宗《たいそう》皇帝の六代めの子孫である。同族にちがいないとはいえ、かなりの遠縁であった。歴代、宋王朝の玉座《ぎょくざ》は、太宗の血統によって独占されてきている。太祖の子孫たちは玉座から疎外され、不遇をかこってきたが、ようやく歴史の大道に姿をあらわすことになったのだ。  孝宗皇帝は、後世、南宋最高の名君といわれるようになる人だから、高宗は、後継者えらびではみごとに成功したといえる。ただ、『宋史』に「聡明にして英《えい》毅《き》」と記される皇太子は、丞相《じょうしょう》の秦檜《しんかい》に忌《い》まれていた。正確にいえば、秦檜が死ぬまで彼は正式に皇太子にはなれず、普《ふ》安郡王《あんぐんのう》にとどまっていたのである。皇太子のほうでも秦檜をきらい、岳《がく》飛《ひ》や韓世忠《かんせいちゅう》らに好意的であった。彼が即位して孝宗皇帝となった後、岳飛の無実が確認され、名誉が回復されるのである。  だが、それは未来の話である。紹興《しょうこう》三十一年の十月半ば、皇太子は張浚、虞允文、子温らをともなって杭州臨安府から建康府へ赴いた。ここにおいて、朝廷の意思が主戦であることは天下に明らかとなった。     二  建康府庁において宋軍出陣の宴が張られたのは、十月末のことである。皇太子臨席のもと、張浚や葉義問らをはじめとする文官武官が宴席につらなった。皇太子も張浚も質素さを好むから、それほど山海の珍味が並んだわけではない。大宴は勝利の後にこそ、という理由も当然であった。このとき金軍六十万は長江の北岸に展開しつつあり、宋軍との間は長江の流れによってへだてられているにすぎない。とはいえ、長江の流れは幅八里(四・四キロ)、容易にこえることはできない巨大な水の城壁である。金軍は六十万の大軍を乗せるだけの軍船がそろわぬため、まだ渡河作戦を実行することができずにいるのだった。  紹興三十一年に宋の主要な人物の年齢は、高宗皇帝が五十五歳、皇太子(後の孝宗皇帝)が三十五歳、張浚が六十六歳、劉が六十四歳、李顕忠が五十二歳、楊折中《ようきちゅう》が六十歳、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が六十歳、成閔が六十八歳である。ことに第一線における将軍たちの高齢化がめだつ。  梁紅玉は六十四歳、子温は三十四歳。虞允文の年齢は不明だが四十歳前後かと思われる。  梁紅玉は亡夫韓世忠と彼女自身との武勲により、「楊国《ようこく》夫《ふ》人《じん》」の称号を有している。列席の文官武官は、彼女に対して敬意に満ちた礼を送った。  皇太子も、銀雪の髪をいただく老婦人に敬意の視線を送っていたが、ほどなく、まず子温を御《ご》前《ぜん》に招き、彼に命じて母親をつれてこさせた。 「楊国夫人の盛名は、わたしのような一書生でも存じている」  ということから話がはじまり、梁紅玉がこの場で剣の舞を披《ひ》露《ろう》することになった。そのように話を進めたのが母であることに子温は気づいた。母は何やらたくらんでいるらしい。  剣を持って梁紅玉は舞いはじめる。すでに六十代半ばに達した老婦人とは、とうてい信じがたい。袖がひるがえり、剣がきらめく。呼吸も足さばきも乱れることはなく、流麗な動作は一瞬もとどこおることがない。一座は感歎して見とれるばかりである。舞たけなわ、梁紅玉はよくひびく声で詞《はうた》を歌いはじめた。   怒《ど》髪《はつ》、冠《かん》を衝《つ》いて、欄《らんかん》に憑《よ》るの処《とき》   瀟々《しょうしょう》たる雨|歇《や》みぬ   眼をあげて望み、天を仰いで長嘯《ちょうしょう》すれば   壮《おお》しき懐《おもい》は激烈たり   三十功名は塵《ちり》と土   八千里の道雲と月   等閑《なおざり》にするなかれ、少年の頭《こうべ》白くなりて   空しく悲しみの切なるを  愕然《がくぜん》として、子温は母の姿を見なおした。この壮烈な詞の作者が誰であるか、子温は知っていたのだ。他の者は知らぬか、忘れさっているのであろう。おどろくようすもなく見とれ、聴きほれている。   靖康《せいこう》の恥、なお未《いま》だ雪《すす》がず   臣《しん》子《し》の恨《うらみ》、何《いず》れの時にか滅せん   長車《ちょうしゃ》に駕《の》り、賀《が》蘭山《らんさん》を踏破して欠《ゆ》かん   壮志、飢えて餐《くら》うは胡《こ》虜《りょ》の肉   笑談、渇《かっ》して飲むは匈奴《きょうど》の血   従頭《あらた》に旧山河を収拾《とりもど》すを待ち   天闕《てんけつ》に朝《ちょう》せん  梁紅玉が舞い終え、歌い終えて一礼しても、しばらくは声を出す者もなかった。酔ったような沈黙は、しばらくしてようやく破れた。 「みごと、みごと!」  手を拍《う》って賞賛したのは皇太子である。それにつづいて満座が拍手した。拍手しなかったのは子温だけである。彼は冷たい汗を掌《てのひら》に滲《にじ》ませて、来《きた》るべき事態を待っていた。彼だけは母の味方をしなくてはならぬ。  拍手の波がおさまると、皇太子が下問した。 「いまの詞は楊国夫人の作か」 「いえ、他に作者がおります」 「では作者の名は?」 「姓は岳《がく》、名は飛《ひ》、字は鵬挙《ほうきょ》と申します」  満座が息をのんだ。岳飛の名誉はいまなお回復されておらず、公的には大逆の罪人のままである。その罪人がつくった詞を、梁紅玉は皇太子の御前で歌い、舞いあげたのであった。何という大胆さか。文官も武官も舌を巻いて老婦人を凝視した。  だが梁紅玉の大胆さは、無謀なものではなかった。彼女は夫とともに四万人の将兵を指揮し、軍団を経営してきたのである。勝算というものを知っていた。秦檜の死、金軍の侵攻、張浚の復帰。事態のすべてがひとつの方向にむかい、そこに皇太子が立っていることを知っていたのだ。岳飛の名誉を回復し、亡《な》き夫の無念を償《つぐな》う機会はいまこのときである、と、彼女は確信していた。  ゆったりとした微笑が皇太子の顔にひろがった。彼は列席の文官武官を見わたすと、朗々たる声で告げた。 「諸君に望む。靖康の恥を雪《すす》ぎ、諸君らの功を引っさげて天闕《てんけつ》に朝《ちょう》せよ」  岳飛の詞を引用した。靖康の恥を雪ぐとは、三十数年前に金軍の虜囚《りょしゅう》となった徽宗と欽宗の復讐をとげる、ということである。天闕に朝するとは、朝廷に参上する、ということである。列座の大臣や将軍たちはさとった。この皇太子が即位した後、岳飛の名誉は回復され、蓄積された不正の多くがただされるであろう、と。 「黒蛮竜《こくばんりゅう》は、近く金国に真天子が登場するといっていたけど、どうやら本朝《わがくに》でもそうらしいね。ありがたいことだ。お前の阿爺《とうちゃん》も安心してくれるだろう」  席にもどった梁紅玉がささやき、子温はうなずくばかりであった。  翌日、子温は虞允文とともに兵士をひきいて建康府を発《た》った。梁紅玉は皇太子のもとに残留した。このとき子温が手にした「夫戦勇気也《それたたかいはゆうきなり》」の軍旗は、梁紅玉が文字を刺繍《ししゅう》したものであると伝えられている。  一方、長江の北岸では金の陣営が勝利に沸きかえっていた。とはいえ、完顔亮ほどには将軍たちは喜べなかった。前面で勝っても、本国の後方が不安なのである。  前年から契丹族の大叛乱がつづいていた。  彼らにとっては、民族の存亡を賭けた叛乱であった。完顔亮が契丹族の壮丁《そうてい》(成年男子)を伐宋《ばつそう》軍の兵士として根こそぎ徴兵しようとしたため、不満と不安が爆発したのである。乾いた野に火を放つごとく、叛乱は一挙に拡大し、万里の長城の北方は中央政府の統制から解放されるかと思われた。  このため亮は、白彦恭《はくげんきょう》、※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈《きっせきれつ》志《し》寧《ねい》、完顔《かんがん》穀《き》英《えい》らの将軍たちを派遣して叛乱の鎮圧にあたらせたが、必死の抵抗にあって、戦果はあがらなかった。  その直後に宮廷内で惨劇が生じる。亮の伐宋を諫《いさ》めた皇太后が亮に殺されたのだ。この女性は亮の生母ではないが、亮の父親であった大《ター》太《ター》子《ツ》宗幹《そうかん》の正妻であったので、皇太后の称号を受けていた。殺された皇太后は宮中ですぐに火葬され、遺骨は河に放りこまれた。同時に、皇太后につかえていた侍女十数名も殺された。  伐宋を諫めた廷臣は、つぎつぎと殺された。蕭禿刺《しょうとくらつ》、斡《アツ》盧保《ロホ》、僕散師恭《ぼくさんしきょう》、蕭懐忠《しょうかいちゅう》といった人々である。なかには族滅《ぞくめつ》された人もいた。宰相の張浩《ちょうこう》は殺されなかった。彼が死ねば、金の国政はとどこおってしまうからだ。かわりに彼は杖《じょう》で打ちすえられ、半死半生の状態で宮中から運び出された。  伐宋戦に反対する行動は、宮廷外において、より激烈であった。軍隊からは脱走者があいついだ。ひとりで逃げ出す者もいれば、千人単位で堂々と旗をかかげて離脱する者たちもいた。伐宋の大軍は南へ向かったが、脱走者たちは反対方向へと馬を走らせた。彼らは昂然として宣言した。 「我《われ》輩《ら》いま東京《とうけい》へ往《い》って新天子を立てん」  東京へ往って新天子を立てる、というのは、東京留守《とうけいりゅうしゅ》たる完顔雍を皇帝として推戴《すいたい》するということであった。衆望のおもむくところ、焦点に雍が立っている。これでは伐宋どころではない。遠征の間に国を奪われてはおしまいではないか。そう考えている廷臣《ていしん》たちにむかって、亮は言い放った。 「予《よ》は軟弱な宋人ではない。言論をもって士《し》大《たい》夫《ふ》を殺すぞ」  もはや誰も何もいわなくなった。  自分の威を廷臣どもが恐れたのだ。そう思って、亮は快適な気分にひたった。だがそうではない。廷臣たちが亮を見放したのである。そのことが亮にはわからなかった。亮以外のすべての人間にはわかっていたのに。  漢文化に対する亮の傾倒は甲冑《かっちゅう》にもおよんでいた。亮のまとった甲冑には、女真族の風《ふう》はまったくない。中華帝国の天子が親征するにふさわしく、伝統の粋《すい》をこらした絹の戦袍《せんぽう》と白銀の甲冑であった。冑《かぶと》には燦然《さんぜん》たる紅玉を両眼にはめこんだ竜の彫刻がほどこされており、雄《ゆう》偉《い》な長身に華麗さを加えていた。  亮が宋の征服に成功すれば、彼は北方民族の王者として中華帝国全土を支配する、歴史上最初の英雄となるであろう。その華麗な姿は、すでに亮の脳裏にはっきりと描きだされていた。しかも極彩色で。     三  老雄劉の静かな作戦は成功していたといえるであろう。ほとんど損害なしに淮河を渡り、長江北岸に達した完顔亮は、覇者としての自信を肥大化させる一方だった。ほどなく江南は亮の手に落ち、膨大な富と高度の文化が彼のものになる。そうなれば万が一にも、東京で雍が叛《そむ》いたとしても、恐れるものはない。六十万の軍を反転させ、一撃に雍を討ち滅ぼすだけのことだ。  このとき金軍六十万を指揮する主要な将軍といえば、完顔昂《かんがんこう》、李《り》通《つう》、烏《う》延《えん》蒲盧《ほろ》渾《こん》、徒《と》単貞《たんてい》、徒《と》単永年《たんえいねん》、完顔《かんがん》元《げん》宜《ぎ》、蘇保《そほ》衡《こう》、許霖《きょりん》、蒲《ほ》察《さつ》斡論《あつろん》といった面々である。兵士もそうだが指揮官たちも、女真族、漢族、契丹族などの混成であった。  完顔亮は伝統的な中国文化に心酔《しんすい》していたから、行政や文化で漢族を重んじた。また軍事的には契丹族を重んじた。契丹族を弾圧し、彼らの叛乱に悩まされているはずなのに、彼らを重んじた。完顔元宜などはもとも遼《りょう》の貴族であったのに、金の皇族と同じ完顔という姓を、亮から与えられたのである。 「あいつらはおれに感謝しているはずだ」  亮はそう信じていた。彼の想像力は、どこか偏《かたよ》っており、自分が怨《うら》まれているだろうとは、なぜか考えられないのだった。  亮にとって、すべてがうまく運んでいるはずであったが、思いもかけぬ事態が彼に冷水をあびせた。 「宋の呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]、十万の兵をもって秦嶺《しんれい》をこえ、京兆府《けいちょうふ》を衡《つ》かんとす。願わくは援兵《えんぺい》を送られんことを」  悲鳴に似た急報が、この方面における金軍司令官|徒《と》単《たん》合《ごう》喜《き》からもたらされた。彼の正式な官職名は、西蜀道行営兵馬《せいしょくどうこうえいへいば》都《と》統制《とうせい》といい、副将の張中彦《ちょうちゅうげん》とともに、四《し》川《せん》方面へと向かっていた。ただこれはあくまでも陽動が主で、宋が戦力を長江下流に集中させたときのみ、隙を見て四川へ侵入する予定であった。それが意表をついて、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]のほうから出撃してきたのである。これは、むろん、かつて梁紅玉や子温と呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]との間で話しあわれ、立案されていた作戦行動であった。  呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]がめざす京兆府とは、唐《とう》代の国都|長安《ちょうあん》のことである。ここが陥落すれば、それより西の広大な領土がすべて失われることになる。歯ぎしりして、亮は十万の兵を割《さ》き、京兆府へ急行させた。  一方、建康府にほど近い長江南岸に到着した虞允文と子温は、危機的な状況を目《ま》のあたりにしていた。 『宋史・虞允文伝』にいう。 「我師三五星散、解鞍束甲坐道旁、皆権敗兵也」  わが軍の兵士たちは、隊列もつくらず、こちらに三人、あちらに五人と星座のように散らばっていた。乗馬の鞍《くら》をはずし、甲《よろい》をぬいで道ばたにすわりこんでいる。彼らは全員、王権の部隊の敗残兵であった。  虞允文は李顕忠の到着を待つつもりであったが、このまま時間を浪費してはいられぬ、と判断した。子温とともに麾下《きか》の全軍に出動を命じる。甲冑をまとい、馬に乗って出発しようとすると、朝廷からしたがってきた文官のひとりが意見した。 「公のご任務は兵を犒《ねぎら》うことであったはず。直接、兵を指揮せよとの命は受けておられますまい。よけいな責任を負わされることになりますぞ」 「国が滅びたら責任を追及する者もおらんよ」  というのが虞允文の返答であった。  やがて、金軍の勢力圏から脱出してきた諜者が虞允文のもとへきて、つぎのように報告した。  長江の北岸に、高い台座が築かれ、四本の軍旗が立てられている。天子の所在を示す黄色の屋根がかけられ、完顔亮らしき人物が豪奢《ごうしゃ》な甲冑をまとって椅子にすわっている。白と黒とが斑《まだら》になった馬を犠牲として天帝にささげ、近日、大挙して長江を渡るつもりらしい。最初に渡河に成功した兵士には、黄金一両を与えるとの布告が出たという。 「黄金一両とは吝嗇《けち》ですな」  子温が苦笑すると、同じ表情で虞允文がうなずいた。 「どうやら女に費用《かね》がかかりすぎて、男にはまわらないといったところですな」  これは子温たちの偏見とはいえない。金軍の陣営では、亮の吝嗇が怨《えん》嗟《さ》の的《まと》になっていた。蕭遮巴《しょうしゃは》という士官が、「我々がいくら苦労しても、江南の美女と財宝はすべて皇帝が独占してしまうのだ」と語っている。聞く者はみな同感だったので、密告する者はいなかった。  このとき諜者の報告では、金軍の実数は四十万。宋軍はといえば、虞允文と子温の指揮下に一万八千でしかなかった。なお『宋史』によれば、金軍の馬の数は兵士の二倍に達したというが、この記述はやや誇大にすぎるかと思われる。それでも宋軍よりはるかに多かったことは事実で、数十万頭の馬が天高く砂塵を巻きあげ、冬の陽も翳《かげ》るほどであった。  諜者の労を犒って、子温たちは顔を見あわせた。 「それにしても、六十万の兵がどうして四十万にまで減ったのか。十万が四川方面へ転進したのはわかっているが」  不思議がっていると、またべつの諜者からの報告があった。金軍は淮河を渡った直後、十万の兵を割いて東方海岸の方向へ出撃させたのだ、という。これには虞允文も子温も腕を組んで考えこんでしまった。いったい何ごとがおこったのであろう。  金軍が建国以来はじめて大規模な水軍をつくったことは、すでに知れている。十万の兵を海岸に送って軍船に乗せ、東方海上を南下して一挙に海から杭州臨安府を衡くつもりであろうか。それなら最初からそうしそうなものだが。見当もつかぬまま、さらに調査をつづけることにしたが、一方、べつの心配もある。 「予定以上に兵力が集まりそうでござるよ、子温どの。ただ無計画に増えても、兵に食わせるものがござらぬでな」 「どうなさるおつもりですか」 「糧食がなくならぬうちに勝つしかござらぬな。どうにも難儀なことで」  虞允文は奇妙な男である。事態が深刻になればなるほど、表情が弛《し》緩《かん》するようだ。  南方からつぎつぎと援軍が建康府に到着している。出発した、という報告が先にきたものをあわせると、総数で二十万をこしそうであった。かつて虞允文は高宗に「動員可能な兵力は十八万人」と言上している。それを超過しそうな勢いであるが、あまり喜んでもいられないのだった。  最初に到着したのは成閔であった。かつて韓世忠のもとで勇名を馳《は》せた男は、眉も髭《ひげ》も白くなり、頭は禿《は》げあがっていたが、筋骨はなおたくましい。子直に会うと、咆《ほ》えるような歓喜の声をあげて彼を抱擁《ほうよう》した。 「韓公子とごいっしょに金軍と戦えるとは、武人の本懐。ぜひとも完顔亮めの首をとって、地下《あのよ》の韓元帥に喜んでいただきましょうぞ」  そういって成閔は老眼に涙をたたえた。もともと気性の烈《はげ》しい人だが、老齢になってさらに感情が不安定になっているようである。今回の出征では、はやく前線に到着したいばかりに、豪雨のなかをむりに行軍して、増水した河で溺死者を出した。雨に打たれて発熱した兵士に強行軍をさせて、病死者も出した。たまりかねて抗議した兵士は斬られてしまった。ようやく前線に到着したものの、疲労と飢えとのために、成閔の部隊はすぐには戦力として役に立たない。こまったものだ、と思いつつ、やはり子温は旧知の老将をいたわらずにはいられなかった。なお成閔には十一人の息子がおり、全員が老父にしたがって参陣《さんじん》していた。長男が四十一歳、末《まっ》子《し》が二十二歳である。子温は全員に紹介され、名と字を告げられたが、とうてい憶《おぼ》えきれるものではなかった。  集まった兵を前に、虞允文が演説した。 「金国を建てた宿将たちは、すでに世にない。金国主は暴虐にして信望なく、兵は無名の師を忌んでいる。今日の金軍は昔日《せきじつ》の金軍ではない。弱点だらけだ」  このような場合、「じつは味方にも弱点はある」などと、よけいなことをいう必要はないのである。 「そもそも今回の戦役は、十九年前に成立した和約を金賊が一方的に破ってのもの。背盟《はいめい》破《は》約《やく》の罪は、天もこれを赦《ゆる》したまわず。天の理、地の利、人の和、ことごとく天朝《わがくに》にあれば、勝利はおのずとこちらのものだ」  虞允文が言い終えると、一瞬の間をおいて雲にとどくような喊声《かんせい》がおこった。すくなくとも士気は高いようだ、と、子温は思った。金主《きんしゅ》完顔亮の暴政は、宋人の多くが知っている。長江の要害で金軍を阻止せねば、国土は蹂躙《じゅうりん》され、妻子は殺され、家は焼かれ、その後に長く屈従の日々がつづくであろう。かつての抗金の義勇兵たちと同様、彼らは決意とともに起《た》ったのだ。  演説を終えた虞允文のもとへ、一通の書状がとどけられた。解任された将軍王権からのものである。完顔亮が王権に密書を送り、南下の兵力とともに金軍に降伏するよう勧告してきた、というのであった。 「おやおや、金主はどうやら情報が遅れているようだ」  笑った虞允文は、すぐに表情をあらためた。何やら考えこみ、子温と相談した後、筆をとって一文をしたため、使者を立てて金軍の大本営に送りとどけた。 「わが軍の王権はすでに更迭《こうてつ》され、李顕忠が後任となりました。ご存じのように、彼は四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》殿下より武勇を賞賛された人物です。采石《さいせき》磯《き》において、心より陛下を歓迎する所存ですので、一戦して勝敗を決していただきたいものです」 「願わくば一戦を以《もっ》て雌《し》雄《ゆう》を決せん」この文章を読んで亮は激怒した。一臣下の分際で大金国の天子に決戦をいどんでくるとは、何と生意気な奴か。しかもどうやら勝つつもりでいるらしい。あの老練な劉でさえ戦わずして退いたというのに、身のほど知らずめ。よかろう、一戦にして宋軍ことごとくを滅ぼし去ってくれる。  虞允文の挑発は完全に成功した。ただちに亮は全軍の渡河を命じる。それなりに体系化されていた伐宋戦全体の戦略構想を無視し、正面から渡河を強行しにかかったのである。     四  紹興三十一年十一月、こうして采石磯の戦がはじまる。それは建康府のすぐ近く、長江南岸の地名である。ここに金軍が上陸して橋頭堡《きょうとうほ》を確保すれば、翌日には建康府は金軍の包囲下におかれることになるのだった。  金軍の渡河作戦の総指揮をとったのは阿《ア》隣《リン》という将軍である。平原での騎馬戦にはすぐれていたようだが、準備が万全でないままに長江の渡河を命じられたのは不運としかいいようがなかった。そもそも金国が編成した水軍は東方の海上にあり、まだ長江に達していない。渡河に必要な軍船の数もたりぬまま、阿隣は作戦を実行にうつしたが、軍船の半数は幅八里におよぶ長江の流れを横ぎることすらできず、むなしく流れのなかを右往左往するありさまだ。  南岸にたどりついた金の軍船は、それでも七十隻を算《かぞ》えた。船上から梯《はし》子《ご》がおろされ、金兵がつぎつぎと浅い水を蹴って上陸してくる。そこへ矛先《ほこさき》をそろえた宋軍が、「殺《シャア》!」の叫びとともに襲いかかった。  雄《お》叫《たけ》びとともに金軍が応戦する。剣と盾《たて》とが激突し、矛と槍とがからみあい、怒号と悲鳴とがかさなりあい、血煙と水煙とが混じりあって、采石磯一帯の江岸は「土と水とを血がつなぐ」という凄惨な光景を現出させた。  冑もろとも首が地上に転がる。矛をつかんだままの手が血の尾を曳《ひ》いて水面にはねる。咽喉《のど》をえぐられた兵士が地に倒れ、笛のような音をたてて血を噴きだすと、その上を敵と味方がもつれあって踏みこえ、背骨のくだける音が刃鳴りにかき消される。眼前の敵を斬りたおした兵士が、背中を矛に突きぬかれて絶叫とともに横転する。剣のきらめきが光の帯となって宙を疾《はし》り、血の驟雨《しゅうう》をまきちらす。武器を失った兵が手で敵の首をしめあげる。盾が割られてはじけ飛び、甲《よろい》の亀《き》裂《れつ》から血と内臓がとび出す。地表は赤黒い泥濘《でいねい》と化し、長江からの風は血の匂いに満ちて兵士たちの頭上に渦まいた。一時、劣勢に立たされた宋軍が優勢に転じたのは、ひとりの男のすさまじい闘いぶりからであった。 「金賊を生かして還《かえ》すな!」  怒号したのは時俊《じしゅん》という武将だった。大軍を指揮するような器量はないが、勇猛で退くことを知らぬ男である。双刀《そうとう》をふるって敵中に躍りこみ、「殺《シャア》!」の叫びとともに、右に左に金兵を撃ちたおしていく。彼の背後には従卒《じゅうそつ》がおり、背中に籐《とう》を編《あ》んだ籃《かご》を背負っていた。籃には二十本もの刀がはいっている。刃こぼれや血《ち》糊《のり》で斬れなくなった刀を、時俊が放りだすと、従卒があたらしい刀を差しだす。それを受けとって、時俊はまたも敵兵を斬りたおすのだった。  さらに、風の動きを熟知する宋軍は、風上から硫《い》黄《おう》や石炭の煙を流して金軍を苦しめたともいわれる。  信じられぬほどの時俊の勇戦を凝視していた虞允文が、楼《ろう》の上で大きく采配《さいはい》をふるった。それを地上で見た子温が剣を抜いた。虞允文の合図を待って、これまで江岸を見おろす高地の上で待機していたのである。 「殺《シャア》!」  喊声をとどろかせて、子温は精兵二千人の先頭に立ち、斜面を駆け下った。戦い疲れた金軍の側面を衝いたのである。強烈な一撃が金軍に加えられ、金軍は隊形をくずして乱れたった。だがそれでも潰乱することはなく、かろうじて保ちこたえた。  黄金の耳《みみ》環《わ》をつけた戦士が、まず子温の剣に斬り伏せられた。左から突きこまれた槍が、盾の表面にすべって火花を散らす。子温は手首と腰を同時にひねり、横なぐりの一撃でその敵兵の首を宙に飛ばした。盾を激しく振って三人めの鼻梁《はなばしら》と前歯を打ちくだき、振りおろした刃で四人めの左肩をたたき割った。さらに刺《し》突《とつ》し、斬りたてるうちに、時俊と行きあった。いまや従卒の持つ刀をすべて使いはたしたこの男は、金兵から奪った剣でなお斬りまくりながら、切れ味の鈍さをののしっていた。  日が暮れてもなお死闘がつづいたが、落日の最後の余光が消えさった直後、無数の松明《たいまつ》が金軍の右側背《みぎそくはい》にまわりこむのが見えた。退路を絶《た》たれる、という不安に駆られた金軍は浮足《うきあし》だち、ついに撃退された。この松明は、虞允文が成閔のひきいる部隊に持たせたもので、実戦に参加する力を持たない彼らをいかに活用するか、虞允文は心をくだいたのである。  上陸を果たした金兵は一万五千余、戦死者四千余、捕虜五百余。宋軍の戦死者も二千を算《かそ》えた。大きな損失は受けたものの、ついに金軍の上陸を許さなかったのである。宋軍の勝利の原因は、地形的に有利な位置を占《し》めていたこと、上陸した金軍が馬を持たず歩兵戦に終始したこと、宋軍の戦意が金軍より高かったこと、等があげられるであろう。そして何よりも。 「まことに長江の流れは百万の兵に匹敵する」  虞允文が歎息したとおりであった。長江の流れが金軍を阻止《そし》しなかったら、数十万の兵が一挙に殺到して、宋軍を刀槍《とうそう》の洪水にのみこんでしまったにちがいない。  ようやく長江の北岸に生還した金兵たちは、ほとんどが負傷していた。援軍もないまま奮戦した彼らの労苦は報われなかった。にわかに信じがたいことだが、『宋史』によれば、完顔亮は敗北を怒り、生還した将兵を杖罪《じょうざい》に処した。多くの者が杖に打たれて死んだといわれる。 「近いうちに敵は再び攻撃してくる。戦勝の美酒に酔っているひまはないぞ」  三日後、虞允文と子温は、あえて戦力を二分した。成閔のひきいてきた兵も、数日の休養でようやく活力をとりもどし、戦力として計算できるようになっていた。かつて四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が得意としたように、戦いつつ長距離を移動する、というような離《はな》れ業《わざ》は不可能だが、一ケ所に拠《よ》って敵を防ぐていどのことはできるであろう。子温は二百隻の軍船に兵士を乗せ、夜の間に、ひそかに長江をさかのぼった。時俊がこれに同行した。虞允文のほうは、成閔とともに楊林口《ようりんこう》という土地に本営をかまえ、ことさら多くの軍旗を林立させて存在を誇示した。ひとりで左右の手に軍旗を持たされた兵士もおり、風が吹くと倒れてなかなか起きあがれなかったという。  さらに三日後、楊林口めがけて金軍は殺到してきた。上陸してきた金軍は約五万、河岸を埋め、槍先をそろえて突撃する。その勢いは先日にもまして烈しく、宋軍はささえかねて後退するかと見えた。 「退く者は斬るぞ!」  老将成閔は自ら大刀をふるって金兵と渡りあい、彼の十一人の息子たちが剣をとって、老いた父を守りつつ闘う。くずれそうに見えながら、宋軍はくずれない。  金軍はさらに猛攻をつづけたが、にわかに彼らの後方に黒煙があがった。子温のひきいる伏兵が起《た》って、金軍の後方を遮断し、火矢を飛ばして軍船に火を放ったのである。動揺するところへ、時俊のひきいる騎兵二千が側面攻撃をかけ、一挙に形勢は逆転した。  炎上した金の軍船は三百隻をこえ、戦死者は二万に達した。降伏した者も一万人をこえた。彼らは先日、死闘から生還した味方がどのような目にあったか知っている。陣に帰っても杖で打ち殺されるとあっては、降伏したくなるのは当然であろう。  この戦いの直後、葉義問は兵士や民衆を動員して、海岸近くに防御施設をつくらせた。金軍騎兵の突進を防ぐため、平地に壕《ごう》を掘り、「鹿角《ろっかく》」と呼ばれる尖《とが》った木の柵を設けて、「よし、完璧だ」と満足げにうなずいた。一夜が明けると、完璧なはずの防御施設は、跡形《あとかた》もなく消えていた。夜の間に満潮になって、おしよせた海水が引くときに、すべてを持ち去ってしまったのである。 「何と、あの大官は、どうやら潮に干満《みちひき》があることもご存じないらしい」  露骨に嘲笑されて、葉義問は完全に自信喪失した。これ以後、何か命令を下すたびに無視され、反発され、悄然《しょうぜん》として黙りこむだけになってしまう。  何とも気の毒なことだ、と、子温は思わざるをえぬ。葉義問は文官としては無能でも不誠実でもない。ただ、実戦を指揮するということは、儒学《じゅがく》の素養や詩文の能力などと無関係なのである。葉義問は官庁の奥で机に向かっていればよかった。最前線に立つよう命じたほうが悪いのである。  ある意味では、虞允文や子温にとっては事がやりやすくなった。彼らの判断や選択を、葉義問は妨害しようとしなかったから、正しいと思える策を迅速に実行することができるのだ。いまや辞表の文面ばかり考えている葉義問を本営の奥に飾っておいて、虞允文と子温はつぎの作戦にとりかかった。 「金軍が渡河攻撃してくれば、何度でも撃退するだけのことですが、味方の兵にも疲労が出てきますでな、子温どの」 「一度こちらからしかけてみますか、そろそろ」 「子温どのはやりたくてたまらぬようですな」 「彬《ひん》甫《ぼ》どのはやらせたくてたまらぬように見えますが」 「おや、見ぬかれましたか。ではしかたありませんな」  笑顔が出るのも、ここまで何とか戦況を主導できているからである。この四年間、「長江の天険《てんけん》を徹底的に活用して金軍を防ぎとおし、金国内で異変が生じるのを持つ、かならず異変がおきる」という方針のもと、長江と周辺地域の地形、水流、気象を研究しつくしてきた。その方針を変更する必要はないが、さらに一歩をすすめて、積極的に金軍の心理的動揺をさそうべき時機かもしれぬ。  宋の水軍都督である李《り》宝《ほう》が招かれ、虞允文らと協議した。李宝は河《か》北《ほく》の出身で、金国領となった故郷から脱出して宋軍に身を投じた男である。正規に武将としての教育を受けたのではなく、金軍に対する遊撃戦で自分自身をきたえあげた。百二十隻の軍船を保有しているが、いずれも大型ではなく、速度と軽捷《けいしょう》さにすぐれたものだった。三千名の部下も、正規の官軍出身ではなく、航海や海賊との戦闘で経験をつんだ義勇兵たちであった。  協議はすぐにまとまった。もともと以前から作戦は考案されているし、情報も集められている。実行の時機が測《はか》られていただけなのだ。即日、子温は李宝に同行して船上の人となった。     五  金の水軍は大陸の東方海上、唐島《とうとう》という島に集結していた。長江の河口から二百里ほど北上した、大陸沿岸の島である。後世、土砂の堆積《たいせき》によって完全に大陸の一部となってしまった。  冬十一月、海上は北風が強く、波が高い。夜の間にひとまず思いきって北上した李宝の船団は、石臼島《せききゅうとう》という島の蔭にひそんで、つぎの夜を待った。唐島までは海峡ひとつをへだてるだけである。海面に闇がおりると同時に、李宝と子温は船団を動かした。帆が強風をはらみ、ほとんど一瞬に金の水軍に肉薄する。海面に油を流すと、それは風を受け潮流に乗って、みるみる金の軍船をつつみこんでいった。  まさに火がつけられようとしたとき、暗い海面から呼びかける声がした。数|艘《そう》の小舟に乗った男たちが必死で呼びかけているのだ。漢語であった。 「我らは中原《ちゅうげん》の遺《い》民《みん》です。助けて下さい」  彼らはそう名乗った。中原の遺民とは、かつて黄河流域に居住していた漢族の人々である。金軍が侵入したとき、南方へ逃げおくれて、そのまま金国の支配を受けるようになった。女真族は水が苦《にが》手《て》だから、水軍には多数の漢族が徴用されていた。彼らは先夜、北上する李宝の船団を発見したが、口をつぐんで女真族には知らせなかった。宋軍に勝ってほしかったし、このさい自分たちも脱走して宋に帰順したかったのである。このあたりに、金軍の内蔵《ないぞう》する弱点があった。 「わかった、小舟をこぐなり泳ぐなり、甲冑をぬいで海岸で待機していなさい。あとで助けに行く。早くしなさい、もうすぐ金の軍船は火につつまれるから」  いそいで去っていく小舟を見送ると、李宝と子温はあらためて行動をおこした。火のついた松明《たいまつ》を海面に投じると、たちまち油に引火して、黄金色の竜が何匹も海面を疾《はし》った。その帯がみるみる金の軍船の群にとどく。金兵たちが気づいたとき、燃えあがる火の壁が彼らをつつんだ。  たてつづけに爆発が生じ、轟音が夜を引き裂いた。炎と黒煙とが海上に渦まき、火の粉が熱い黄金色の雨となって水面に降りそそぐ。真紅の怪鳥が何十羽も夜空にはばたく。それは燃えあがった帆布が柱から離れて宙へ舞いあがる姿であった。  交錯する光と闇とのなかを、李宝に指揮される宋軍の船艇は、急流を下る魚群さながらに疾りまわる。弩《おおゆみ》から矢を放ち、火《か》箭《せん》を撃ちこむ。敵船に近づき、斧《おの》や鉤《かぎ》で船腹に穴をうがつ。船と船との間に板を渡して仮橋とし、その上を走って斬りこんでいく。火と水に追われて金兵は恐慌におちいり、にわかに応戦することもできない。  ひときわ大きな軍船に接舷《せつげん》すると、子温は兵士たちをひきいて跳《と》びうつった。剣を抜いて敵の姿を探す。甲板上で大刀をかざして兵士を叱《しっ》咤《た》する武将が、彼の視線の先にいた。  それは金の将軍|完顔《かんがん》鄭《てい》家度《かど》であった。黒煙をあびて、顔が煤《すす》けている。子温の姿を見るや、大刀をかざして突進してきた。子温はむかえうった。最初の強烈な斬撃《ざんげき》を、身体を開いてかわすと、身体ごとぶつかるように剌《し》突《とつ》をくりだす。大刀に弾《はじ》き返された。巨大な炎の下で、小さいがあざやかな火花が散る。斬撃の応酬《おうしゅう》は十数合におよんだが、高々と大刀を振りかぶったとき、完顔鄭家度に隙ができた。  子温の剣が完顔鄭家度の左|鎖《さ》骨《こつ》の上方をつらぬいた。勢いよく剣を引きぬくと、くぐもった叫びとともに、血が奔騰《ほんとう》して、完顔鄭家度は甲板上に横転し、ふたたび起《た》つことはなかった。  指揮官の戦死によって、金軍は完全に秩序を失った。絶望して海中に身を投じる者、剣をすてて投降する者、最後まで槍をふるって戦死する者。混乱をつつみこんで、炎はいよいよ明るく、闇はいよいよ暗かった。  一夜にして、戦死および溺死した者は二万人。捕虜となった者は三千人。炎上した軍船は八百隻。金の水軍は潰滅《かいめつ》し、軍船を焼く炎は四昼夜にわたって消えることがなかった。  暁《あかつき》の最初の光が海面を照らしだすころ、ただよう死体、木片、旗などのなかを横ぎって、子温は海岸に船を寄せた。海岸に泳ぎついた中原の遺民たちを収容するためである。充分に用心した。金の領土内であるから金兵がいる可能性は当然あったのだ。遺民たちを収容していると、にわかに彼らが騒ぎだした。北の方角を指さして叫びたてる。  見て、子温はおどろいた。神話に登場するような奇怪な猛獣が十頭ほども近づいてくるのだ。両眼は青く赤く光を発し、牙をむいた巨大な口から炎を吐き、咆哮《ほうこう》とも悲鳴ともつかぬ異音をとどろかせる。思わず子温は、部下に弩の斉射を命じるところであった。それを思いとどまったのは、異音の正体が車輪のひびきであることに気づいたからである。そのひびきがやむと、停止した怪獣の影から、武装したひとりの男があらわれた。 「天朝の軍でござるか」 「いかにも大宋の官軍だが、おぬしはいったい何者だ」  子温の声を聴くと、男は駆けるように進み出て、砂上に平伏した。あわてて子温が助け起こし、名と事情を問うと、男は大声で答えた。 「それがしは淮陽《わいよう》の住人にて、姓を魏《ぎ》、名を勝《しょう》、字《あざな》を彦《げん》戚《い》と申します。生きて官軍に再会でき、これにすぎる喜びはございませぬ」  怪獣と見えたものは、一台に五十人もの兵士を乗せた戦車であった。獣面をかたどった木牌《きのたて》を正面に立て、とがった杭《くい》を前方に突き出し、牛の革をかさねて矢を防ぐ。車内で機関《からくり》を動かして車輪を回転させるのだ。  魏勝《ぎしょう》はこの年四十二歳。無位無官の民間人ながら、義勇軍をひきいて、金の国内で何ヶ月も遊撃戦を展開している人物であった。智勇ともにすぐれ、大刀と弓の名人であり、兵器製造にも才能があった、と、『宋史・魏勝伝』は記す。  山東半島の西南に海州《かいしゅう》という城市《まち》がある。後世の、連雲港《れんうんこう》という都市の近くである。金国にとって重要な港市だが、完顔亮が伐宋の軍を起したと聞くと、魏勝は三百人の義勇兵をひきいて、金国内に逆侵入し、海州城を奪取してしまったのである。城を守っていた渤海《ぼっかい》人の将軍|高文《こうぶん》富《ぷ》は捕虜となった。この年六月のことである。  おどろいた金軍は十万の兵を割いて海州城を攻囲した。この城を放置しておけば、金軍が長江を渡るとき後背《こうはい》を衝かれかねない。かくして激烈な攻防戦が展開された。付近の漢族住民が金軍を恐れて逃げこんできたので、食糧が不足して長くは保《も》つまい。そう思われていたのだが、魏勝は奇略縦横、じつに二十度にわたって金軍を撃退した。そして、昨夜、城壁から海上の猛火を発見し、宋軍が来たことを知って、彼が発明した戦車で金軍の包囲を突破し、援軍を頼みに来たのである。  これほどの魏勝の奮戦を、宋の朝廷はまったく知らなかったのだ。だが、魏勝の出現で事態が判明した。「金軍が十万の兵を割いて海岸方向へ出撃した」という諜者の報告は、このことであったのだ。  子温は魏勝を軍船に乗せ、李宝とともに建康に帰還した。ただ一夜に金の水軍を潰滅させ、十万の敵兵力を無力化した彼らの功績は大きい。子温は魏勝を張浚に引きあわせた。  張浚は決断がはやい。ただちに人事権を行使して、魏勝に官位を与えた。山東《さんとう》路《ろ》忠《ちゅう》義《ぎ》軍《ぐん》都《と》統制《とうせい》、そして海州《かいしゅう》路知事《ろちじ》である。魏勝は感激して厚く謝辞を述べたが、祝宴には参列せず、すぐに建康を去った。彼がいなければ海州城をささえることはできないのであった。  この後、魏勝は海州および楚州《そしゅう》に駐屯し、三年後に戦死するまで、金との最前線に立ちつづけた。彼は部隊が撤退するとき、かならず自分自身で最後衛をつとめたが、ある日、「おれは今日の戦いで死ぬような気がする」と語り、そのとおりになった。いつものように最後衛をつとめ、追撃する金軍の矢を受けて死んだのである。四十歳をすぎるまで無名の民間人として生き、死ぬ直前の三年間に、宋の勇将として歴史に名を残した。「山東魏勝《さんとうのぎしょう》」と書かれた軍旗を見ると、金軍はあえて戦うことを避けるといわれた、異色の武将であった。  なお、魏勝が考案した兵器のいくつかは、朝廷によって正式に採用され、官軍によって大量に生産使用されるようになった。  唐島において金の水軍が全滅した。その兇報がもたらされたとき、完顔亮は怒声とともに黄金の杯を使者の顔にたたきつけた。顔を血まみれにして退出した使者は、殺されずにすんだことを天に謝したといわれる。楊林口で三百隻が焼かれ、唐島で八百隻が覆滅《ふくめつ》し、金軍は保有する軍船の九割を喪失した。「年内に長江を渡り、杭州臨安府を陥《おと》す」という亮の計画は、実現から大きく遠のいたように見えた。否、それどころではなかった。 「東京留守完顔雍、叛《はん》す!」  その報が北方からとどき、金軍の将帥《しょうすい》たちは表情を凍らせた。 [#改ページ] 第十章 長江無尽《ちょうこうむじん》     一  東京留守完顔雍《とうけいりゅうしゅかんがんよう》、すでにして帝《てい》を称し、年号をあらためて大定《たいてい》とさだむ。その報を受けたとき、金主完顔亮《きんしゅかんがんりょう》は怒った。ただ、その怒りの質が、臣下たちの予測とはややちがった。 「雍め、剽窃《ひょうせつ》しおった」  おどろいて、伐宋《ばつそう》軍の士官たちは皇帝の怒りを見守った。 「大定という年号は、おれが考えたのだ。宋《そう》を滅ぼし、天下をことごとく平定してから改元するつもりでいたのに、奴めは、おれが考えていた年号を偸《ぬす》みおったのだ!」  沈黙したまま見守る士官たちを相手に、亮は従弟《いとこ》をののしりつづけた。 「もともと奴は、いつもおれの後をついてくるだけの、つまらぬ男だった。今回とて、見よ、おれが燕京《えんけい》や開封《かいほう》を遠く離れて|るす《ヽヽ》にした隙に、こそこそ旗を立ててみせただけのことではないか。見ておれ、今年のうちに偽《ぎ》帝《てい》めを車裂《くるまざき》にしてくれるわ」  豪快に亮は笑ったが、将軍たちのなかで呼応して笑う者は誰もいなかった。  それは十月七日のことであった。雍を支持する金の将軍たちは、東京府城の周辺に集結し、城内の雍の親衛隊と呼応して、一挙に突入したのである。  激烈な市街戦が展開されたが、それも長くはつづかなかった。副留守高存福《ふくりゅうしゅこうぞんふく》麾下《きか》の兵士たちは、ほぼ半数が武器をすてて投降し、残る半数のほとんどは武器を持ったまま高存福に背《そむ》いた。むしろ先頭に立って、彼らは副留守に刃《やいば》を突きつけたのである。 「裏切者どもめ!」  という高存福の叫びに、その兵士たちは答えた。 「悪をすてて善についたのだ。汝《なんじ》もそうしたらよかろう。それとも暴君に殉《じゅん》じて死ぬか」  高存福はうめいた。彼は最初から亮の密偵として雍を監視していた。さらに彼の娘は後宮《こうきゅう》にはいって亮の寵愛を受けていた。二重に亮の縁者であり、いざとなればためらうことなく雍を暗殺するつもりでいた。いまさら雍に跪《ひざまず》くことなど、できようはずもない。  絶望の叫びとともに高存福は走り、城壁の上から身を投げた。陰暦の十月である。北方の東京府|遼陽《りょうよう》城では鉛色の空に粉雪が舞っていた。冷たい大地に倒れて動かぬ高存福に、視線を向ける者は誰もいない。数万の将兵は、城壁上に姿をあらわした雍を仰《あお》ぎみて、剣や槍を高々と天へ突きあげ、「万歳万歳万万歳《こうていへいかばんざい》!」と叫んでいた。  その日のうちに雍は即位して皇帝を称した。これが金の世宗《せいそう》皇帝である。ときに三十九歳の壮齢《そうれい》であった。  この日のために幾年も考えぬき、冷遇に耐え、暗殺を警戒し、準備をととのえてきたのだ。ただちに世宗は亮に対する弾劾《だんがい》文を発表し、十八の大罪について責任を追及した。  この「十八カ条の罪」のなかに、遼《りょう》の海浜王《かいひんおう》(天《てん》祚《そ》帝《てい》)や宋の天水郡公《てんすいぐんこう》(欽宗《きんそう》)を殺害した、ということが記されている。その他、先帝の煕《き》宗《そう》を弑逆《しいぎゃく》したこと、多くの皇族を殺し、その妻や娘を姦《おか》したこと、重税と労役で数千万の人民を苦しめたこと、などが列挙されていた。  雍こと世宗の新政権は、当座は武将たちを中心に発足した。完顔謀衍《かんがんぼうえん》、完顔福寿《かんがんふくじゅ》、高忠建《こうちゅうけん》、廬《ロ》万《バン》家奴《カド》らがその陣容である。いずれ世宗は、亮の重臣たちのなかから、才能と識見とを具《そな》えた者を新政権に迎えるつもりであった。張浩《ちょうこう》、※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈良弼《きっせきれつりょうひつ》、僕散忠義《ぼくさんちゅうぎ》などである。彼らのような名臣がいたのに、亮は彼らを用いず、ついに国を失うに至った。自分はけっしてそのような愚行はしない、と、暗い冬空を見あげて、雍はあらためて自らに誓ったことであろう。そして彼を仰いで「万歳」をとなえる軍民のなかに、阿《あ》計替《けいたい》などもいたことと思われる。  国内の危機を直視することなく出征してきた亮は、陣中にも多数の妃や女官をともなっていた。一日も女性なしではいられぬ亮である。これまで北方の女性ばかりを相手にしてきたが、宋を滅ぼせば、洗練された江南の美女たちをほしいままにすることができるのだ。それこそ人生の快事だ、と、亮は思っていた。  燕京にいたとき、亮は後宮で一夜のうちに幾人もの美女を幸《こう》することがめずらしくなかった。房室《へや》から房室へと移動するとき、長い長い廊下の各処に女官をすわらせておき、その膝《ひざ》の上に腰をおろして休息するのだ。 「天子さまはなぜそんなにまで苦労なさるのですか。お疲れでしょうに」  高実《こうじっ》古《こ》という女官に問われたとき、汗を拭《ふ》きながら亮は答えたという。 「天子になるなど、予《よ》にとっては容易なことだ。だが、一夜に幾人もの美女を抱く機会は、めったにあるものではないからな。ま、これも天子のつとめだ」  このような逸《いつ》話《わ》を読むと、亮は、まじめ一方でおもしろみのない従弟の雍に較《くら》べて、はるかに興味深い人物であるように思われる。おそらく、おもしろすぎる人物は、天下の主にはふさわしくないのだろう。おもしろい暴君に殺されるより、おもしろさに欠けても良心的な統治者の下で平和に生きたい、と民衆が考えるのは当然のことである。  世宗皇帝完顔雍は、歴史上、「小堯舜《しょうぎょうしゅん》」と呼ばれる。堯と舜とは、ともに古代伝説の聖王であり、彼らに喩《たと》えられるほどの善政を、世宗は布《し》いたのである。いわば世宗は聖人であり、聖人の伝記がおもしろくないのはどうしようもないことである。煕宗と亮と、二代にわたる皇帝が国を傷つけ、死の寸前に追いやった。世宗の責務は、医師として国を癒《いや》すことであった。私心をすてて国を療すことに成功した世宗は、その個性ではなく業績によって評価されるべきであろう。狩猟に出たとき、廷臣が、子を孕《はら》んだ兎《うさぎ》を射《い》たので、「何と無慈悲なことをするのか」と怒ってその廷臣を罰し、以後ついに兎の猟を禁じた、ということぐらいが、この聖王の逸話である。  さて、完顔亮は再三の大敗にもめげず、なお三十万をこす大軍をひきいて長江の北岸を東へ移動した。そして揚州《ようしゅう》城に入城したのであるが、府庁の前に来たときである。 「何だ、これは。この文章は!」  亮の声が憤怒にひきつった。彼の視線を追って、士官たちは唾《つば》をのみこんだ。   完顔亮死於此  宋の老雄|劉《りゅうき》の筆になる六つの文字が、白い壁に黒々と躍っている。文章も不吉なら、亮を「大金国皇帝」どころか「金主」とすら書かず、本名を呼びすてにしているのは、無礼もはなはだしい。むろん劉は最初から亮を怒らせるために書いたのである。 「府庁を焼け」  と、亮は怒号したが、北風の強い時期である、大火となるのを配慮して、さすがに放火命令を取り消した。かわりに三百名の兵士に命じ、府庁の白い壁を黒く塗《ぬ》りつぶすよう命じた。大量の墨《すみ》がすられ、桶《おけ》にいれられた。寒風にさらされながら兵士たちが壁面を塗りはじめると、亮は将軍たちをかえりみて告げた。 「近くの烏《う》江《こう》には西《せい》楚《そ》の覇《は》王《おう》の廟《びょう》があると聞く。ぜひ立ちよって拝礼したい」 「西楚の覇王」とは項《こう》羽《う》のことである。用兵の天才であり、中華帝国の歴史上、勇猛さという点において、おそらく比肩しうる者はいないであろう。虞《ぐ》美《び》人《じん》との恋や、壮絶としかいいようのない最期、「四《し》面《めん》楚《そ》歌《か》」などの故事により、その名は異国人にも親しい。  亮は詩人である。ことに悲壮美を愛し、英雄にあこがれる詩人であった。項羽の廟があると聞いては、とうてい看《かん》過《か》することはできなかった。  かくして亮は数万の将兵を引きつれて烏江の覇王廟へと向かった。千四百年前の英雄を祀《まつ》るためにつくられた廟は宏壮で、建築材料も高価そうだが、金軍の侵攻におびえた番人が逃げだしてしまい、手いれがいきとどかず、やや荒涼たる印象があった。すぐに亮は兵士たちを動員して清掃させた。廟の内部にはいると、等身大の項羽の画像が壁にかけられている。かなり|でき《ヽヽ》のよい画像であったらしく、亮はながめて歎賞した後、香を焚《た》いてあらためて拝礼した。詩人である彼は、このとき感懐《かんかい》を託《たく》して詩をつくったようだが、それは後世に伝わっていない。 「英雄、惜しむべし、惜しむべし」  大声をあげて歎じると、亮は涙を流しはじめた。項羽の劇的な生涯に想いを馳《は》せ、虞美人との別離などかずかずの情景を脳裏に描くと、感情の豊かな彼は泣かずにいられぬ。 「覇王の雄《ゆう》志《し》は、この亮が受けついで天下を統一いたす。照覧《しょうらん》ありたし」  だが感動の大波におぼれているのは亮ただひとりで、周囲の文官も武将も白《しら》けきっている。皇帝が地上にならびない自己陶酔家であることを、彼らは知っていた。それに第一、自分を項羽に喩《たと》えるなど、不吉もきわまる。項羽はたしかに絶代《ぜつだい》の英雄、蓋世《がいせい》の天才であったが、結局、漢の高《こう》祖《そ》に敗れて死んだではないか。そう思いつつ、口に出していう者は誰もいないのであった。  満足して覇王廟を出ると、亮は揚州にもどった。府庁の壁が黒く塗られているのを見て、「よし」とうなずき、城外西南の瓜《か》州《しゅう》渡《と》というところに大本営を設置した。そこは長江の豊かな流れを眼下に見おろす場所で、まことに風光|絶《ぜっ》佳《か》の土地である。 「黄天蕩《こうてんとう》といい和尚原《わしょうげん》といい、三文字の地名は金軍にとって不吉だ。采石《さいせき》磯《き》も揚林口《ようりんこう》も三文字だったではないか。瓜州渡もよい名とはいえぬぞ」  いささか迷信じみた不安の声も、亮の耳にはとどかない。大本営にまず運びこまれたのは、三百人をこす後宮の美姫たちと、彼女らの調度や化粧品、衣服などであった。亮は美女の群にかこまれながら、この大本営で、長江の水上に展開される宋金両軍の死闘を悠々と見物するつもりであった。     二  采石磯、揚林口と敗北をかさねる金軍の指揮官たちは、亮のように人生を楽しんではいられなかった。  ひときわ金軍を緊張させたのは、李顕忠《りけんちゅう》と楊折中《ようきちゅう》についての情報であった。彼らは虞《ぐ》允文《いんぶん》や子《し》温《おん》のような無名の新人ではない。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》や岳《がく》飛《ひ》や韓世忠《かんせいちゅう》らが戦場を駆ける「英雄たちの時代」を生きぬいてきた宿将である。彼らの名を聞いて、金軍は緊張せずにいられなかった。  李顕忠は約二万の精鋭をひきいて虞允文らに合流した。正確には一万九千八百六人である。そこまで正確に判明しているのは、『宋史』に記述されているからだが、無傷の精鋭をそろえた李顕忠の存在は金軍にとってただならぬ脅威であった。  楊折中のほうは、水軍をもひきいて虞允文と合流した。采石磯の高台に立って部隊を閲兵し、水軍に演習をさせた。長江の流れのただなかに軍船を集結させたのは、金軍に対する示威《じい》である。この演習には、みごとな効果があった。北岸で見守る金軍の前で、三百隻の軍船が上流へ下流へ、鳥が舞い飛ぶごとく疾《はし》りまわり、一糸みだれぬ統率と操船《そうせん》の妙を、金軍に見せつけたのである。 「あの動きを見たか」  金の将兵たちはささやきあった。宋の軍船の動きは、彼らを驚歎させるに充分だった。ただひとり、おどろかなかったのは皇帝の亮だけである。彼は黄金の鞍《くら》をつけた馬に騎《の》って見物していたが、やがて嘲笑《ちょうしょう》とともに吐きすてた。 「紙《し》船耳《せんのみ》」  あんなものは紙の船も同様だ、実戦の役になどたつものか。  そう言い放ったのは、自信か驕慢《きょうまん》か。いずれにしても兵士たちにとって、さして励ましにはならなかったようだ。水上戦において金軍は宋軍に劣等感をいだいている。かつて女真《じょしん》族の武《ぶ》神《しん》ともいうべき四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が、黄天蕩において韓世忠に敗れた、という忌《い》まわしい記憶もある。つい先日も、東方海上で水軍が潰滅《かいめつ》したばかりではないか。  不安を禁じえずにいるところへ、またも兇報がもたらされた。李顕忠は前線に着くと早くも軍船をしたてて、揚州より百里ほど上流で長江を渡ったというのである。  あわてて金軍は李顕忠の速攻にそなえようとしたが、横山澗《おうさんかん》という谷川で李顕忠と遭遇した金軍二万は、ほとんど一瞬で撃砕されてしまった。馬上で大刀をふるう李顕忠は、金の将軍|韋《い》永寿《えいじゅ》を脳天から顎《あご》までたたき割って即死させた。韋永寿の僚友である将軍|頓遇《とんぐう》は、李顕忠の部下|張振《ちょうしん》の矢を受けて重傷を負《お》った。彼はかろうじて敗残兵をまとめ、戦場を離脱したが、このまま本軍に合流しても敗戦の責任を負って殺されるだけだ、と考え、北方へ向かって姿をくらましてしまった。  李顕忠はほとんど無傷のまま、西から金軍の補給路をおびやかす態勢にはいった。  あいつぐ兇報に、完顔亮の眉が勢いよくはねあがった。彼は覇王廟で天下統一を項羽の霊に誓ったのだ。それがこうも負けてばかりでは、心楽しかろうはずがなかった。加えて、北からは、即位した雍が着々と勢力を強化しつつある、と伝えてくる。ついに亮は激発した。大本営に士官たちを集めたのだ。 「三日だ」  亮の宣告がとどろきわたった。 「三日間だけ猶《ゆう》予《よ》をくれてやる。長江の渡河を成功させよ。さもなくば、汝ら、ことごとく営門《えいもん》に役たたずの首を曝《さら》されると思え!」  床を踏み鳴らして亮が奥へはいった後、士官たちは暗然《あんぜん》たる視線をかわしあった。三日のうちに渡河を成功させるなど、とうてい不可能である。これが北方の曠《こう》野《や》であれば、金軍の誇る騎兵集団の猛攻で圧倒的な勝利をえられるであろう。  だが騎馬で長江を渡ることなどできようはずもない。水軍が潰滅したため、軍船の絶対数が不足している。何度かくりかえして将兵を輸送するとしても、上陸した部隊はそのつど増援がないままに撃滅されるであろう。つまり、「兵力の逐《ちく》次《じ》投入」という愚《ぐ》を犯し、損害を増やすばかりである。まして先日の宋水軍の練《れん》度《ど》を見ると、金の軍船が無事に長江を渡れるとも思えぬ。 「こうなれば殺すか殺されるかだ」  士官たちは心理的に追いつめられた。亮の発言が単なる虚喝《おどし》とは、誰も思わなかった。采石磯の死闘で敗れた後、かろうじて生還した将兵たちがどのような待遇を受けたか、全員が知っていた。 「|あの男《ヽヽヽ》を殺すしかない」  憎悪と恐怖とが、回避しようのない結論をみちびきだす。だが、それでもなおためらいはある。「あの男」は玉座《ぎょくざ》の主であり、天子を殺すのは大逆《たいぎゃく》の罪にあたるのだ。  完全に決断がつかぬまま、彼らは大本営の外に出た。と、戦場にふさわしからぬ嬌声《きょうせい》が彼らの耳をたたいた。亮が後宮の女たちを車に乗せ、野外の宴遊《えんゆう》に出かけようとしているのだ。数十台の車が大本営からゆるやかに走り出ていく。  雪のようなものが、士官たちの前に舞い飛んできた。それを掌《てのひら》にとって、彼らは愕然《がくぜん》とした。金箔《きんぱく》であった。女たちの車に金箔が貼《は》られており、それが強風に剥《は》がされて飛んできたのだ。士官たちの脳裏で何かが弾《はじ》けた。 「女たちを乗せる車に、惜しげもなく金銀|珠玉《しゅぎょく》を使いながら、渡河に成功した兵士にはたった黄金一両。おれたちの生命の価値は、車の飾りひとつにもおよばぬのか」 「すでに北方では東京留守が新天子として即位した。おれたちがあの男を殺しても、弑逆《しいぎゃく》にはならないのではないか」 「それどころか新天子に対して、これ以上の忠勤《ちゅうきん》はあるまい」 「新天子は仁慈の人だ。|あの男《ヽヽヽ》が玉座に居すわりつづけるより、新天子がとってかわるほうが国のためだ」 「もともと|あの男《ヽヽヽ》は先帝を弑逆したてまつって即位した簒奪者《さんだつしゃ》ではないか。今度は自分が殺されることになっても、因《いん》果《が》応報《おうほう》、誰を責めようもあるまい」 「そうだ、自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》というものだ」 「おれたちに罪はない。おれたちを追いつめた狼主《ろうしゅ》が悪いのだ」 「そうだ、狼主を倒せ」  狼主とは、狼《おおかみ》のように兇悪|獰猛《ねいもう》で、人を害する君主のことである。狼が聞けば怒るにちがいない。いずれにしても、輻輳《ふくそう》する無数のささやきが、将兵たちを決意させた。彼らが冷静さを保っていれば、おなじ声が各処で彼らを煽動していることに気づいたかもしれない。だが、たとえ気づいたとしても、彼らの決意が変わることはなかったであろう。  もっとも有力な将軍のひとり完顔《かんがん》元《げん》宜《ぎ》が決意したことで、その夜のうちに破局が到来することになった。  十一月二十七日の深夜である。完顔元宜は麾下の兵力をあげて、亮の寝所を包囲した。彼は浙西道《せっせいどう》兵《へい》馬都《ばと》統制《とうせい》の地位にあり、五万ほどの兵力を動員することができたが、他の将軍もそれを阻止する気配を見せなかった。否、むしろ協力して「狼主《ろうしゅ》」を抹殺する動きを見せた。全軍が共犯であった。  寝所に乱入したとき、兵士たちを迎えたのは女官たちの悲鳴である。その悲鳴が兵士たちを逆上させ、振りおろされる白刃に血が散って、壁や床に紅《あか》い縞《しま》を描いた。その惨状に目もくれず、豪壮な牀《しょう》の絹の帳《とばり》をはねあげた士官が三名いる。ひとりは納哈《ナハ》幹《カン》、ひとり魯補《ロホ》といった。同衾《どうきん》していた半裸の女官ふたりをはねのけて、牀の上に起きあがった亮は、たけだけしい眼光で侵入者たちを睨んだ。 「何をするか。予は汝らの天子だぞ!」  威をこめて叱《しっ》咤《た》すると、三名のうち二名はやや怯んだ。納哈幹と魯補である。だが三人めの男は大胆に嘲弄《ちょうろう》してみせた。 「天子だと? 汝が天子らしいことを一度でもしたことがあるか。汝は先帝を弑逆したてまつった簒奪者ではないか」 「うぬ、予が簒奪者だと」 「汝を討って国を守り民を救う! せめて最期をいさぎよくせよ!」  叫ぶと同時に、男は剣をかまえて躍りかかった。意味をなさぬ怒号を発して、亮も右腕を伸ばした。大きな牀の端におかれた宝剣をとろうとした。剣を手にすれば、二、三人は斬り伏せる自信があった。だがその動作は緩慢《かんまん》だった。十年以上にわたる美食と荒淫《こういん》と暴飲と怠《たい》惰《だ》とが、彼の反射速度を老人のものにしてしまっていた。  腕を伸ばしきってがらあきになった右|腋《わき》を、男の剣が深く深くつらぬいた。刃は亮の上半身を刺しとおし、剣尖《けんさき》が左の腰骨の上から体外へ飛び出した。異様な呻《うめ》きをあげて亮は硬直した。そこへ納哈幹と魯補が飛びかかり、下腹部と右《う》頸《けい》部《ぶ》を突き刺した。剣を引きぬくと、熱い血が絹の帳を染めて、大輪の椿《つばき》が咲いたかに見えたという。  亮と同衾していた女官ふたりは、恐怖のために失神していたが、亮のたくましい長身が彼女たちの上に倒れこむと、意識をとりもどしてすさまじい悲鳴をあげた。その悲鳴もふいにとぎれて、ふたりはふたたび失神した。 「狼主は死せり!」  帳の外によろめき出て、かすれた声で魯補が喚《わめ》くと、帳の外で歓声がおこった。血に酔った叫びであった。狼主の死体はどうする、焼いてしまえ、といった声が飛びかった。ひとり帳のなかに残った男が、なおわずかに息のある亮の耳もとにささやいた。 「四《スー》太《ター》子《ツ》ご一族の恨み、思い知ったか」  その声が耳にとどくと、死に瀕《ひん》した男は弾かれたように眼を開いた。血の泡にまじって、かすかな声がどす黒い唇の間から洩《も》れた。 「汝は……汝の名は?」 「蕭遮巴《しょうしゃは》」  答えてから、男は低く笑った。 「というのは仮の名だ。おれに名を貸した男は、いまごろ東京遼陽府にいるだろう。おれの本名は黒蛮竜《こくばんりゅう》。亡《な》き四《スー》太《ター》子《ツ》に恩をこうむった者だ。事情がのみこめたか」  それには応《こた》えず、亮は鮮血にまみれた笑いを口もとにきざんだ。 「汝らは蛮人《ばんじん》だ。中華の礼法では、天子を弑《しい》するときには血を流さぬよう毒を使うのだぞ」  たてつづけに血の泡を噴きこぼすと、亮は絶息した。彼が煕《き》宗《そう》皇帝を殺したときには剣を使ったのだが、そのことは忘れていたようである。  金主完顔亮は四十歳。煕宗皇帝を殺して即位してより十二年である。彼は死と同時に帝位を廃され、「海陵王《かいりょうおう》」の称号を与えられたが、やがてそれも剥奪されて庶人《しょじん》とされた。庶人とは無位無官の平民を意味する。それでも『金史』は彼の伝記を「本紀」に組みこんで「海陵紀」と称し、このため歴史の著作では彼を「海陵」ないし「廃帝《はいてい》亮」と呼ぶことが多い。  亮が殺されたのは、岳飛の死後二十年、そして隋《ずい》の煬帝《ようだい》が同じ揚州で殺されてから五百四十三年後のことである。彼は煬帝の栄華と才能にあこがれ、彼のようになりたいと望んだ。そして同じ場所で同じように部下に殺害されたのである。     三  宋軍にもたらされた報告は急であった。 「金軍が北方に移動しつつあります」  最初の報はそれだけであったから、虞允文も子《し》温《おん》も、うかつには動けなかった。軍を返すと見せかけて、宋軍が渡河攻撃をかけたらにわかに反転攻勢に出る。そのような作戦かもしれない。何といっても金軍はなお三十万以上の兵力をかかえているのだ。  だが、つづいて海州《かいしゅう》の魏勝《ぎしょう》からも使者が派遣されてきた。 「海州城の包囲をつづけていた金軍が、包囲を飾いて北へ帰りはじめました。物資も置きざりにして、かなり急いでいるようす。何やら異変が生じたことは、まちがいございません」  この報を受けて、子温たちは推測をかためた。  虞允文、楊折中、それに子温は、軍船に乗って長江を渡り、北岸に上陸した。同行した兵士は三百名ていどであったが、もはや何の危険もなかった。道を進むと、いたるところに金軍の遺棄《いき》した武器、食糧、資材が転がっている。揚州の城市《まち》にはいり、府庁の壁が黒く塗りつぶされている光景におどろいていると、ひとりの男が出てきた。服装は宋人のものだが、呼びかけてきた声に契丹《きったん》のなまりがある。 「韓彦直《かんげんちょく》とやらいう人はどなたかね」  遼が金に滅ぼされた後、何万人もの契丹族が金の支配から脱し、宋に亡命してきた。宋でも彼らを保護すると同時に、外交や軍事に利用し、ことに金国内の契丹族と連絡をとるのに役だててきた。彼はそういった亡命者のひとりらしかった。彼の手から書簡を受けとって、子温は差出人の名を見た。 「ああ、黒蛮竜は健在だったか」  子温は喜んだ。金軍と戦いながら、つねに気になっていたのは、彼や母親と縁があった女真族の勇者のことであった。子温自身の手で幾人も金兵を殺しながら、敵陣にいるかもしれぬ知己《ちき》の身を案じるのは、この時代に生きる者の心情としてはべつに矛盾していないであろう。  あわただしく文面を読み下すと、子温は呼吸をととのえて楊折中と虞允文に告げた。 「金主完顔亮はすでに殺されました。金の全軍は占領地をすてて帰国の途についております」 「……つまり、わが軍は勝ったというわけだな」  老将楊折中がつぶやき、自ら訂正した。 「いや、金の暴君めがかってに敗れたということか。いずれにせよ、本朝《わがくに》のためにめでたいことではある。ただちに陛下にお知らせ申しあげるといたそう」 「劉三相公《りゅうさんしょうこう》の予言的中でしたな」  感心したような声は虞允文である。彼の視線は、黒く塗りつぶされた府庁の壁に向けられていた。そこに劉の筆で「完顔亮死於此」と書かれていたことを、虞允文は契丹族の男から聞いたのである。たしかに、府庁の壁にその六字を記された揚州こそが、完顔亮の終焉《しゅうえん》の地となったのだ。六十万の大軍も、彼の生命を守る盾とはなりえなかった。 「六十万金軍のうち、おそらく完顔亮の味方はひとりもいなかったのだろう」  そう思うと、一瞬、子温は完顔亮の孤独が憐れになった。だがすぐに自分の甘さに気づいて頭《かぶり》を振った。同情すべきは、望みもせぬ戦いに駆りだされた兵士たちであり、さらに同情すべきは、暴君の統治下で荒んだ金兵たちの侵攻を受けた宋の民であるはずだった。 「英雄の美学に殉じるのは当人だけでよい。去る敵をわざわざ追って、よけいな血を流すこともなかろうよ。ひとわたり巡回して民心を安定させたら引きあげるとしよう」  楊折中が断を下した。古来、「帰師《きし》を阻《はば》むなかれ」という。故郷への帰路をいそぐ軍隊を攻撃すると、必死の反撃を受けて大きな損害を出すものである。百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の楊折中はそれをよく知っていた。かくして金軍は、追撃を受けることなく北帰の道をたどった。李顕忠は彼らを追《つい》尾《び》する形で北上し、金軍が淮《わい》河《が》を渡って帰国するのを見とどけてから軍を返した。  亮の訃《ふ》報《ほう》が開封にもたらされると、そこでも将兵が叛乱をおこした。親征する亮にかわって開封を留守《りゅうしゅ》していたのは長子の光英《こうえい》であるが、叛乱軍によって殺害された。わずか十二歳であった。亮は光英の聡明さを愛し、 「予は光英が十八歳になったら天下を譲る。それ以後は朝から晩まで遊んで暮らし、人生の快楽をきわめるつもりだ」  と、つねづね語っていたが、すべては無に帰した。光英は父の乱行に心を傷《いた》めていたというから、気質としては父よりむしろ世宗のほうに似ていたかもしれない。  開封も燕京も、すべての要地が世宗に味方する者の支配下にはいった。ごく短期間のうちに、金においては新天子の威権が確立された。あとは契丹族の大叛乱さえ平定すれば、国内に憂いはなくなる。亮の死後、残党というものはほとんど存在しなかったのである。  子温が建康《けんこう》にもどると、「楊国《ようこく》夫《ふ》人《じん》」こと梁紅玉《りょうこうぎょく》はすでに帰宅の準備をととのえていた。 「良臣《りょうしん》どのが亡くなってから、わたしも世にふたたび出ることはないだろうと思っていた。でも出てみると、けっこうおもしろいことがあるものだね」 「戦勝の祝宴には出ないのかい」 「もうたくさんだね。先だって剣の舞をやったあと腰が痛くてたまらなかったよ。年歳《とし》をとったものだ。家に帰って寝ているのが一番さ」 「送っていこうか」 「そんな暇があったら、つぎはもうすこし楽に勝てる方法でも考えるんだね。妻子ある身でいつまでも親に頼るんじゃないよ」  驢馬《ろば》に乗って、さっさと梁紅玉は西《せい》湖《こ》の畔《ほとり》へ帰っていった。腰が痛い、などという人にはとうてい見えない、姿勢ただしい後ろ姿だった。  梁紅玉は去り、金軍も去った。呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]も出戦の目的をはたして四《し》川《せん》に帰った。すべてはこれで終わるはずだったが、そうはならなかった。勝利をえると同時に、宋の宮廷では主戦論が沸騰しはじめたのである。  この年のうちに、金国に抑留されたまま消息不明となっていた欽宗皇帝の死がようやく公表され、宋の朝廷は哀悼《あいとう》の意をあらわした。これまで「靖康帝《せいこうのみかど》」と呼ばれていた趙桓《ちょうかん》が、「欽宗恭文順徳仁孝《きんそうきょうぶんじゅんとくじんこう》皇帝」という諡《し》号《ごう》をえたのはこのときである。多くの歴史事典は、これをもって、欽宗の没年を西暦一一六一年としている。『金史』ではなく『宋史』の記述を採用しているわけだ。『金史』には西暦一一五六年六月に欽宗が没したと明記されている。  あわただしく戦後処理のうちに日が過ぎて、翌年となった。紹興三十二年(西暦一二八二年)である。この年二月、高宗《こうそう》は建康府に赴《おもむ》いて、対金戦の勝利に貢献した将軍たちの功を犒《ねぎら》った。まったく功績のなかった葉《よう》義《ぎ》問《もん》は、罪を謝して致仕《ちし》を願い出た。高宗はそれを許し、葉義問の失敗については不問に付した。  この年は閏年《うるうどし》で、二月が二回あった。閏二月、劉の死が伝わって、子温を悲しませた。精神的な打撃から立ちなおることができず、憤《ふん》死《し》同然の死であったという。朝廷は生前の彼の功績をたたえ、開《かい》府《ふ》儀《ぎ》同《どう》三《さん》司《し》という名誉ある地位と、武《ぶ》穆公《ぼくこう》という諡《おくりな》を賜《たま》わった。だが形式はともかく、「劉三相公《りゅうさんしょうこう》」と呼ばれて敬愛された老雄の晩年は不遇であった。  その葬儀も終わらぬうちに金軍が海州城を攻め、魏勝によって撃退されている。六月、高宗は譲位して上皇となり、皇太子が即位した。孝宗《こうそう》皇帝である。即位直後、張浚《ちょうしゅん》をはじめとする主戦派が金への出兵を主張した。若い新天子はその意見に賛同しそうに見えた。  子温は異議をとなえた。 「おそれながら、これ以上の戦いは無益かと存じます。すでに北方では完顔雍が即位し、急速に威権を確立しつつあります。彼は文武に練達し、仁《じん》慈《じ》寛厚《かんこう》の長者として信望あつい人なれば、金の軍民は彼のもとに結束いたしましょう」  さらに子温は意見を述べた。 「金軍の総兵力はなお五十万。彼らは完顔亮のために死ぬのは嫌でも、新帝のためには死を恐れますまい」  子温が息をつくと、かわって虞允文が口を開いた。 「長駆《ちょうく》して開封を奪回し、さらに黄河を渡って北へ旌《せい》旗《き》を進めるだけの力は、残念ながらわが軍にはございません。二、三年は兵を休養させて然《しか》るべしと存じます。いま急進しても現地で食糧を調達することはできず、兵を飢えさせるだけに終わりましょう」  虞允文や子温の意見によって、一時、出兵論は葬りさられるかと見えた。  だが老いた張浚は主戦論の権《ごん》化《げ》となっていた。采石磯の勝利を、金を滅ぼして国土を回復する一大|戦役《せんえき》の開幕としたかったのだ。異様なまでの老人の情熱に、若い孝宗は動かされた。彼は張浚を枢密《すうみつ》使《し》に任じ、対金戦役の総指揮を委《ゆだ》ねたのである。出兵に反対した子温は軍職を解かれ、虞允文もまた後方に残された。かくして、再開された対金戦役は、子温たちの物語ではなくなる。  李顕忠や成閔《せいびん》にひきいられた宋軍は、淮河を北へ渡って金の領土へ侵入した。金軍の抵抗はほとんどなく、黄河までの領土を回復するのは数日のうちと思われた。  だが、ほどなく金軍の大反攻がはじまる。  即位して世宗皇帝となった完顔雍は、長期にわたる契丹族の大叛乱を平定するのに成功したのだ。幾度かの戦闘に勝利した後、重臣を派遣して降伏をすすめたのである。派遣された重臣というのは、場州で完顔亮を殺した完顔《かんがん》元《げん》宜《ぎ》であった。彼はもともと遼の貴族であったから、これは適任であったといえる。  世宗は仁慈の人であり、また約束を破ることはけっしてない。これまで世宗がきずきあげてきた人間的な信用が役に立った。契丹族は武器をすてて降伏し、寛大な処置を受けることになった。一部の契丹族は降伏をいさぎよしとせず、一万里の道を西へ走っで西遼《カラ・キタイ》に投じることになるが、それは異なる国の歴史ということになる。  国内の平和を回復した世宗は、三十万の軍を南へ向け、宋との間にいくつかの戦闘をまじえた。異色の武将である魏勝《ぎしょう》が戦死したのはこの間である。やがて金軍は符離《ふり》の会戦に大勝して、宋軍の北上を完全に阻止《そし》した。宋の主戦派の悲願は潰《つい》えた。     四  こうして、宋の乾道《けんどう》元年、金の大定五年、西暦一二八五年。第二次の和約が宋金両国の間で結ばれる。前回の和約に比べ、今回はやや宋に有利な内容となっていた。あらためて国境を確認し、宋が金に支払う平和保障費も、これまでは銀二十五万両、絹二十五万匹であったが、減額されて銀二十万両、絹二十万匹となった。その名称も「歳貢《さいこう》」から「歳幣《さいへい》」となったが、これは「属国《ぞっこく》からのみつぎもの」という意味を薄めたのである。  さらに儒者たちを喜ばせたことがある。これまで宋の皇帝は金の皇帝に対して「臣」と称さねばならなかったが、この和約成立後は「姪《おい》」と称すればよくなったのである。姪という文字は、この場合、甥《おい》という意味である。ささいなことのようだが、国家の面目《めんぼく》という点では、当時は重要なことであったのだ。  この和約が成立したことによって、宋金両国は平和共存の状態となり、鉄木真《テムジン》の子孫たちに滅ぼされるまで、金は七十一年、宋は百十四年の命脈《めいみゃく》を保《たも》つのである。  和約成立以前に、頑強な主戦派の張浚は死去した。生きていれば、和約に反対してやまなかったであろう。信念は人を強くすると同時に視野を狭くもする、ということを証明するような六十八年の生涯であった。  和約成立の二年後、呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》が六十六歳で没した。彼の死によって、「抗金名将《こうきんのめいしょう》」と呼ばれる人々は、すべて地上から姿を消した。  退位して上皇となった高宗は、なお生きつづけた。彼は壮年のころ、丞相《じょうしょう》であった秦檜《しんかい》より長生きしようと決意し、その決意を実現させた。平和と安息のうちに彼が死んだのは八十一歳のとき。秦檜の死後三十二年を経てのことであった。  講和成立以後、孝宗は、武力による国土回復を断念し、内政に力をそそいだ。二十七年間の治世は、宋に空前の繁栄と平和をもたらし、その財力は北宋時代の最盛期をしのぐものとなった。それにともなって学問と芸術もいちじるしい発展をとげた。  虞允文は対金戦争に勝利した智将として、かがやかしい名声をえた。功によって川陝《せいせん》宜《せん》論使《ゆし》という地位に昇進したが、宮廷では保守的な重臣たちに嫌われて、三、四年の間はむしろ閑職《かんしょく》にまわされた。金との講和が成立すると、孝宗皇帝は彼を召して、一挙に参《さん》知《ち》政《せい》事《じ》(副宰相)に昇進させた。最終的には彼の地位は左丞相《さじょうしょう》と枢密使を兼任するものとなり、宋の国家戦略の最高指導者となった。彼は絶対的な平和主義者というわけではなく、何十年という長い単位で宋による天下の再統一をめざしていたようである。第一段階として、四川から北上して黄河上流地域を回復する、その後に東方へ進撃する、という戦略を立てていた。これは南北朝時代に北周《ほくしゅう》が北斉《ほくせい》を征服した例に倣《なら》ったものであろう。だがそれは実現せず、虞允文は何人ものすぐれた官僚政治家を育成することで国家に貢献し、孝宗の淳煕《じゅんき》元年(西暦一一七四年)に没した。諡《おくりな》は忠粛公《ちゅうしゅくこう》である。  梁紅玉の没年は不明であるが、その晩年は穏やかなものであったらしい。ほとんど西《せい》湖《こ》湖畔の翠《すい》微《び》亭《てい》にこもって、ほど近い臨安《りんあん》府《ふ》の城門をくぐることさえ、めったになかった。  その彼女が建州《けんしゅう》という土地を訪れたことがある。後世の福建省《ふっけんしゅう》の山間、閔江《びんこう》という河の上流である。従僕二名のほかに十歳ぐらいの少年をひとりともなっていたというから、子温の子であろう。季節は春で、里郷《さと》は桃の花につつまれ、河《かわ》面《も》は白と淡紅の花びらにおおわれていた。里郷のはずれに緑山《りょくざん》という山があり、その麓《ふもと》に、二本の桃の大樹にはさまれて小さな祠《ほこら》が建っていた。韓世忠を祭った祠である。かつてこの土地に苑汝《はんじょ》為《い》という賊があらわれて掠奪《りゃくだつ》と殺人をほしいままにし、韓世忠によって討ちとられた。以後、建州の人々は韓世忠の徳を敬《うやま》い、祠に祭ったのである。  祠を拝する祖母を見て少年がいった。岳忠烈公《がくちゅうれつこう》(岳飛)は京師《みやこ》にりっぱな廟があるのに、祖父《そふ》君《ぎみ》はこのような山間に小さな祠があるだけなのですか、と。 「お祖父《じい》さまにはこれがふさわしいのだよ」  少年の頭をなでながら梁紅玉は答え、祠のなかに立つ韓世忠の木像をながめて、やや残念そうにつぶやいた。 「でも、どうせなら、もうすこし美男《いいおとこ》に造ってくれればよかったんだけどねえ」  祠を守ってくれる人に銀百両を渡して後々のことを頼むと、梁紅玉は少年をつれて立ち去った。話を聞いて建州の知事が歓待のために駆けつけたときには、すでに姿が見えなかった。ただ無人の祠に桃の花びらが散りかかるばかりであったという。  講和成立後、子温は文官職に復帰した。彼はけっして器用ではなかったが、誠実で見識に富み、清廉《せいれん》であることから、孝宗皇帝より深い信任を受けた。官は工部尚書《こうぶしょうしょ》、臨安府知事、戸部《こぶ》尚書などを歴任したが、しばしば海賊や群盗《ぐんとう》の討伐にあたり、甲冑《かっちゅう》をつけての功績も多かった。外交使節として金国へ赴《おもむ》いたこともあり、そのときは旧知の人々と再会したと思われる。文人としても、百六十七巻におよぶ宋朝一代の歴史書を著《あらわ》し、「水心鏡《すいしんきょう》」と名づけた。これは朝廷が国史を編纂《へんさん》するにあたり、重要な資料のひとつとされた。死去したのは孝宗の後、光宗《こうそう》の御宇《みよ》であり、死にあたって※[#「くさかんむり/(單+斤)」、unicode8604]春郡公《ぜんしゅんぐんこう》の爵位を贈られた。  孝宗の御宇に、岳飛の名誉が回復され、没収されていた財産が岳飛の遺族に返還されることになった。そのとき返還の事務にあたったのが子温である。三十年近くの間に、岳飛の財産は、不正をはたらく官《かん》吏《り》や豪族によって横領され、大半の行方がわからなくなっていた。子温は綿密な調査によって、失われた財産のすべてを捜《さが》しだし、回収して、銅銭一枚も欠けることなく岳飛の遺族に返還した。人々はその誠実さを賞賛してやまなかった、と、『宋史・韓彦直《かんげんちょく》伝』は記している。